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前編 層の都市

(~ ˙꒳˙ )~ ちょっと長くなったので2分割。

 朝、目を開けた瞬間に、千京の光が同時に差し込んだ。窓ガラスは一枚、だが層は数えきれない。

 すべての太陽が、ほとんど同じ場所から、ほんのわずかに違う角度で僕の顔を照らしている。

 光は重なり、音は分解され、匂いは薄膜になって揺れ、時間だけが、各層ごとに粘度の違う液体みたいに流れている。


 ここは人口一阿僧祇人の都市。

 人の数に比べれば、地面の分子のほうが少ないから、僕らは互いの位相をずらして生きる。

 目に見える他人は、同じ層に偶然位置合わせしてしまった事故だと、学校で最初に習う。


 歯を磨き、口腔内の反射に重なった十垓の朝が一瞬ざわめく。

 水道のレバーはひとつだけど、わずかな力加減の違いで僕の層と近傍層の蛇口が同期したり外れたりするから、流れ落ちる水の縦線は、何億本見ても一本の錯視だ。


 トースターにパンを差し込み、ダイヤルを二メモリ回すと、隣層の誰かがやはり二メモリ回す気配がして、ダイヤルが指の下でわずかに重くなる。

 パンが焼ける匂いはいつでも少し哀しい。誰かと同じ朝食を食べているのに、決して一緒に食べることはないと知っている匂いだから。


 僕は接触記録局の職員だ。正式名称は「位相接触現象記録・解析・予防統括庁 都市第三分棟」だが、長いので誰も覚えない。仕事は単純で、都市全域から上がってくる“接触”の報告を整形して、再発確率を低下させるための通知を出す。

 

 接触とは、二つ以上の位相が許容範囲を超えて一致し、実体的な干渉が発生すること。

 わかりやすく言えば、ぶつかる、潰す、重なる、壊す、あるいは、触れる。そのどれもが日常にとって危険で、理論上は統制可能とされている。

 でも、理論上という言葉は、僕らの仕事がなくならないという意味でもある。


 玄関扉を開ける。

 廊下は同じ幅のまま、何京層にも重なって奥へ伸びる。

 足音が響くと、別の層の足音がわずかに遅れて重なって、僕は自分が複数人の行列になって動いている錯覚に落ちる。


 階段で誰かと擦れ違った気がして立ち止まると、そこには誰もいない。

 気のせいではない。

 擦れ違ったのだ、ただし視えないだけで。


 僕たちは都市の密度を保つために、微細な位相制御を身につけて成長する。子どもはよく転ぶ。位相の習熟が足りないから。

 老人はよく立ち止まる。世界が騒がしすぎて、自分の位置が不確かに感じられるから。


 通りに出ると、空気の層が押し合って、遠いサイレンが砂粒みたいに散ってくる。

 横断歩道は白黒の帯が重なって、層ごとに微妙に位置が違う。

 信号機の円はどの層でもだいたい丸いが、ときどき菱形に見えるのは視神経の累積疲労のせいだと言われる。

 僕は青に近い緑を渡り、駅まで歩く。


 電車は理論上、一車両に十垓人が乗れる。

 現実には各層の車両が同じレールに重なって走るから、ホームに立つだけで風が千の方向から同時に吹き、髪がまとまりなくちらつく。

 ホームの柱に埋め込まれた位相安定器の微かな唸りが、都市の心音のように背骨を震わせる。

 接触記録局で働く人間は、この唸りが止まると眠れない。静かさが怖いのだ。

 静かさとは、何かが合ってしまいそうな予感だから。


 オフィスに着くと、窓外にまた別の窓外が重なっていて、そこに見える街路樹は、それぞれがわずかに芽吹きの位相をずらしている。風が吹くと葉脈の影が千層の机に降り注ぐ。


 席に着き、端末を立ち上げると、夜中の接触ログが大量に溜まっていた。

 いつも通り、ほとんどは“無害接触”だ。

 枕元の空気が瞬間的に固くなった気がする、壁の隙間が音を立てずに二倍になった、指輪が冷えた、鏡の中の自分が一瞬遅れた、といった報告は、統計処理で丸ごと薄めて、安定器の設定を各地区に配信する。

 誰も傷ついていないなら、接触は都市のノイズだ。問題は“痕跡あり”のフラグだ。物質の変形、熱の異常、匂いの付着、そして、記憶。


 一件、異様に長いフラグが目に留まった。

 件名は《接触:声》。

 提出は深更。場所は第七環状層、旧運河沿いの遊歩道。発報者は氏名未記入。


 ログの添付を開くと、最初の二秒はただの都市ノイズ、次の一秒に、確かに、人の声が混ざった。

 かすかで、何重にも折り畳まれて、意味を判じようとすると指の隙間から砂がこぼれるみたいに逃げていくが、それでも声だった。

 声は、重なって、薄くて、遠くて、しかし、たしかだ。


 僕はイヤーパッドを密着させて再生し直す。

「……そこにいるの?」


 そう聞こえた。あるいは「そこといるの」、あるいは「ここに、いるの」。位相ずれのせいで助詞がばらける。

 言語学の同僚に回せば波形解析で近似が出るが、今日は回さなかった。胸骨の奥で何かが返事をした気がしたから。


 現場に行く許可は要らない。接触記録局の身分証は、都市の位相管理局にも認識される。

 昼休みを少し早め、第七環状層へ向かった。

 旧運河は今も水を流しているが、流れは層ごとに僅かに速度が違うので、日差しが水面に刻む線は、見る角度を変えるたびに別の世界に入ったように見える。

 遊歩道には人がいた。見えないけれど、いた。気配の輪郭が、僕の皮膚の上でざらついている。


 位相の密度が高い場所は、髪の一本一本に静電気のような感覚が乗る。安定器の杭が等間隔に立って、地面の下で金属の根が複雑に組まれているのが足の裏に伝わる。

 杭の頭に手を触れて、温度を測る。正常だ。杭の振動は規定値、都市の心音は安定。

 それなのに、ここでは、昨夜、声が出た。


 遊歩道の端、古い橋のたもとに、薄い影。

 その影は光の層の一枚をわずかに歪めて、僕の視界に、曖昧な輪郭の“佇む気配”を残した。

 僕は足を止めた。深く息を吸い、吐く。


 肺の内側に、自分ではない呼吸の気配が触れる。

 僕の層と近傍層の空気が、いま、薄く重なっている。


 たぶん相手も息を止めた。僕は声に出さない声で言う。

「そこにいるの?」

 

 返事はない。

 代わりに、運河の流れが一瞬だけ遅くなった気がした。僕が錯覚するように、相手も錯覚する。

 錯覚は位相の橋だ。錯覚が多い場所は危ない。橋は渡れるが、落ちることもある。


 帰庁して、報告書の欄外に私見を挟むのは禁じられている。だから僕は書かなかった。

 ただ「現場確認、安定。追加観測を継続」と打ち込むと、端末の脇のコップに注いだ水面が、誰かの指で触れられたみたいに波打った。


 振動源を探す。外でもビルの内でもない。どこにもない。

 いや、ある。

 僕の層と別の層の、机の同じ角。指が置かれた。そこでは、たぶん、僕がいない。そこでは、別の誰かが座っていて、僕の机に手を置いて、考え事をしている。

 考え事の重さは、水面に伝わるくらいには重い。


 夜、眠る前に、僕は自分の層の位相を一メモリだけ下げる。眠りのために都市が推奨する設定だ。夢を見るとき、近傍層の夢が混ざらないように。あるいは、混ざってもいいように。


 暗い部屋で目を閉じると、遠くから雨音が近づいてきて、天井のどこにも雨は当たっていないのに、体は濡れる前の匂いで満たされる。

 眠りの手前で、昨日の声がもう一度鳴る。

「……そこにいるの?」

 僕は夢の中で、はっきりと頷いた。頷いたという事実だけが、朝まで鮮明に残った。


 翌日、局は少し騒がしかった。都市中央の巨大安定器群で、一瞬だけ同期が強く効きすぎたらしい。同期が強すぎると、層と層の隙間が一時的に狭まる。

 それはつまり、接触の確率が上がるということだ。


 事故はなかったが、街のどこかで誰かが誰かと肩をぶつけ、どこかで誰かが誰かの手の温度を受け取り、どこかで誰かが誰かの声を聞いたのだと思う。

 窓際の同僚がぼそりと言った。

「今日、エレベーターの中で、重かった気がする」

 別の同僚が嗤う。

「寝不足だろ」

「おまえもな」

 誰も嘘をついていない。僕らはいつだって少しずつ重いのだ。

 世界全体が、互いの位置で負い合っている重さ。


 昼、簡素な食堂でスープを啜る。

 味は薄い。

 都市の標準食は層間の味覚差を平均化するように設計されているから、濃いものは個別に調整しないと破綻する。


 隣の席に、誰も座っていないが、椅子の脚の金属が床を擦る音がした。僕はフォークを置かず、あえてもう一口スープを飲んだ。

 そこにいるのは、誰にでも起こる偶然ではないと、昨夜から思っていた。

 偶然に形があるなら、それは昨日の橋の欄干の冷たさに似ている。


 午後、旧運河のログがまた上がってきた。

 《接触:温度》。

 短い、しかし鮮明だ。二秒間だけ、空気の温度が人肌まで上がり、すぐに元に戻った。

 記録の位置は橋のたもと。


 僕は外回りの許可を申請して、係長の机の端に電子印をもらう。

 係長は顔を上げずに言う。

「降雨の予報が出ている。安定器が濡れると唸りが強くなる。耳の奥の膜を守れ」

 僕はうなずいた。人差し指の腹で机の同じ位置を軽く押すと、昨夜の水面の波が掌に蘇った。係長の机のここにも、きっと誰かが座って、指を置いたのだろう。


 現場は昼下がりの白い光に揺れていた。

 雨はまだ降っていないが、空気の膜が厚く、音が遠い。

 橋の欄干に肘を置く。冷たい。人肌まで温まるには、二秒は短すぎる。


 誰かの掌が、ここに、正確に、置かれた。僕は掌を欄干に重ね、手首の位置を少しずつずらして、電車の発車間際みたいに心臓が早くなるのを黙ってやり過ごした。

 風が弱まり、運河のひかりの筋が増える。耳の奥で都市の唸りが遠のく。安定器は正常に稼働しているのに、唸りが遠のくというのは、つまり、僕の層が、わずかに、近づいたということだ。

 何に。誰に。


「……そこにいるの?」

 声は、今度ははっきりと届いた。

 僕は驚かなかった。驚きは後だ。先に返事をしなければいけない。

「いる」

 喉を使わず、肺で言った。言葉は空気に混ざらない。混ざらなくていい。

 位相の間で、意味だけが、薄いフィルムみたいに滑っていく。


「見える?」

 その声が少し揺れた。僕は正直に言った。

「見えない。けれど、わかる」

 欄干が、僕と相手の手の形でわずかにひずむ。

 金属の結晶が、分子の配列で、二つの手の圧を記録する。都市の重さが、その二点に集中する。橋が少しだけ軋む。

 誰も気づかない。気づかないで、と僕は思う。いまは、誰にも邪魔されたくない。


「あなたは、ここに住んでる?」

 相手の声は若いとも老いているとも言えない。

 層によって年齢の印象が変わることはよくあるが、この不確かさは、そのどれとも違った。


「住んでる。あなたは?」

「住んでる。たぶん、近い」

 近い、という言葉は、この都市では曖昧だ。物理的には同じ場所でも、位相が遠ければ、どれだけ歩いても一生出会わない。

 逆に、物理的に離れていても、位相が合えば、指先は触れる。


「昨日、聞こえた」

 と僕は言った。

「昨日?」

 相手は少し間を置いた。

「私には、今日が、二度目の昨日に見える」


 雨の匂いが強くなる。

 時間の層が微妙にずれて、言葉の昨日が一致しない。

 僕たちは同じ都市を生きているのに、別の暦で呼吸している。


 足下の石畳が、わずかに浮く。安定器が唸りを強める。都市が、理想の密度に戻そうとする動作だ。

 橋の欄干から掌を離したくなかったが、離した。

 離して、空中に同じ高さで手を保った。そこに、確かに熱が残っていた。


「また」

 相手が言う。風がページをめくるみたいに、運河が少しだけ早く流れた。

「また、ここで」

 言葉はそのまま薄れて、僕の耳殻に残った余韻が、自分の声だったのか相手の声だったのか判然としないまま、都市の唸りが規定値に戻る。

 雨が一滴、頬に触れた。誰の涙とも違う、純粋な水。


 局に戻ると、端末の通知が点滅していた。

 《接触:会話》。

 自動検出は優秀だが、いつも遅い。すでに終わったやりとりを、都市は丁寧に記録して、僕に返す。


 ログを開く。

 波形は、僕の声と相手の声を、同じ幅の影として並べている。

 話者識別のアルゴリズムは二名と判断、性別不明、年齢推定誤差±二十年、位相差は標準偏差八。

 標準偏差八は、接触の手前。

 触れられないが、言葉は届く距離だ。


 報告書のテンプレートに数字を埋めながら、僕は欄外に私見を挟みたくてたまらなくなる。

 禁じられているから、記憶のほうに書きつける。僕の記憶は、局には提出しないノートだ。

 ノートは頭の奥の暗い棚に置く。棚の埃は重く、たまに咳が出る。


 夜、再び位相を一メモリ下げる。

 眠りの手前で、僕は自分の部屋の空気が柔らかいことに気づく。

 窓の外で雨は降っていないのに、窓ガラスの向こう側の層では雨が降っている。

 その音が、よく磨かれた器に指を触れたときみたいな澄んだ低音で続いている。


 世界はうるさいのに、静かだ。静かなのに、うるさい。

 目を閉じると、欄干の冷たさと手の温度が同時に戻ってきて、僕はひとつの映像を見る。

 運河の水面に、重なった街の灯りが幾千もの揺れを描き、その揺れの中で、ひとつだけ、揺れない光がある。

 そこが、重なる場所。そこへ行けば、たぶん、もう一度。


 翌朝、都市の唸りは少し強かった。中央の安定器群が再調整をかけたのだろう。

 層間の距離がふたたび広がり、接触確率が平常値に戻る。端末に通知。

 《接触抑制達成(全域)》。

 僕はその文字列を眺めて、何も感じないわけではなかったが、感じたものを名づけなかった。

 言葉にすると、そこから溢れ出て、戻らなくなるから。

 名づけはいつだって危険だ。名づけは位置合わせだから。


 午前の書類を終え、昼前に外へ出た。

 空は薄く晴れて、風が紙の端をそっと持ち上げる。

 旧運河は昨日と同じ場所にあって、昨日と同じ流れ方ではなく、同じきらめきではなく、同じ匂いではなかったが、僕の足は同じ石を踏んだ。

 橋のたもとに立ち、欄干に触れず、ただ空中に手を上げる。


 そこに、熱はなかった。熱はなかったが、冷たさもなかった。温度のない場所に、手が浮いている。数を数える。十まで数えて、数えるのをやめる。

 数は、こういうとき役に立たない。数は世界を分解するけれど、重なる瞬間は、分解の外側で起こるから。


「そこにいるの?」

 僕は言った。

 言葉は空気に混ざらず、位相の綴じ目に沿って滑っていく。

 答えは、なかった。なかったが、遠くの列車の風が一呼吸分だけ遅れて頬に触れ、その遅れが昨日と同じ幅だと感じた。

 感じることと、知ることは違う。違うが、今日の僕には感じるほうが正確だった。


 うしろで靴音。振り向くと、誰もいない。

 靴音は、たぶん、同じ層の別の時間から流れてきた。都市では時間も薄く重なる。時間の重なりは、記憶の縁をほつれさせる。

 気をつけろ、と係長の声が、過去形で頭のどこかに残っている。


 帰り道、商店街のシャッターが半分降りて、半分開いている。

 開いているほうの層では、果物屋がオレンジの皮を剝いている。剝かれている層では、剝き終えた皮が丸い渦に美しく積み重なっていた。

 閉じている層では、誰もいない。誰もいない店内に、剝かれなかったオレンジの香りが満ちている。

 香りは層を越える。香りはいつも法を破る。だから香りは取り締まられない。取り締まられないから、都市のどこでも、香りだけは真実だ。


 その夜、僕はレポートの最後に短い文を挿入した。禁じられていない形式で、しかし、意味がはみ出すように。

「観測継続。接触再発の可能性あり。人的被害の恐れ——微細」

 そして送信しないほうのレポート、つまり、僕だけが読む文章に、長い一文を記した。


 気づけば、行は右端まで伸びて、次の行も右端まで伸びて、息をする場所がなかった。

 僕は息を止めて読み返した。

「声は確かにあった。欄干は二秒だけ温かかった。僕の手は、ここにあって、そこにもあった。重なる確率は、一阿僧祇分の一。だから、それは、あり得る」


 都市の唸りが、少しだけ低くなる。

 眠りの前、窓の外で、遠い層の雷が光る。音は届かないが、光は届く。

 僕は目を閉じ、昨夜の冷たさと温かさのちょうど中間を思い浮かべる。

 そこに、掌を置く。置いた気がする。置いたと思う。置いたのだと思い込む。

 どれでもよかった。重なる瞬間は、いつだって、そういうふうに始まる。


 翌朝、局に出ると、机の上に一枚の紙。紙は今どき珍しい。

 印字ではなく、手書きでもなく、しかし筆圧の跡があった。

 誰が置いたのか、誰の層から届いたのか、誰にもわからない。


 紙には、たった一行。

「見える?」

 文字は崩れて、層で滲んで、読みやすくはなかったが、僕には読めた。

 見える。見えないけれど、見える。

 僕は胸ポケットに紙をしまい、窓の外を見た。光は千京の方向から差し込んで、都市はいつも通りに重なっていた。いつも通りで、いつも通りではなかった。

 僕の隣の空席に、誰も座っていないのに、椅子はわずかに沈んでいた。


 夕方、旧運河へ行く。雨が降っていた。

 層をまたいで降る雨は、斜めの線が何重にも重なって、空そのものが布に見える。

 下手に位相を動かすと、雨粒が互いに干渉して霧みたいに広がり、視界が急に白くなることがある。

 僕は動かなかった。欄干の前で、動かないことを選ぶ。

 動かなさは都市では稀有だ。みんな、ずれて生きるから。動かないでいると、世界のほうがずれてくる。


 雨音が層ごとに微妙にずれて、やがて一枚の大きな音に合流する。合流は危険だ。橋は軋む。欄干は冷たい。掌は温かい。どちらも本当だ。どちらも違う。


「いる」

 声は僕のものだ。次に「いる?」と返ってくる声は、もう僕のものではない。

 言葉がぶつかって、雨粒が二つ、空中で合わさって、ひとつになって落ちる。

 掌が、鉄に、柔らかく押し当てられる。安定器の唸りが消える。都市の心音が止まる。止まって、戻る。戻る前に、僕は、数えないまま一秒を手にのせた。けれど、その一秒は必要なかった。時間は重なるとき、名まえを失う。


 局に戻り、端末を立ち上げる。

 通知はまだこない。都市の記録はいつも遅い。

 僕はデスクの引き出しを開け、今朝の紙切れを取り出す。指先に、紙の縁のざらつきが優しく残る。

 紙の裏に、鉛筆で薄く、僕は書いた。


「見える。見えなくても、見える」

 紙を戻し、引き出しを閉める。椅子に腰を落ち着ける。

 呼吸を整える。

 窓の外で、層の街路樹が風に揺れる。

 風は、香りを連れてくる。オレンジの皮の渦の匂い。誰かの台所。誰かの午後。誰かの層。


 僕は報告書の最後に一文を加えた。今度は公文書の体裁で。

「観測継続。接触の再発、統計上は偶然の範囲。しかし、当該地点における位相の整列傾向を弱く認む。注意深く、見守る必要あり」。


 送信ボタンに指を置いて、押さないで、息を吸う。

 都市の唸りが、また、低くなる。

 押す。送信される。数字が走る。数字の裏で、誰かの指が、欄干の冷たさを思い出している。


 夜、僕は夢を見ない。

 夢の代わりに、音だけを聞く。

 雨のあとの排水路が、見えない都市の底で長い息を吐く音。遠い層の踏切が、開いて、閉じる音。耳の奥で、誰かの「いる?」が、まだ終わらない。

 僕は寝返りを打たず、目を閉じたまま、右手を胸の上に置く。掌に、鉄の冷たさが蘇る。

 二秒。あるいは一秒。あるいは、数えない長さ。都市は重なり、僕はそこにいる。

 そこでも、いる。


 ——声は確かにあった。1阿僧祇分の1の確率で、僕は、誰かと重なった。

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