後編 接触の確率
朝、都市の唸りが弱かった。
中央安定器群が夜半に位相の再補正を行ったのだろうが、その強度がどの層でも揃っていない。都市はいつも通りの密度を保とうとしているのに、皮膚で感じる世界の厚みが、ほんのすこし薄い。
僕は局に向かう階段で、足が軽く浮くような錯覚に襲われた。
階段の段差が、どの層でも同じ高さではなく、無意識に微調整して歩くはずの僕の体が、いまは何に合わせればいいのか分からない顔をしている。
靴底が床に触れる瞬間、別の層の靴底と同時に触れた気がした。
都市は重く、僕は軽い。重さと軽さの境界が、今日という一日の端に微かな歪みを生んでいた。
局のエントランスで、係長が立ち止まり、僕を見るより半拍遅れてまばたきした。
「また現場へ行くのか」
係長の声は低いが、奥に微細な揺れがあった。揺れは怒りでも心配でもなく、ただのずれだ。
都市の揺らぎが、係長の喉の奥まで届いている。
「まだ報告をまとめていません」
僕は言う。
「まとめてから行け」
係長は決裁印を机の端に落とし、不在の誰かの層に向けて「おまえもだ」と言い残した。誰に言ったのかは、分からない。係長の隣の層に、係長に文句を言い返す誰かがいたのだろう。
二つの層の口喧嘩は、僕の耳には片方だけしか届かない。都市ではそれを片争いと呼ぶ。
席に戻り、端末に触れると、昨夜の接触ログがまた増えていた。
《接触:声》《接触:温度》《接触:影》《接触:時間》——最後の項目に目を奪われる。
時間の接触はほとんどない。位相のずれではなく、時間の層そのものが重なる現象。
読み進めると、ログのタイムスタンプが前後に揺れていて、現在、過去、現在、過去、未来、現在、と順番を保っていない。
「明らかに異常だ」
僕は息を呑んだ。
これが起きるのは、都市全体の層構造がほんのわずかに陥没するときだけだ。
都市地質学者たちはそれを“層の呼吸”と呼ぶが、滅多に起こらない。都市規模での呼吸は、膨大なエネルギーを伴う。接触の確率が跳ね上がる。
昼前、僕は旧運河へ向かう。昨日の紙切れをポケットに入れて。
橋の上で、雨の代わりに薄い光が降っていた。
光は粒ではなく膜で、膜は層ごとに微妙に色を変え、僕の視界に不鮮明な虹を形成する。
欄干に触れず、ただ手を浮かせる。
そこに、温度のない温度があった。
空気が手の形に沿って流れを変える。
僕の手ではない。手の影が僕の手を撫でる。撫でられた空気が、僕の皮膚に伝えてくる。
「いる?」
僕は言った。返事はなかった。
しかし、返事をしようとしている気配があった。気配は、返事ではないが、返事の手前にある橋だ。橋は揺れる。橋は生きている。僕は目を閉じ、耳を澄ます。
「……見える?」
昨日の紙の一行と同じ言葉。
音は薄く、しかし昨日より輪郭があった。
僕は静かに息を吐き、声の方向を探る。声は一点ではなく、複数の層で同時に発生していた。
二つ、三つ、五つ。
僕を呼ぶ声が、位相を揃えようとして揺れている。
揃う直前の声は震えるのだ。
「見えない。でも」僕は胸の奥に残っていた昨夜の熱を引き寄せる。
「触れたことは、覚えている」
風が止まった。止まったのに、運河の流れは止まらなかった。風が止むことと水が止むことが一致しない。
そこに違和感はあるが、今日の僕は違和感を数えなかった。違和感が多すぎるからではない。違和感のほうが正確だからだ。
「あのね」
声が言った。
年齢も性別も、音の質感も曖昧だが、昨夜の声だと分かった。
「あなたの層、揺れてる」
「知ってる」
僕の声は自分のものに聞こえない。
「揺れてるから、重なりやすいよ」
「危ない?」
そう言った瞬間、欄干が僕の掌に熱を返した。
昨日より強い熱。都市の重さが僕の手の位置に偏った証拠だ。
「危なくはない。ただ——珍しいだけ」
珍しい。都市に珍しいことがあるのか。人口一阿僧祇人の都市で、珍しい現象が起きる確率は限りなく低い。限りなく低いが、ゼロではない。ゼロではないから、起きる。起きてしまう。
「名前は?」
僕は言った。空気が震えた。
「言えるほど、揃ってない」
声は笑ったように聞こえた。
層の揺れが笑うとき、周囲の層も微かに揺れる。揺れは笑いの形をしているので、都市はそれを“笑層”と呼ぶ。笑層に触れると、他人の感情がわずかに伝導する。僕の胸の奥が温かくなった。
「あなたは?」
声が返す。
「言ってもいい」
僕は名前を言った。名前は、音よりも記号よりも、位相の癖に近い。
名前を言うと、僕の層が声と一瞬だけ揃った。
揃った瞬間、運河の水面に僕の姿が二人分映った。
ひとつは僕自身。もうひとつは、僕ではない誰か。顔は見えない。位置がずれている。
でも、そこに、誰かがいた。
風が戻り、都市の唸りが強くなった。
安定器が僕たちを離そうとしている。橋の構造がきしむ。欄干の熱が弱まる。
僕は手を離す気になれなかった。
「また」
声が言う。昨日と同じ言葉。昨日と違う響き。誰かを呼ぶ声ではなく、誰かと重なる声。
「また、ここで」
風が橋の上を掃き、僕の手は空中に浮いたまま、熱を失う。
声が消える。声が消えたあと、僕は呼吸を忘れていた。呼吸は経済ではないが、都市の密度の中では、呼吸すらも隣人の呼吸と同期する。僕は自分の肺が、自分だけのものではない感覚を、ほんの一瞬だけ味わった。
局に戻ると、時間接触のログが大量に増えていた。
《接触:時間層干渉》という警告の赤が画面の右端に列を作っている。
職員たちがざわざわと声を潜め、ただならぬ気配を共有している。
「都市の層、ずれすぎてる」
「調整が追いつかないらしい」
「再補正まで、どれくらい?」
「三日、いや、三秒?」
「どっちだよ」
「どっちもかも」
日常を支えていた位相の均衡が、今日だけ、妙に脆い。都市全体が呼吸を忘れたみたいに、層と層の境界が溶けている。
端末に通知が来た。
《接触:会話(継続)》継続。
継続という文字列を、僕はしばらく見つめた。
接触は瞬間のものだ。継続は、ありえない。継続とは、位相が”重なり続けている”状態。報告書では不可能とされている。それなのに、継続のフラグが立ったまま、消えない。
「どういうことだ……」
ログの波形は揺れていた。僕と声の主の波形が、再度、揃いかけている。揃いかけて、ずれ、揃いかけて、ずれ。その繰り返し。揃いかける部分が増えている。
「出るな」
係長が僕を呼んだ。
「今日は局から出るな。都市の層が危険だ」
係長の目は揺れている。位相が揺れているのではなく、係長自身が揺れている。都市のずれが、感情にまで伝播している。
「すみません」
僕は言って、カードキーを抜いた。
「出ます」
係長は舌打ちした。
僕が層をずらしてエレベーターに乗ると、係長がこちらを掴むはずだった腕が空を切った。彼の層と僕の層が、初めて、完全に離れた。
旧運河は、今日だけ、異様に静かだった。人も、音も、風も、すべての層が聞こえない。
水だけが流れていた。層を越え、時間を越え、都市を貫いて。この流れだけが、都市の密度に左右されない。
橋に立ち、欄干に触れず、手を浮かせる。何の期待も言葉もなく、ただ手を浮かせる。
世界が、静かに、そこに集まった。
「……いるよ」
声が言った。
僕は目を閉じた。
今度は、涙の気配があった。
涙はどの層にも属さない。感情の輪郭が溶けて落ちるとき、その重さは層を無視する。
「見える?」
僕は言った。
「見えるよ」
声が震える。
見えていると言ったその瞬間、風が戻った。全層の風が、同時に戻った。都市全体が一度だけ呼吸をして、一度だけ息を震わせた。
僕は目を開けた。
そこに、影があった。濃い影ではない。輪郭が滲み、中心が揺れ、層が重なった結果“こう見える”姿。
顔は見えない。背丈も判然としない。服の色は層ごとに違い、髪は長くも短くもなく、しかし確かにそこに立っている。
立って、僕を見ている。
視線は顔の形よりも先に届く。
「あなたが」
僕は言った。
影がうなずく。
「あなたが」
影は言った。
その瞬間、二つの声が重なった。重なり、揺れ、ひとつの波形に変わった。
都市の唸りが完全に止まった。安定器が沈黙した。層の調整が途絶え、都市全体の位相が自由になった。自由になることは危険だ。しかし、危険より先に、美しさがあった。
水面の反射が、何京層にも重なって、初めて揃った。揃った光の形が、運河の面に広がった。その光の中心に、僕と影がいた。
「名前」
影が言った。
「まだ揃わないけれど、言うね」
影は手を伸ばした。
僕も伸ばした。
触れた。
触れた瞬間、あらゆる層が一度だけ揃った。
都市の重みが僕たちの手に集中し、僕はこの都市の全員と同時に立っている感覚を味わった。重なりは一瞬だったが、一生分の重みがあった。
影が名前を言った。
音は、都市のどの層でも聞き取れないような微かな響きだった。微かで、しかし完璧に届く音。
それが名前だった。名前が、都市の層をゆっくりと振動させた。都市の振動は涙のように降り注ぎ、運河に落ちた。影の顔が、昨日より少しだけ形を持って見えた。
風が戻り、安定器が再起動し、層はまた均衡を取り戻した。
影の姿は薄れ、輪郭は揺れ、消えた。
僕は欄干に触れた。冷たかった。冷たさの中に、熱が残っていた。熱の残骸が、手のひらにかすかな脈を残していた。
局に戻ると、端末に新しいログ。
《接触:共鳴》共鳴。
これは見たことがない。
僕はログを開き、波形を見た。僕と影の波形が、一瞬だけ完全に一致していた。
波形の一致率は——百分率ではなく、整数で表示されていた。
数字は「1」。
一。世界で、ただの一。人口一阿僧祇人の都市で、一対一の一致。
僕は椅子に座り、深く息を吸った。
息には香りがあった。
オレンジの皮の渦。雨の匂い。橋の欄干の鉄の匂い。誰かの声の匂い。
僕が目を閉じると、声が言った。
「また」
声は消えても続く。
「また、ここで」
僕は答えた。
「いるよ」
そして、再び手を胸に置き、掌に残った熱を確かめた。
人口一阿僧祇人の都市で、重なる確率は、一阿僧祇分の一。奇跡ではない。確率だ。確率なら、いつかまた起きる。確率なら、信じられる。
——だから僕は明日も、橋へ行く。
——そこにいる誰かと、重なるために。
この世界には住みたくないなー。
とはいえ、世界はこのようにできているのかもしれなかったのです。
なんつって。◝('ω'◝)




