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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

浮気した婚約者を見限って子飼いの魔術師を餌付けすることにしました

作者: 葵川
掲載日:2025/11/15

注意:主人公が暴力的な面があります。後半に軽度の残酷描写があります。



 ネフェリアは急に目が覚めた思いで、瞬きを繰り返した。

 一瞬、自分がどこにいるのか把握できず周りを見渡す。すぐに見覚えのある光景が視界に入ってきて、ホッとした。ネフェリアは、自身が通っている王立学校の廊下にいた。手には籠を提げている。


「……」

 無言で視線を正面に戻すと、目の前には容姿の整った金髪に碧眼の青年が佇んでいる。

「ネフェリア。何度も言わせるな。僕は素人の作ったものは食べない」


 青年は苛立たしげに顔にかかった髪を払いのける。妙に気取った仕草だった。形の整った眉を顰めてネフェリアを見下ろしている。

 ネフェリアは今、自分がどこにいて何をしていたのか、すべてを思い出した。

 それからネフェリアを蔑む貴族の青年を憮然として睨み返した。


(嘘つき)


 ネフェリアは心の中で、青年――ネフェリアの婚約者であるセディアスを責めた。

 セディアスが平民の可愛い女生徒から手作りの菓子を受け取り、さらに二人で密かに逢瀬を重ねていることを知っていた。


 手に提げた籠の中には、ネフェリア手製のサンドイッチが入っている。セディアスに食べてもらおうと朝早くから起きて用意したものであった。


「わかりました。もう二度と作ってきません」

 わざと丁寧な言葉を用いた。ネフェリアはきゅっと唇を引き結ぶ。

 いつになく聞き分けのよい婚約者をセディアスは訝しんだが、それだけだった。

「……相変わらず可愛げのない」

 去ろうとした背に、心無い言葉が投げかけられる。

 ネフェリアは構うことなくその場をあとにした。


 学校内の人気のない庭のベンチに座ったネフェリアは静かに涙を流し始めた。

 婚約者に拒絶されたせいではない。

 これから起こるかもしれない悲劇を、訪れるかもしれない未来を知ってしまったためであった。ハンカチを取り出して目元を抑えたが、とめどなく涙が溢れ出てくる。ハンカチはすっかり濡れてしまった。



 今日、ネフェリアは昼食へ誘うために、学校の廊下で婚約者のセディアスを呼び止めた。セディアスとの仲は早くから冷え切っていたが、少しでも関係を良くしようとネフェリアは努めていた。セディアスがネフェリアの誘いを断ったそのとき。時間にすればほんの一瞬、刹那のあいだにネフェリアは白昼夢を見た。夢というには、それは実に生々しく真に迫っていて、痛みも怒りも恐怖も悲しみも存分に味わった。それが、これから本当に起きる出来事なのだと確信めいた思いを抱かせるには十分であった。


 一通り涙を流して落ち着いた頃、膝の上に抱えた手提げ籠を両手に添えた。


(私ひとりで食べようかしら)

 時間はちょうど昼時である。学校には食堂があるが、今さら行く気にはなれなかった。目元が腫れていてきっと酷い顔をしている。友人や、万が一にも、セディアスと鉢合わせすることは避けたかった。

 予知夢の内容を改めて思い出す。未来のネフェリアは、悲惨な人生を送っていた。涼しい風がそよぎ、明るい木漏れ日が揺れる穏やかな庭とは対照的に、ネフェリアの気分は暗く沈み最悪だった。


「……冗談ではないわ」

 絶対にあのような未来を実現させない。

 ネフェリアはそう決意して両手に力を込めた。そのための努力は惜しまないつもりだった。傲慢で我儘で、よく癇癪を起こすと言われる性格も変えていかねばならない。ひとり考えを巡らせた。


 しばらくのあいだ、静寂がネフェリアの周りを包んでいた。


「ご主人様」

 ネフェリア以外、誰もいないはずの空間に突然声が響いて、ネフェリアはハッとした。声の出所にすぐに見当がついて、視線を下に落とした。

 地面に落ちたネフェリアの影から突然、人の腕が伸びる。

 傍から見れば恐怖でしかない現象をネフェリアは驚くでもなく冷静に眺めた。


「ご主人様。いらないなら、それを俺にちょうだい」

 影から伸びた手が、ネフェリアの抱えた籠を指し示した。

「……ベルゼ」

 ネフェリアはわずかに怒りを滲ませながら声の主の名前を呼んだ。

「これが欲しいなら、そこから出てきなさい」

 ジトリと影を睨み付ける。

「影の中で食べるなんて、はしたない真似は許さないわよ」

 ほどなくして、影が蠢き始めた。そこから黒い塊が起き上がって人の形をとる。黒い霧が晴れて褐色の肌の青年が姿を現す。貧相な体を隠すように真っ黒なローブを纏っている。髪はぼさぼさで、地味な顔立ちの目の下には濃い隈ができている。

 ベルゼは暗く淀んだ目を瞬かせた。


「俺に食わせるくらいなら、ネズミにでもやったほうがマシだ、とか言われると思った」

「……」


 以前の私なら、そうしていたでしょうね。


 自嘲の言葉を飲み込んで、ネフェリアは隣に座るようにベルゼを促した。

 ベルゼが隣に腰を下ろしたところで、ネフェリアは籠からサンドイッチをひとつ取り出した。少しためらってから、上半身をベルゼの方へ向ける。

「はい。あーん」

 ベルゼはネフェリアの顔と差し出されたサンドイッチを交互に見比べてから、不気味そうに顔を歪めた。


「なにか不満でも? さっき泣いている私を慰めなかった、薄情な下僕に手ずから食事をめぐんであげているのよ?」

「前に落ち込んでいるときに慰めようとしたら平手食らわせたくせに…」

「前は前。今は今よ」

「傲慢女」

「な……」

 下僕の暴言に声を荒げそうになるのをこらえた。ネフェリア自身も勝手だという自覚がある。これから変わろうと決意した矢先に、暴力に訴えては台無しだ。怒りにまかせて力を込めたせいで、パンの形が崩れてしまった。形の歪んだそれを静かに籠の中に戻した。

 こほん、とひとつ咳ばらいをしてどうぞ、と籠ごと差し出した。対するベルゼは、堂々と悪口を言ったはいいものの、今になって怯えながらネフェリアの顔色を窺っていた。恐る恐る籠を受け取る。その態度が余計に気に食わない。フン、とそっぽを向いた。


(所詮は卑しい貧民出よね)


 以前はベルゼの粗野な言動や態度を矯正しようと奮闘したが、無駄に終わった。ただ唯一、ネフェリアへの敬称だけは定着させることができた。

 ベルゼは籠を受け取ると礼も言わずに蓋を開けて、サンドイッチを取り出している。呆れて咎める気も起きない。ネフェリアは姿勢を戻してベンチに座り直した。


 ベルゼがサンドイッチを口に運ぶのをチラチラと横目で見守る。頑張って作った手前、どうしても反応が気になった。

「……っ」

 サンドイッチを一口だけ食べた途端、終始虚ろだった目に生気が宿った。あっという間にサンドイッチをひとつ平らげて、次に手を付けた。

 いつも死んだ魚のような目をした使用人が、キラキラと目を輝かせて夢中で次々とサンドイッチを頬張っている。そんなベルゼを初めて見た。正直気持ちが悪いと思いつつ、ネフェリアは呆気に取られてその様子を見守った。

「気に入った?」

 熱心な食べっぷりにネフェリアはまんざらでもなく、反応を窺った。

「すごい。ちゃんと味がある」

「……はぁ?」

 態度とは裏腹の、あまりに失礼な感想にネフェリアは怒りを覚えた。ベルゼに見せつけるように扇を手に取って、もう片方の手のひらに打ちつけた。


 ベルゼは顔色を悪くして慌てて釈明をした。

「いや、このサンドイッチが不味いとか思っていたわけではなく」

 ネフェリアの剣幕にたじろいで、片手に持ったサンドイッチと籠を抱えて距離を取る。

「呪いに罹っているせいで、今まで何を食べても味がしなかったから驚いたんだ」


 その言葉で、さきほど夢で見た未来の出来事が脳裏によみがえる。

 夢の中でベルゼは今よりもさらにやせ細っていき、ついには食事を受け付けなくなっていった。


「そういうこと」

 眉尻を下げて視線を落とした。

「でも……どうして急に味がしたんだろう」

 ベルゼが食べかけのサンドイッチを掲げながら首を傾げる。

 味もしないはずの食べ物をどうして欲しがったのか。ネフェリアも疑問に思いながらベルゼの横顔を眺めた。そうして惨めにサンドイッチを自分で消化して過ごすはずだった時間を思って、心がざわめいた。あんな夢を見たせいだろうか、ベルゼを恨めしく思う。

(そういうところよ)

 胸に手を添えて穏やかでない衝動を抑えながら、ネフェリアは気持ちを切り替えて微笑んだ。

「私にもひとつちょうだい」

「いやだ」

 ベルゼは駄々っ子のように籠を抱えてネフェリアから遠ざける。

「なんて意地汚い……」

 ネフェリアは呆れてベルゼを睨み付けた。

「これを食べると味がするだけじゃなくて、身体の痛みも楽になるんだ」

 ベルゼは籠を抱えたまま、ネフェリアの方を向いてベンチの上に片足を乗せた。行儀の悪さに眉を顰めたところ、ベルゼはニヤリと口の端を上げた。


「ご主人様。察するに女神様から、贈り物をもらったでしょ。この国は慈愛と慈雨を司る女神の信仰が厚いから…癒しの力とか? でも今まではそんな力なかったよね。以前作った失敗作を食べさせられたときは味がしなかった。その力は最近もらったもの?」

 ベルゼは喜色を浮かべながら、饒舌に推測を並べ立てた。さきほど食事をしていたときと、また違った輝きを見せる瞳は、面白いものを見つけたと言わんばかりだった。随分と察しが良い。高位の魔術師を名乗るだけのことはあった。


 ベルゼは流れ者だ。故郷の国では魔術師として重用されて、それなりの地位にいたと聞いたことがある。あるとき、禁忌を犯して呪いに罹り祖国を追われて、この国に逃げてきた。呪いの影響で衰弱して路地裏に倒れていたところをネフェリアが気まぐれに拾い、今に至る。ベルゼはそれをことさら恩義に感じて、どれほど手酷く雑に扱われようとずっとネフェリアに仕えていた。


「ええ」

 素直に頷いた。ベルゼ相手に、下手に嘘をつく理由もない。自分では気付かなかったが、ここ数日のあいだに力を宿していたらしい。不思議な夢の中で、女神様が教えてくれた。

「ほかの人には秘密にするつもりよ。ベルゼも他言しないでちょうだい」

「え……」

 ネフェリアの言葉にベルゼは信じ難いといった顔をした。


 癒しの力が発現した者は例外なくどこの国でも持て囃され、国を挙げて大切にされる。高い地位を与えられ、繁栄と安寧を約束されていた。王の妃として召し上げられることも少なくない。

 しかし、あの未来視の中でネフェリアを見捨てた国に尽くす気は持てず、また、面倒を抱える気も今のネフェリアにはなかった。


「どうして」

「裏切らないでね?」

 ベルゼの疑問を遮って念を押した。ネフェリアは人差し指を己の口に添える。ベルゼがムッと唇を歪めた。

「裏切るわけがない」

「そう……」

ネフェリアは体を捻って、ベルゼと距離を詰めた。

「でも」

 言葉を続けようとしたとき、ベルゼがハッとして背後に視線を向けた。


「ネフェルー」

 ネフェリアを呼ぶ高い声が聞こえて、靴音が近付いてきた。

 瞬時にしてベルゼの姿が掻き消える。

「あ…!」

 声をかける間もない。ネフェリアは虚空を睨み付けた。抱えていた籠も一緒に消えた。抜け目のない下僕である。諦めて声のした方に体を向ける。



「ここにいたの」

 渡り廊下の先から、長い髪を頭の上で結った快活そうな女子生徒が姿を現した。ネフェリアの友人である、ロイナだった。


「セディアス、またあの女と一緒だったわよ? ちゃんと誘ったの?」

 ロイナはネフェリアのもとまで歩いてくると、挨拶もそこそこに文句を並べ立てた。

「手作りさえ持っていけば、いちころだって教えたじゃない。庶民のそれと比べるまでもないわ。レオノーラ様もそれで殿下と仲睦まじくなったんだから」


「私は、いいの。もう二度と作らないから」

 頑ななネフェリアの態度にロイナが首を傾げる。

「何かあったのね? よかったら放課後に話を聞くわ」

 そう言ってネフェリアを教室へと促す。もうすぐ午後の授業が始まる。ネフェリアは立ち上がって歩き出してから、一度立ち止まった。ベンチの方を少しだけ振り返る。

「でも来なかったじゃない……うそつき」

 つい今しがたベルゼに言いかけた言葉の続きをつなぐ。

 だれもいないベンチに向かって、ネフェリアは一人毒づいた。


「なにか言った?」

 先を歩くロイナが聞き返す。ネフェリアは首を振って笑いかけた。

「いいえ」



***


 休日。ネフェリアは朝から下僕に纏わりつかれていた。

 時々でよいので、これからもベルゼに料理を作ってほしいという。

 ベルゼの懇願は半ば予想していたことであったので、ネフェリアは冷静に対処した。返事をうやむやにして、ついてこようとするベルゼを適当にあしらい、屋敷の外へ遊びに出掛けた。


 久しぶりの街歩きを存分に楽しんでから屋敷に戻り、庭に面したバルコニーでティータイムを楽しんでいたところ、またもベルゼがネフェリアのもとを訪れた。許可も得ずにネフェリアの隣を陣取っている。椅子はネフェリアのぶんしかないので、ベルゼはテーブルに置いた両腕の上に顔を乗せてしゃがんでいる。行儀の悪さに眉を(ひそ)める。べちりと腕を叩いたが、退くことはなかった。


「頼むよ、ご主人様」

 ベルゼはネフェリアを上目遣いに見た。

「ご主人様の手料理を一度食べたら、ほかのものなんて食べられなくなる」

 ネフェリアは大仰に驚いてみせた。

「まぁ……。随分な口説き文句だこと」

「そういうのでなく、切実な問題なんだよ」

 ベルゼは悲愴さを漂わせながら、ネフェリアに幾度目かの懇願をした。


「お願いします。俺にできることなら、なんでもするから」

「ふぅん……なんでも?」

 ネフェリアの淡い紫色の瞳が妖しく光る。

 夢のとおりにネフェリアに不幸が降りかかるとしても、ベルゼの力があれば、その結末を簡単に変えてしまえるだろう。

 当初からベルゼの力を借りるつもりでいたが、最大限の協力を引き出すためには勿体ぶることも必要だった。なにせ主人の命令を選り好みする、厄介な下僕である。



 不穏な空気を感じて、ベルゼは慌てて断りを入れた。

「人に直接危害を加える以外のことでお願いします」

「あら、残念…」

 ネフェリアは思ってもいないことを言った。


 ベルゼが魔術を行使する様子をこれまで何度も見たが、どれも緻密で繊細な制御を必要としたものであったし、魔力量も膨大だった。あまり魔術の得意でないネフェリアから見ても高度な技量を備えていることはわかる。

 その気になれば、ネフェリアを殺すことなど容易いだろう。

 しかしベルゼは基本、争いごとを好まない。


(せっかく強力な力を持っていながら……宝の持ち腐れだわ)

 魔術を使って横着をすることはよくあったが、ネフェリアの知る限り、人道に反することには使わなかった。


「役に立ちそうもないわね」

 浮気相手を葬れなどと、そこまでは考えないが、ベルゼの魔術を利用すれば二度と人の婚約者に近付かないようにすることはできるのではないか。そう思いを巡らせていると、ネフェリアの言葉に焦ったベルゼが口を開いた。

「ご主人様の婚約者と、(くだん)の女の子を会わせにくくすることなら、できる」

「どんなふうに?」

「例えば、相手の行く手を塞いだり、手を回して用事を作ったり」

「……はぁ。それは結構よ」

 ネフェリアは失望を露わにした。回りくどいことこのうえない。そうやってこまめに妨害できるというのはある意味器用ではあるが。浮気相手を排除する作戦は無理そうだった。


「じゃあ」

 気を取り直して、ネフェリアは別の案を持ちかけた。  

「私が濡れ衣で罪を被せられないように、立ち回ってほしいわ」

「?」

「例えば、平民の女子生徒を虐めたり、脅したり、階段から突き落としたりしたなんて汚名を着せられないように」

 未来で、冤罪を負うことのないようにしたい。

(排除したいという気持ちはあったけれど、実際はしていないもの。せいぜい忠告を何度かしただけだわ)

 セディアスに対してさほど執着はしていない。そうするだけの熱情はすでになかった。ただ貴族の子女である自分が、平民ごときに侮られているという怒りはあった。


「……そういう気配でもあるの?」

 具体的な提案にベルゼは不審な顔をした。

「まぁ、そうね」

 ネフェリアは肩を竦めた。

「わかった。あの二人と、周囲を探っておくよ」

 毎日報告をするように念を押してから、ネフェリアは当初の話題に戻った。


「じゃあ、さっそくだけど料理のリクエストは何かある? といっても、まだ簡単なものしか作れないけど」

 ネフェリアはそわそわとテーブルの下で両手の指を絡ませた。ベルゼの協力を引き出すために最初から作るつもりであったので、心構えは十分である。それどころか実際のところ、かなり乗り気であった。

(料理を作るのって結構楽しいのね)

 ベルゼが嬉しそうに食べるのを見て、初めて人のために料理を作る喜びを感じた。

 過去に父にも差し入れをしたことがある。舌の肥えた父の反応は微妙で、しかも冷めた性格なので、娘が作ったものだからといって大げさに喜ぶことはなかった。母は料理など貴族令嬢がするものではないと好い顔をしなかったので、手料理をふるまうなど論外である。

 どのみち、今料理をふるまえば能力のことがバレてしまうかもしれない。必然的にベルゼにしか作れない。


 サンドイッチの具材を変えてみようか。具材を混ぜたり、焼いたりといったことはしてきた。それとも菓子に挑戦してみようか。引き受けたからにはレパートリーを徐々に増やしてできる限り希望に応えるつもりでいた。


「あ、最初は飲み物だけでお願いします」

 ベルゼはあっさりと簡単な要望を出した。

「はたしてご主人様が対象物に触るだけで効果があるのか、作業の工程が多いほど変化があるのか」

 ベルゼはどういった経緯で食事に力が宿るのか、色々なパターンを試したいという。嬉々として今後の計画を練り始めていた。

「色々とご主人様の力を検証したいんだ。こんなこと、滅多にないもんねぇ」

「……」


(まず泥水を入れてあげようかしら。雑巾を絞った水を混ぜてみるのもいいわね)


 急速に気持ちが冷めて不穏なことを考えながら、無言でコップを用意した。それからネフェリアは水差しから注いだ水をぞんざいにテーブルに差し出した。



***



 翌日、ネフェリアは学校で授業を受けていた。


 昨日検証した結果、水だけでも多少の効果はあった。レモンを絞ってレモン水を作ったり、紅茶を入れたりした。さんざん使用人の真似事をして疲れた。しかしその甲斐あって、手間をかけた分だけ回復や解呪能力が高まることがわかった。ベルゼに罹った呪いは強力なので容易に解けることはないが、痛みや進行を緩和する作用が見られた。


 侍女がネフェリアに入れた紅茶を、ベルゼが口に含んだときは驚いた。ネフェリアの飲みかけを拝借したのである。ベルゼ曰く、少し味がしたらしい。品のない話だが、ネフェリアの唾液が含まれていたことで効果があったようだ。


 じゃあ、口付けしたらどうなるの、という疑問が喉元まで出かかった。


(血迷ったことを……私ったら、何を言おうとしていたのよ)

 首をぶんぶんと振って余計な思考を追い出す。試したいと言われたら、もちろん拒否するつもりであった。魔術オタクのベルゼならそのうち言い出しかねない。



「ネフェリア。話がある」

 授業が終わって教室から出ると、珍しくセディアスがネフェリアに話しかけてきた。ネフェリアは眉を(ひそ)め、警戒を露わにした。


(始まったわね)


 ネフェリアを見るセディアスの顔は険しい。婚約者と親交を深めようなどという意図は感じられない。おおかた、浮気相手を虐めたとなどと、難癖を付けて責める気だろう。


「平民の女子生徒を虐めているらしいな」

 セディアスはさっそく話を切り出した。場所を移すこともせず、周りの反応を窺いながら、大きな声でネフェリアを糾弾し始める。


「どういうこと?」

 まったく身に覚えがないので、本気で聞き返した。妙な嫌疑をかけられては困るので、徹底的にジョゼには接触しないようにしていた。セディアスは、目撃した者がいる、本人は泣いていた、などとネフェリアからすれば戯言をつらつらと垂れ流した。


「僕の態度が気に入らないからといって。周りに当たるのは違うんじゃないか?」

 セディアスの口ぶりは困った婚約者を諭すようなものだった。

「確かに……最近の私は苛立っていたかもしれないわ」

 セディアスの言葉を素直に受け止める。ここのところ、校内で頻繁にセディアスと喧嘩をして、醜態を晒していた。


「随分と素直に認めるんだな」

(認めていないけど?)

 間髪をいれずに、心の中で突っ込む。

 勝手に決めつけないでほしい。

「平民を虐めた覚えはないわ。ただ、態度の悪さについてなら、すぐにでも改善する方法があるわよ。私の苛立ちを消す簡単な方法がね」

 セディアスは怪訝な顔でネフェリアを見遣った。

「あなたが軽薄なことをしなければいいのよ」

 にっこりと、不敵な笑みを浮かべる。

「確か、あの平民の女子生徒はジョゼといったかしら。ねぇ、セディアス。私が気付いていないと思っているの?」

 ギャラリーがいる中、あえて詳細な内容はぼかした。

 周囲は勝手に想像を膨らませる。それもネフェリアが望む方向に。


「わかるかしら? あなたの軽はずみな行動のせいで私は傷つき、苛々していたの」

 ざわざわと周りから好奇の目線が向けられる。聞こえてくるのは、戸惑いと共感の声。浮気の真偽を疑う声も勿論あるが、セディアスは一方的にネフェリアを非難するつもりであったので、思わぬ事態に狼狽(うろた)えた。

 セディアスが煽ることでネフェリアがいつものように怒り喚き、そうして、セディアスかほかの誰かがネフェリアをなだめる。いつも癇癪を起こす短慮な人間だと周りに印象づけるつもりだった。ネフェリアが冷静に受け答えしているせいで、セディアスの目論見は崩れた。

 セディアスは舌打ちをしてネフェリアに近付いた。


「やれやれ。またいつもの早とちりで、なにか勘違いしているのか? 少し向こうへ行って話そう」

 物腰は柔らかかったが、セディアスはネフェリアの腕を強く掴んで物陰へと引っ張っていった。


「いたっ…! 痛いわ、セディアス。乱暴にしないで」

 ネフェリアはおおげさに痛みを訴えた。傍から見れば、セディアスの印象は良くないだろう。ネフェリアはひっそりとほくそ笑んだ。


 建物の陰に辿り着いたところで、セディアスはネフェリアの腕を離し、振り向いた。ネフェリアは乱暴に掴まれて痛めた腕をさする。さきほどのギャラリーも遠巻きに窺っていた。

「僕を貶める気か」

「あなたこそ。先ほどのあなたの言いがかり、身に覚えのない私には十分不名誉なものだけれど?」

 ネフェリアは頬に手を添えて、わざとらしく首を傾げた。


「たかだか平民相手に嫉妬して見苦しいとは思わないのか」

 セディアスはネフェリアの反論に耳を貸さず、腕を組み鼻で笑ってネフェリアを見下す。

(だから話を聞きなさいよ)

 一方的に決めつけて気分が悪い。


「浮気を認めるのね。でも、あなたのことで嫉妬するなんて情を、私はもう一切持ち合わせていないの。いい加減愛想が尽きたわ。だから、ジョゼさんに辛く当たることもないわ」

「強がりを言うのはよせ。素直に皆の前で謝ればいいだけだろう」

「……はぁ」

 自分の浮気を棚上げにして、ネフェリアに謝罪を要求するなど信じがたい。どこまでも話が通じないことに、ネフェリアは疲労感を覚えた。


「セディアス。わたしたち、婚約を解消しましょう」

「何をいきなり……話を変えようとするなんて…」

 ネフェリアの唐突な発言を笑い飛ばそうとして、セディアスは動きを止めた。ネフェリアは真剣な眼差しでセディアスを見つめている。

「…………本気か?」

 セディアスが狼狽して、組んだ腕を下ろした。


「婚約者を蔑ろにする人に尽くすのは、時間の無駄だと気付いたのよ」

 浮気の証拠を集めて、父に報告して、こちらから婚約破棄させてもらうつもりだった。男の浮気を是とする父ではあるが、いかに娘が蔑ろにされているかを訴えれば勝機はある。家も軽んじられていることと同義だと突き付けてやればいい。絶対に引き下がるつもりはなかった。


「家同士が決めたことを、そう簡単に覆せると思うなよ」

「試してみないことにはわからないわ」

 話は終わりね、と背を向けるとセディアスが後を付いてきた。


「待てよ。ちょっと遊んでいただけだろう。随分と狭量じゃないか?」

 予知夢の中では、セディアスはジョゼと真実の愛を育んだと主張していたが、なぜか今はネフェリアに追い縋ってくる。

 どちらにとっても良い話だと思うが、ためらう理由でもあっただろうかとネフェリアは不思議に思った。そんなことより、今は早く帰って新しいメニューを試したい。ベルゼが魔道具を使って具体的に力の数値化をできるようにするらしい。ネフェリア自身も、自分の力のことを知れるのは楽しみだった。 


「待てと言って……っ」


 ネフェリアの肩を掴もうとして、がくんと不自然に動きが止まった。セディアスはバランスを崩し、その場で派手に転んだ。

 驚いてネフェリアが振り向く。


「大変。大丈夫? 先生を呼んできましょうか?」

 前屈みになり、心配を装って優しく語りかける。内心はいい気味だと思っている。

 遠巻きにこちらの様子を窺っていた生徒たちからクスクスと笑い声が漏れた。


「~っ!!」

 セディアスは顔を真っ赤にして慌てて立ち上がり、ネフェリアを睨み付けてから瞬く間に走り去っていった。

 その背中を見送ったあと、ネフェリアはようやく安堵の息を吐き出した。自分でも気付かないうちに、緊張していたらしい。それから地面に向かって囁いた。

「ありがとう」

 さきほど一瞬だったが、影が伸びてセディアスの足を掴むのが視界の端に見えた。

 地面に伸びる影に向かって微笑むと、応えるように影が左右に揺らめいた。



***


 それから数週間後、学校内で事件が起きた。

 甲高い悲鳴を聞いて集まってきた生徒たちが、階段の付近に集まっている。


 階段の下では、女子生徒がしゃがみ込んでいる。セディアスの浮気相手であるジョゼだった。その近くには男子生徒が二人いた。一人はジョゼと同じ平民出身の男子生徒で、もう一人はセディアスであった。


 ジョゼが近くにいた男子生徒に被害を訴えた。

「この人が私を突き落としたの!」

 ジョゼが指し示した先は、セディアスだった。

「なにを」

 セディアスは驚きで目を見張った。

「私に飽きて、目障りになったからって……ひどい!」

 ジョゼは男子生徒に泣きついた。男子生徒は跪いてジョゼの背中を優しくさすってから、冷たい目でセディアスを見上げた。


「だから言ったんだ。貴族様に弄ばれているだけだって」

 ジョゼは全身を床に打ち付けたようで、身体の痛みを訴えていた。徐々に野次馬が増えて、こそこそと会話を交わす。


「ねぇ、なにがあったの?」

「ほら、前にセディアスさんが浮気していたっていう彼女と……」

「え、じゃああっちの男子は?」

「弄んだって…本当かしら」

 口伝えに良からぬ話が広がり、セディアスの立場が悪くなっていく。


「でたらめを言うな!」

 セディアスがカッとなってジョゼを怒鳴りつける。ジョゼがびくりとして肩を揺らす。ジョゼを庇う男子生徒の目つきが鋭くなり、険悪な雰囲気が広がった。ネフェリアはギャラリーに混じって、冷めた目でその様子を静観した。


 ほどなくして騒ぎを聞きつけた教師がやってきた。ジョゼは男子生徒の肩を借りて、保健室に連れて行かれた。

 その後、セディアスとジョゼは教師陣から聴取され、しばらく自宅謹慎となった。


「助かったけれど、ベルゼもなかなか陰湿な真似をするわねぇ」

 ネフェリアはいつもの校内の庭のベンチに腰かけて、隣に座るベルゼに笑いかけた。


 ネフェリアがベルゼに依頼したことは浮気の証拠を集めることと、ネフェリアの悪い評判を払拭することだけだった。

「二人とも、ご主人様を悪者に仕立て上げることに固執していたから。そこから逃れようとすると、どうしてもね……」

 セディアスとジョゼはやたらとネフェリアを目の敵にしていた。悪い噂を打ち消そうとしても、ネフェリアへの印象操作をやめることはなかった。ならばと、新たに演者を仕立てて、関係をかき乱すことを実行した。

 ベルゼはジョゼに新しい男をあてがった。階段下でジョゼに付き添っていた男子生徒である。もともとその男子はジョゼに気があったらしい。そこでベルゼは一般の生徒に扮して、「ジョゼを弄んでいる」と、セディアスの悪い評判を男子生徒に吹き込んだ。ジョゼの方にもセディアスに対して不審を抱くよう誘導したとのことだった。


 実際にジョゼを突き落としたかどうかはわからなかったが、セディアスの失態のおかげで、父の説得が上手くいった。近々、セディアス側の有責で婚約を破棄することが決まっている。


「意外な才能を見たわ」

 あまり気は進まなかったけど、と言いつつベルゼはどこか楽しそうだった。

「こういった工作は俺よりもっと上手いやつが故郷(くに)にいたよ」

「……」

 ベルゼの祖国のことを少し調べた。天竜の住まう山脈を越えた先にあり、国交もなく交流が乏しいので詳細な情報までは入ってこないが、わかったことはある。山向こうの国々は頻繁に戦争を繰り返しているらしい。孤児で魔術の才能があるとなれば、ベルゼは最前線に放り出された可能性が高い。身内に騎士団勤めの者がいて、そういった内情を聞かされたことがある。ベルゼの祖国も似たりよったりではないだろうか。

 なんとも言えず、視線を足元に落とした。


「この件はひと段落しそうだし、早くご褒美が欲しいんだけど」

 呑気な口調でベルゼは組んでいた足を伸ばした。

 ベルゼはこのところ顔色も良く、伏せることも少ない。ネフェリアの能力が功を奏している。身体に刻まれた、呪いの大元である呪印の経過を見せてもらったが、少し薄くなっていた。


 ネフェリアはベンチの上に置いておいた籠を引き寄せ、蓋を開けた。中には彩りのあるサンドイッチが綺麗に並んでいる。肉も魚も食べたいというベルゼの贅沢な要望に応えた。滑らかで酸味のあるソースを加えた白身魚のフライの入ったサンドイッチや、甘辛く味付けた鶏肉に卵を挟んだボリュームのあるサンドイッチも作った。


(我ながら、よくできているわ)

 ネフェリアはひとり満足げに頷いて、魚とレタスを挟んだサンドイッチを手に取った。

「じゃあ、はい。あーん」

「うざ…」

 ベルゼはネフェリアに冷ややかな視線を向けた。ネフェリア直々に食べさせてあげようというのに、なんという言い草か。ネフェリアは差し出した手を引っ込めて、不機嫌に自分の口に運んだ。サクサクとした歯応えがあって美味しい。自然と頬が緩んだ。


 続いてベルゼが食事にありつこうとしたところで、ロイナがやってきた。ベルゼは仕方なく掴んだ分だけ持って消えた。


「ネフェリア。誰かと話してなかった?」

「ああ……この子よ」

 ネフェリアは慌てるでもなく、ベンチの隣を示した。

「推しと食事中なの」

 咄嗟にカモフラージュするために、手乗りサイズの人型のぬいぐるみをベンチに座らせていた。

「ああ、今劇場限定で販売しているオスカー様のぬいぐるみじゃない」

「ええ。ロイナは新作をもう観劇した? 男役のニューベル様が素敵よ」

「まだ私は見ていないわ。それにしても、ネフェルもハマってるね~。私の周りも持っている人がたくさんいるよ」

 ロイナはニヤニヤしながら、ぬいぐるみを挟んだ場所に座った。


「それにしても、量が多いんじゃない?」

 ネフェリアの抱える籠の中を確認して、ロイナが疑問を口にした。

「推しがよく食べるのよね。おいしい、おいしいって」

 行儀はあまりよろしくないが、見ていて気持ちが良いくらいの食べっぷりだ。思い出して自然と頬が緩む。

「今さら人形ごっこなんて、って思っていたけど…楽しそう~。私もやってみようかな」

 ネフェリアの溶けるような笑顔に、ロイナが興味を持ち始めた。


「それはそうと」

 ロイナは急に真面目な顔をして居住まいを正した。

「私、ネフェルに謝らなくちゃいけないわ」


 曰く、以前ジョゼを泣かせたのはロイナで、セディアスがそれをネフェリアだと勘違いしたとのことだった。


「ジョゼを呼び出してさ…。人の婚約者に近付くなって注意したの。でも……生意気な口を利いてくるから、思わず手が出そうになった」

「そうだったの」

「ごめんなさい。私、ネフェルのためと口では言いながら、自分勝手な正義感で気持ちよくなるためにしただけだった」

 ロイナが頭を下げる。

 ネフェリアは首を振って微笑みかけた。

「もういいわよ」

 その件については、ベルゼから報告されている。夢で見た未来での自分の醜態を思えば、責める気にはならなかった。

「手は出さなかったんでしょう?」

「ええ。通りがかった教師に止められたの。お説教も喰らっちゃった」

「ふぅん」

 これも報告どおりだ。諍いが酷くなる前に制止したと言っていたが、教師に扮することもできるのか。

「ロイナを止めてくれた、その先生に会いたかったな」

 教師姿のベルゼを想像して、溜息を吐いた。


「知らない先生だったわ。全然印象には残らない顔だけど、良いことを言っていたわね」

「……どこが良かったのかしら」

 半ばぼんやりとしながら、ネフェリアはぽつりと零す。

「あんな男のことなんて、さっさと忘れるべきよ。あいつより良い男なんてそこら中にいるわ」

 ロイナが憤然と息巻いた。

「……そうよね。そもそも好みの顔じゃないし、デリカシーがないし、大体のことはいい加減だし食い意地は張っているし」

「セディアスってそんなにひどかったの」

 ロイナが驚いて目を瞬かせる。

「でも……最期まで私を守ってくれた」

 ん?とロイナが首を傾げた。

「待って。セディアスのことじゃないんだ。え、だれ?」

 ネフェリアは悪戯っぽく笑った。


「推しのぬいぐるみの話」

「なぁんだ…って、騙されないわよ!」

 ロイナは勢いよくネフェリアとの距離を詰める。


「ちょっと! その人のことを詳しく聞かせなさいよ。まさか、あなたまで浮気して……」

「浮気じゃないわよ。その、色々とセディアスとのことを相談しているうちに、私が勝手に…それに未来でも……」

 もじもじとしながら、靴の先でくるりと地面の影の上に円を描く。まだ影の中にいるだろう。ベルゼはデリカシーがないうえに鈍感なので、どうせ聞いていても自分のことだとは思わない。


 ロイナがしたり顔で頷いた。

「なるほど、そのパターンね」

「どのパターンよ」

「小説なんかでもよくあるじゃない。心の浮気よね~。まぁ、セディアスがあんなだったから仕方ないとは思うわ」

 ひとり納得して、ロイナはバスケットの中を覗き込んだ。


「それにしても、だいぶ腕をあげたんじゃない? どれも美味しそう」

「ロイナも食べる?」

「いいの? ラッキー」

 健康な人が食べても、あまり効果が見られないことは確認済みである。ネフェリアの能力が知られることはない。


 ロイナの死角から影がにゅっと伸びてネフェリアの袖を引っ張る。自分の取り分を失うことになるので、必死で反抗している。

(なくなったらまた作ってあげるから)

 その影をよしよしと宥めてネフェリアはロイナとのおしゃべりに興じた。



***


 ロイナがネフェリアの想い人について、根掘り葉掘り聞き出そうとしてくる。

「相手は年上? それとも年下?」

「年上。五才くらい違うかな」

 ロイナの執拗な追求に根負けしたネフェリアは、苦笑しつつ質問に答えた。 

「外見はどんな感じなの?」

「……う~ん」


 屋敷では何度か、それとなくアプローチしているにもかかわらず、ベルゼはネフェリアの気持ちにまったく気付かない。

 これは良い機会かもしれないと、ネフェリアは一計を案じた。詮索好きのロイナに乗っかることにしたのだ。

「見た目は全然パッとしないわ。でも、突出した魔術の才能を持っているの」

「面食いのネフェルが惹かれるなんて…。顔の好みなんて気にしなくなるくらい、有能な人なのね」

「う……それほど面食いというわけでもないけど」

「面食いが悪いということではないわよ。ところで、さっき、その人の悪口を言っていたじゃない。本当に好きなの? 能力以外では、どこがよかったの?」

「自分でもわからないわ」

 ネフェリアは苦笑して肩を竦めた。

 本人が影の中にいる状況で、悪口を言うことに対し罪悪感が胸を掠める。しかし圧倒的にベルゼのほうが口が悪いので気にすることもないか、と開き直った。

「でも、ちょっとしたことに気付いてフォローしてくれたりするし、彼だけはずっと私の味方でいてくれたの」


 まぁ、と驚きニヤつきながら、ロイナが続きを促す。

「この国の生まれではないわ。でも、数年前から縁あって私に仕えているの」

「なかなか前途多難な恋ね。聞いているだけで燃えるわ」

 予鈴が鳴って、ロイナは名残惜しくしつつも立ち上がった。

「昼から授業があるから行くけど、ネフェルはどうするの?」

「私はこのあと授業は入っていないから、図書室でのんびりするつもり」

 ネフェリアたちは話を切り上げた。

「同士。誰にも言わないでね」

「わかったわ。ネフェリアこそ、絶対に私のあれ、ばらさないでよ」

 ネフェリアとロイナは互いに恥ずかしい過去の秘密を共有している。ロイナは見た目の印象からは口が軽そうに見えるが、秘密は必ず守る性格であることを経験上知っていた。

 二人顔を見合わせて、しぃっと互いに人差し指を相手の口に当てた。



 いつのまにか、袖を引っ張る力がなくなっていた。 

ロイナと別れた後も、ネフェリアはしばらくベンチにとどまった。あそこまであからさまに言及すれば、さすがに気付いただろう。

「……」

 サンドイッチは残っている。周囲に人気もない。しかし一向に待ち人が出てくる気配はなかった。


「意気地なし」

 ネフェリアは膨れっ面をして影を蹴った。



***


 翌日以降、ネフェリアはベルゼに避けられていた。先日の答えを聞こうと影に向かって呼びかけるが、出てこない。ネフェリアは落胆した。

 てっきりベルゼもネフェリアに好意を持っているものだと思っていたが、ネフェリアの勘違いだったのだろうか。

 呪いを受けているとはいえ、強力な力を持っていて、本来誰にも縛られることのないベルゼがわざわざネフェリアの近くに身を置いているのだ。昔ネフェリアに助けてもらった恩ならば、もうとっくに返し終えているだろう。好きだからそばにいるのだという考えは短絡的だっただろうか。

 ネフェリアの思い込みだとすると、今さらながら恥ずかしくなってくる。とはいえ、ベルゼの気持ちを確かめないことには気が収まらない。地下にあるベルゼの部屋にはいなかったので、屋敷内を探して彷徨(さまよ)った。


「ねぇ、ベルゼを見かけなかった?」

 通りがかった侍女を呼び止める。

「ベルゼ…あの陰気臭い…いえ、私は存じ上げません」

 侍女は一瞬顔を(しか)め、それから畏まって主の問いに答えた。

「いつまであのような者を囲っておくつもりですか」

 執事に問うと、不快感を隠すことなく説教モードに入った。ネフェリアは慌てて回れ右をして退散した。


「相変わらず、煙たがられているわねぇ」

 家の者たちは、身元のしれない者を引き取ることにはもともと反対だった。


(前途多難だわ……)


 午後、庭に面したバルコニーにテーブルと椅子を二脚用意してもらった。ネフェリアが作った食事を広げると、ベルゼはのこのこと餌に釣られてやってきた。

「食べる?」

「うん」

 着席を促すと、素直に応じる。テーブルの上には白身魚のムニエルにカボチャサラダやスープが並べられ、パンも添えられている。お昼前、ネフェリアは使用人と一緒に市場を巡っていた。魚はこの辺りではなかなか手に入らないので、手に入れるのに毎回苦労する。

 ベルゼは並べられた食事を見て、ニコニコとしていた。今まで姿を現さなかったことに怒るつもりでいたが、なんとなく毒気を抜かれて苦笑が漏れる。

 ネフェリアはテーブルを挟んだ向かい側に座って、食事前の祈りを捧げる。


「ベルゼ。ロイナとの会話を聞いていたんでしょう?」

 黙々と食事をするベルゼをしばらく眺めてから、ネフェリアは単刀直入に話を切り出した。

「私のことをどう思っているの?」


 ベルゼがカトラリーを置いて、ネフェリアを見つめた。ベルゼの顔からは日頃浮かべているうっすらとした笑みが消えている。淡々と真顔でネフェリアを諭した。

「ご主人様は今の環境を大事にしたほうがいい」

「答えになってないじゃない」

「受け取る覚悟もないのに聞いてどうするの」

 ベルゼはネフェリアの浅慮を非難した。

「元婚約者様と浮気相手みたいないっときの感情なら、それはそれで構わないよ。でも、俺は離してあげられなくなるかも」

「…………」

 ネフェリアはハッとして、口を噤んだ。遠回しに身分差のことを指摘されて、二の句が継げなくなる。ベルゼはさっさと食事を済ませ、ご馳走様、と言ってから、するりと影に溶けた。



 取り残されたネフェリアは現実を突き付けられて、恋に浮かれていた気持ちが沈んだ。

 厳然と横たわる問題に見て見ぬふりをしていた。

 これではセディアスのことを責めることはできない。けれど。


(離してあげられなくなるって……なに)


 冷や水を浴びせられた一方で、ベルゼの激しい熱情と執着が垣間見えて、平静でいられない。顔の火照りを自覚する。

(いつも、そんな素振りを見せないくせに)

 ひょっとすると本当に恩を感じているか、もしくは同情でそばにいるのではないか、という危惧が一瞬にして吹き飛んだ


 さきほどの口調にしても、実に平然としていた。普段は身分差など介さない態度で接する癖に、肝心なところは明確に一線を引いていた。

そのベルゼが初めて見せた気持ちにじわじわと心を侵されて、ネフェリアは苦しくなった胸元を強く握りしめた。



***


 それから、ベルゼはネフェリアの料理を要求することはなくなった。ネフェリアも積極的に接点を作ることが憚られて、自然と距離を取るようになった。ベルゼは呪いが弱まっているのか、ネフェリアの癒しの力がなくとも、体調を維持できているようだった。


 学校では友人たちの誘いを断り、一人で昼食を取ることが多くなった。ここしばらくの間、ベルゼと昼食をとるために、一人で昼食をとるという名目の下、友人たちの誘いを断ってきたのだ。そのため今では、誘いを断っても周りは気にしなかった。ロイナはたまにネフェリアの元までやってきて、お喋りしながらネフェリアの多めに作った弁当をつまみ食いしていく。


 休憩時間や放課後にはネフェリアの家と縁組みを考える貴族の令息が、ネフェリアと接触を図るようになった。対応が面倒で、ベルゼに協力を依頼した。ベルゼは何か言いたげにしていたが、強く言うと命令に従った。認識阻害という魔術で、ネフェリアの存在を目立たなくできるらしい。屈折現象がどうだのと魔術の仕組みの説明を受けたがさっぱりであった。ネフェリアのいる国では数人使える程度だということは知っているが、あまり興味は湧かなかった。

 ともあれネフェリアは令息たちのアプローチから解放されて、休憩時間には物思いに耽るようになった。


 頭の隅で、考えていたことがある。


 ネフェリアは次の休日、一人で街へと出掛けた。いつも遊びに行く表通りから逸れて、人気のない細い道へと入っていく。


 ベルゼと出会った路地裏に立って、壁と向かい合わせになる。


(侍女とはぐれて迷子になって、ここで出会ったのよね)

 ぼろ雑巾のようになって倒れていた少年になにを思ったのか、当時十歳だったネフェリアは手を差し伸べた。両親や使用人たちからは、くれぐれも近付かないように注意されていた場所であり、関わりを持ってはいけないとされていた人種であった。優しさや憐みからではなかった。なぜあのときベルゼを助けようと思ったのか、いまだに自分でもわからない。


 薄汚れた壁を見つめたまま、未来視した内容を思い返した。


 卒業を間近に控えたある日、ネフェリアは思いがけない罪を被せられた。

『君がそこまで酷い人間だとは思わなかったよ』

 セディアスは冷え切った眼差しでネフェリアを糾弾した。

『私は…ネフェルの友人である資格はないの。ごめんなさい』

 そう言って、ロイナは去っていった。

『私はこの方に教科書を破られたり、脅されたり……それに階段から突き落とされました!』

 ジョゼに危害を加えたのが本当だったとして、平民と貴族では処分に差がある。本来なら謹慎で済むはずだった。

 それにもかかわらずネフェリアが退学となったのは、セディアスたちが大げさに騒ぎ立てたことと、ネフェリアの評判が良くなかったことが関係していた。

 上位貴族に伝手のないネフェリアは、助けを求めることもできず、ただ周りの娯楽として消費された。


 父は事件を機にネフェリアを見限り、優秀な親戚の子どもを養子に迎え入れた。そしてネフェリアの修道院送りを決めた。

 ひとり閉じ込められた部屋で泣きはらし、さんざん怨嗟を吐き散らしながら疲れ果てた頃、ようやくベルゼのことを思い出した。

 八つ当たりして遠ざけていたときでさえ、ネフェリアの愚行を止めようとしてくれた。助けようとしてくれた。しかし、しばらく顔を見ていない。

 ネフェリアは身勝手にも最後にベルゼに縋った。名を呼んだ。けれど。


 ――自業自得だった。



 壁に手を触れる。ネフェリアはしばらく動かずにいた。

「ご主人様」

 地面に伸びた影が動いて、起き上がる。治安が良い場所とはいえない。ベルゼの呼びかけは忠告を兼ねていた。

「私……貴族籍を抜けるつもりよ」

 壁に視線を向けたまま、後ろに現れたベルゼに語りかける。

 ネフェリアのしようとしていることは、若さにありがちな暴走で、熱に浮かされているだけだと周りからは見られるだろう。

「お父様が次の縁談相手を探してくださっているのは、知っているわ」

 家のため、娘のために動いているのは理解できる。しかし心までは納得できていない。いとも簡単に捨てられる未来を視てしまった。

「勝手を言っているのは、わかっているの。恋愛だろうと、政略だろうと、どちらも幸せになるとは限らないし、不幸せになるとも限らない。貴族の一員としては家長に従うべきだわ」


 未来で、修道院生活を送る中で、多くの人と出会い、様々な人生を見た。だから、どちらの道も必ずしも不正解ではないし正解ではないことを知っている。


「でも、もし私が貴族と結婚すれば、ベルゼは私のそばにはいられなくなるでしょう。私は高望みしなければ、それなりに幸せな生活を送れると思う。そうなれば」

 手を後ろ手に組んで、視線を地面に落とす。

「ベルゼは…私の思い出の中で生きることになるわね」

 背後で身じろいだ気配がした。

「今なら、誰も見ていないし、聞いてない…よ」

 思いきって振り返り、ベルゼの顔も見ずに静かに囁き、唆した。ベルゼが手を取ってくれるなら、幸せになるための努力を惜しまない。両親を傷つけて後悔しても、自分で選んだ道を進む。


 ベルゼがネフェリアの肩に手を添える。もう片方の手でネフェリアの顔を掬い上げた。

「ご主人様」

 ベルゼの、焦燥に駆られた顔が間近に迫る。ネフェリアの顔がカッと熱くなった。

 直接的な行動に出るのは予想外で、慌てて両手でベルゼの口を塞いで押し止めた。

「き、キスはだめ」

「煽っておいて、それはないんじゃないの」

 少し身を引いたベルゼはお預けを喰らった不満を零した。灰色の瞳が妖しく揺らめいてネフェリアを捉える。

「あ…うぅ…」

 背徳感がぞくぞくと背筋を駆け上がる。セディアスやジョゼが互いに夢中になる理由を理解してしまい、軽い自己嫌悪に陥った。禁じられることほど逆にやりたくなってしまうものだと、痛感した。

「と、とにかく、今はだめ」

 最大限の理性を動員して、なんとかベルゼを拒んだ。


(本当に、セディアスのことを責められない)



「はぁ。それで、貴族籍を抜けるって、具体的な算段はあるの?」

 ベルゼが溜息を吐いて、ネフェリアを解放する。さきほどまでの雰囲気は霧散して、ベルゼはいつもの落ち着きを取り戻していた。 

「……切り替えが早すぎない…?」

 ネフェリアは戸惑って瞬きを繰り返した。ネフェリアにはまだ先ほどの余韻が残っている。

「切り替え…? ああ、それはまぁ、必要だったから」

「……」

 端的な回答に、詳しく聞くことは憚られた。ネフェリアが黙っている様子を見て、ベルゼは口の端を歪めて嗤った。

「……ご主人様は平和な生活をしているわりに、妙に察しが良いとこあるよね」

 スッと細められた瞳には小ばかにしたような色が宿り、それと同時に羨望の感情が滲んでいた。ネフェリアは目を丸くした。

 見下されたと怒るより、ベルゼが今まで晒したことのない中身を見せたことに驚いた。

「本当のあなたをもっと見せて」

 貪欲に腕を伸ばして、手のひらでベルゼの頬に触れた。

 一瞬呆気に取られた後、ベルゼが苦笑してネフェリアの手に頬を寄せる。

「いつも見せている顔も、本当だよ」

 ベルゼはネフェリアの手に己の手を重ねた。

「じゃあ、ご主人様の計画を聞かせて」

 率先して秘密を共有しようとする不敵な笑顔に魅せられて、ネフェリアの頬が染まる。なんとか平常心を保とうと努めた。

 それからネフェリアはいくつかの考えを示した。



***


「ありがとうございました」

 ある休日の午後、ネフェリアは街の広場から少し離れた菓子店を訪れていた。

「すごく筋がいいですね。貴族の方にこのようなことを申し上げるのは失礼かもしれませんが、うちのケーキ職人になってほしいくらいですよ」

 お世辞だとはわかっていたが、ネフェリアは気分良く店主に笑いかけた。貴族の立場を利用して、菓子店の店主にケーキの作り方を教わっていたのである。使えるものは使うに越したことはない。


「ふ……これで確実に落としてみせるわ」

 店を後にし、通りを歩きながら、ネフェリアは邪悪な顔でケーキの入った箱を持ち上げた。


(私の手料理なしじゃ生きられない体にしてあげる)

 とりあえず、今はベルゼの胃袋を確実に掴むことに専念する。


 このあいだ、ネフェリアのどこが好きかという問いにしばらく考え込んだあと、さあ、とベルゼは肩を竦めた。答えにも態度にも納得がいかず、ネフェリアは久々に癇癪を起こした。ネフェリアがロイナに同様の質問をされたとき、似たような回答をしていたのだが、自分のことはすっかり棚に上げていた。

 ベルゼがネフェリアへの好意を明確に行動に表したのはたったの二度で、以降はまったく態度が変わらなかった。以前と変わらない淡泊な様子にネフェリアは焦燥感を抱いた。


(本当に、私のことを好きなのよね?)


 ベルゼは徐々にネフェリアの手料理以外のものも食べられるようになってきている。呪いが寛解してきていた。

 呪いが解けることは喜ばしいが、解けた途端、ベルゼがネフェリアから離れてしまうのではという不安が募った。この間にも、着々と平民になるための計画は進んでいる。


 ネフェリアの計画はいたってシンプルで、死を偽装することだった。とはいっても、事故死や病死を偽装するにも、不自然に見えないようにするのは容易ではない。疑いを抱かれないようにするためには入念な下準備が必要になる。


「それは…俺が動くことが前提だよねぇ」

 不満を零した下僕の頬を軽くつねった。我儘だの暴力女だの、文句を並べていたが無視した。ネフェリアが動いたところで所詮は素人。見破られる可能性が高い。であれば、ベルゼに任せた方が良い。案の定と言うべきか、ベルゼはそういった偽装の段取りも手慣れていた。



 平民になる前に、ネフェリアは面と向かって告白するつもりでいた。

 まだ直接ベルゼに気持ちを伝えたわけではない。何度も伝えようとしたが、短気な性格が災いして機会を失っていた。

 早く帰って、顔を見たい。ネフェリアはケーキの箱を慎重に持ちながら、家路を急いだ。



 夕暮れの帰り道の途中、公園の一画から聞き覚えのある声が耳に届いた。少し迷ったが、ただならぬ雰囲気に遠くから様子を窺うことにした。ぎりぎり会話が聞こえる距離まで近づいて、木の陰からそっと覗くと、セディアスとジョゼが言い争っていた。

(あの二人、まだ関係を持っていたのね)

 その場所に留まり、会話の内容に耳を傾けた。


「私だけって言ったのに、友達にも手を出してたなんて……。やっぱり噂は本当だったのね」

 剣呑な雰囲気を纏ったジョゼが、セディアスに詰め寄っていた。

「待て、ジョゼ。話し合おう」

 どうやらセディアスは他の女子生徒にも粉をかけていたようだ。いつ人が来るともしれぬ往来で痴話喧嘩を繰り広げていた。ネフェリアは白けた気持ちで、そのまま背を向けようとした。そのとき、視界の端に気になる物を捉えて、ぎょっとした。

 ジョゼの手元にはキラリと光るものがあった。

(え、まさかナイフ?)

 貴族相手に刃物を向ければ、ただではすまない。セディアスのために人生を棒に振ることなどなかろう。


「絶対に責任を取ってもらうから」

 ジョゼはあろうことか、自分にナイフを向けた。セディアスが驚き、止めようと揉み合う。

(どうしよう)

 警備兵を呼んでこようか、それともベルゼを呼ぶか。ベルゼの存在は特殊なので、屋敷外の者にあまり知られたくはない。


「ああっ!」

 迷っているうちにジョゼが呻いて、地面に倒れた。

(え!?)

「ジョゼ!」

 セディアスが倒れたジョゼに近寄る。

「そんな…刺すつもりじゃ……」

 揉み合っているうちにナイフが刺さったようだった。下腹部にナイフが刺さり、血が流れているのが見える。

 セディアスは立ち上がって、じりじりと後ずさった。それから、動揺して怯えた様子で辺りを見回す。ネフェリアは咄嗟に木の陰に隠れた。その後、走り去っていく足音が聞こえて驚愕した。


(まさか逃げたの!?)


 ネフェリアは恐る恐る足を運び、ジョゼの安否を確認した。顔面蒼白で、傷口の場所と深さから、重傷であるとわかった。医者を呼んでも間に合わない可能性が高い。


(…私の能力を使えば、助かるかもしれない)


 癒しの力のことがバレる恐れはある。一瞬、判断に迷ったが首を振った。

 下位貴族で、無駄に歴史が長いだけの貧乏貴族だと陰口を叩かれようと、貴族としての矜持は残っている。


 意を決して、木陰に置いていた箱を取りに戻る。ジョゼのもとまで舞い戻り、箱からケーキを取り出す。クリームの部分を口に含んで溶かした。

「汚いけど、死ぬよりはマシでしょう」

 屈んでジョゼに口移しした。何度か同じことを繰り返す。ジョゼは意識が混濁していて、ネフェリアを認識できていない。それでも少しずつ嚥下(えんか)していた。


 何度か繰り返したあと、ジョゼの傷口を確認する。血が止まり、綺麗に傷が塞がっていた。内臓のほうはわからない。ひとまず安堵する。ジョゼはすでに意識を失っていた。あとはベルゼを呼んで対処するつもりだった。いつも影の中に潜んでいるわけではない。ベルゼには仕事を振っているから、今はそばにいなかった。


「ネフェリア…?」

 背後から掛かった声にびくりと肩を揺らした。振り向くと逃げたはずのセディアスが、戻って来ていた。

「ネフェリア……それは、一体なんだ?」

 セディアスの声が震えていた。

「まさか、傷を癒したのか…」

 信じられないといった顔であったが、ネフェリアの強張った様子を見て疑念が確信に変わる。

「その力、いつから持っていたんだ? なぜ黙っていた」

「あなたには関係ないわ」

 ネフェリアは冷たく言い放った。


「婚約者に黙っているなんて、水臭いじゃないか」

「元婚約者でしょう」

 厄介な相手にネフェリアの能力がバレてしまった。ネフェリアは唇を噛みしめた。

「…………」

セディアスの沈黙が不気味で、ネフェリアは最大限に警戒をする。


「なぁ……。僕たち、やり直さないか?」

「いやよ」

 猫撫で声でセディアスが擦り寄ってきた。柔らかな物腰だったが、その目はギラギラとして獲物を狙っていた。

 ネフェリアはジョゼを横たわらせたまま、立ち上がる。セディアスと距離を取った。

 しかしあっという間に距離を詰められ、腕の中に閉じ込められる。

「離して!」

 抵抗したが、びくともしなかった。首筋に吐息が触れて、全身に鳥肌が立った。

「僕に釣り合う容姿だけは気に入っていたんだよな。胸もジョゼより大きいし」

 体が怒りと羞恥で震える。掠れた声で助けを呼んだ。

「ベルゼ……!」

 ネフェリアの背後から黒い影が伸びて、セディアスを捉える。

「ひっ! なんだっ…これ!」

「! 殺さないで!」

 ネフェリアは咄嗟に叫んだ。殺すつもりかどうかわからない。

 セディアスの生死などどうでもよかったが、ベルゼが罪に問われることは看過できない。

 黒い塊からベルゼの腕が現れて手のひらがセディアスの顔を覆う。バチっと音がすると、セディアスの身体がぐらりと揺れて地面に崩れ落ちた。ネフェリアは両手で口を覆った。


「なにしたの?」

 影に向かって問いかけた。恐る恐る屈んで倒れたセディアスの顔に手を当てる。息はある。

 黒い影が霧散して、ベルゼの姿が現れる。

「ここ数時間の記憶を消した」

「……記憶を?」


 記憶を改ざんする魔術など、聞いたことがない。にわかには信じ難かった。

「ご主人様の能力を知られたんだよね」

 倒れたジョゼや、ケーキの箱を一瞥して、状況を概ね把握したようだった。ネフェリアは頷いた。

「ジョゼの記憶も消しておくよ。あとは適当な記憶を上書きしておけばいい」

 ベルゼは事もなげに言って、気を失ったセディアスを影の中に沈めた。


「ご主人様のおかげで怪我も大丈夫みたいだ。この人たちはあとで自宅や屋敷に届けておくよ」

 そう言うと、ジョゼも同じく影の中に溶けていった。

「記憶を消すなんて、そんなこと……」

(火や水、風や土を操る魔術ならある。でも人の精神に作用するような魔術があるとしたら)

 禁忌とされているのではないだろうか。

 ベルゼはこういったことで嘘はつかない。セディアスに襲われかけた時に感じたものとはまた違った類の恐怖が、じわじわと這い上がってくる。


 どうとでもできてしまうのではないか。使いようによっては、国をまるごと変えてしまえるのではないか。


 とてもネフェリアの手に負える代物ではない。ベルゼは呪いに罹り、遠からず死ぬはずだった。その運命を自分が捻じ曲げてしまった。それは果たして正しかったのだろうか。あのとき、路地裏で拾ったのは間違いではなかったか。ただでさえ、ネフェリアは重大な秘密を抱えているというのに。身の丈に合わないことを抱え込み過ぎてしまった。


 立ち上がってこちらに歩み寄る黒いローブが、蠢く影が、得体の知れない化け物に見えて、身体が竦んだ。何より、いつも通りに振る舞う彼が、怖い。


「あ……」

 力なく立ち上がり、じり、と後ずさる。

「ネフェル」

 ベルゼの抑揚のない声が耳に届く。

「…………え?」

(今、なんて言った?)


「…………っ」

 不安や恐怖が一瞬にして吹き飛ぶ。口をポカンと開けた。心臓がバクバクと脈打つ。


「ネフェル。大丈夫?」

「~~~っ」

「もっと早くに来ていればよかった」

 心配そうに近付いてきたベルゼに思わず縋りついた。胸に顔を押し付ける。

「『様』を付けなさいよ! 心臓に悪い……っ」

 情緒がどうしようもなく乱されて、混乱する。ベルゼがネフェリアの叱責にしゅんと項垂れた。

「ご主人様、ごめん……。名前呼びがそんなに嫌だとは思わなくて」

「あ、そうじゃなくて……」

 ベルゼは驚くほどどこまでも平静で、安堵を覚えると同時に、底なし沼に沈む思いだった。


「恥ずかしいから……まだ、だめ」

「……」

 どきどきと心臓の音がうるさい。密着しているせいで、ベルゼの動揺も手に取るようにわかる。

「わかった…」

 答えるベルゼの声も完全に上擦っている。顔が上げられない。背中に腕が回されて、そのまま互いに抱き締め合った。固く目を瞑る。

 ずっとベルゼの善性を信じ続けることができるのか。ひょっとして、すでにネフェリアの記憶も彼のいいように書き換えられてはいないだろうか。そんな不安も恐れも全部この腕の中で消えてしまえばいい。ベルゼを信じたい。


 ふわふわと高揚した感覚はあったが、不思議と気分は落ち着いてきて、ネフェリアは閉じていた目を開いた。

「助けに来てくれてありがとう」

 少し体を離して、ベルゼと向き合った。

 まだ顔が熱いネフェリアとは対照的に、ベルゼは平然として見えて、癪に障る。明らかにベルゼが動揺しているときに顔を覗けばよかったと後悔した。

「ご主人様専属だからね。呼ばれればどこにでも行くよ」


 ベルゼの言葉に、ふと暗い思いが頭をもたげる。少し逡巡してから、口を開く。

「……でも」

 ネフェリアは、夢の中で未来を見たときからずっと心の奥底に抱えていた不満を零した。

「でも、肝心なときに来なかったじゃない」

「?」

 未来のネフェリアは婚約者の浮気相手を虐げたという、ありもしない罪によって裁かれた。

「どんなに呼んでも、叫んでも怒っても……泣いても」

 縋るようにベルゼの袖の端を掴んだ。

 現実のような、未来の疑似体験の感情が甦った。断罪の場で、ネフェリアは激しく取り乱した。友人も、家族すら皆、ネフェリアから離れていった。だれからも見放された。唯一最後に縋りついた先で絶望を突き付けられた。


「あなたは来なかった」

 断定的に告げてからハッとした。ベルゼが不可解な表情でネフェリアを見下ろしていた。いたたまれずに目を逸らし、夢の中の話よ、と誤魔化した。少し先の未来のことだと言ったところで信じはしないだろう。


 恨み言など、八つ当たりだとは自覚していた。今のベルゼが未来のことを知る由はない。それに、未来のネフェリアは随分と手酷くベルゼを酷使していた。あの調子では見限られるのも無理はないと思えた。


 ふーん、と軽い相槌を打ちながら、ベルゼは神妙な面持ちで考える素振りを見せた。

 そうして、彼なりの推測を口にした。

「だとしたら、もう死んでいたんだろうね」

「…………」

 ベルゼは真摯な口調で、ネフェリアの疑問に応えた。ネフェリアの主張を夢の中の話だと否定することも、適当にあしらうこともしなかった。

 いつもは何事もいい加減なくせに、妙なところでネフェリアの機微に聡く反応する。本当は、なにか察しているのかもしれない。

(ああ、こういうところが……)

 ネフェリアが掴んだ袖をそっと外して、ベルゼがネフェリアと距離を取る。安心させるために、ネフェリアの両肩に手を置いた。

 それからベルゼが離れた場所に落ちた箱のもとへ歩いていく。屈んで無惨に潰れて落ちたケーキの箱を拾い上げる。箱に付いたケーキの欠片を掬ってぺろりと舐めた。美味しいと、満足そうに笑みを零す。



「……そう……でしょうね。本当ならあなたの命は……」

 ネフェリアの肯定に、ベルゼは笑みを消して目を細めた。

「知ってたんだ。俺の余命のこと、ご主人様に話した覚えはないんだけどな」

 ネフェリアは曖昧に首を振って追及を逃れた。

 自分の命にすら頓着のない、淡々とした様子に悲しくなった。




 本当は、わかっていたことだ。

 未来で、ベルゼはネフェリアを裏切ったわけではなかった。


 夢の中だからこそ、ベルゼの凄惨な最期が知れた。女神はネフェリアに残酷で優しい真実を見せた。だれも訪れることのない屋敷の地下室でベルゼはただ一人死んでいた。体の肉が腐り落ちて骨だけになっていた。急に死が訪れたわけではない。

 日に日に弱っていく体を魔術で騙し騙し動かして、ネフェリアの前では何でもないように振る舞っていただけだった。今は、呪印はだいぶ薄れている。少しは楽になっているだろうか。死は遠ざかっているだろうか。



 未来で断罪されて修道院に送られる道中、賊に襲われた。ベルゼが最後にくれたお守りがネフェリアを救った。


 あなただけは私を裏切らなかった。


 そのことが希望となって冷え切っていたネフェリアの心を温かく灯した。


 無事修道院に辿り着いたあとは、毎日女神に祈りを捧げ、奉仕した。三十歳を超えた頃、流行り病に罹りあっという間に天に召された。それが予知で見た、己の最期だった。




「せっかく、ベルゼのために作ったのに…」

 ネフェリアもベルゼの後を追って、隣に屈みこむ。箱の中を覗くとケーキは無惨な姿になっていた。セディアスとのいざこざの際に犠牲となったらしい。


「崩れてるけど、十分食べられるよ」

「形も装飾もうんとこだわったの」

 ケーキ職人直々に教わって完成させた傑作であった。


「…ねぇ、ベルゼ。私の作ったもの、毎日食べたい?」

「うん」

 ベルゼが横を向いたまま素直に頷く。

 気付いているのか、いないのか。ベルゼの耳が赤いので、さすがに気付いていると思いたい。

「じゃあ、これからも、あなたのためにだけ作るわ」

 そして必ず呪いを解いてみせる。


 言葉にできない想いを込めて、ベルゼの手を取った。

 ベルゼの瞳が揺れる。

 以前はやせ細っていた腕も随分と逞しくなった。

 奔放で気ままな性格だが意外にも義理堅い魔術師は、たった一度のネフェリアの気まぐれを大事に抱えて、恩に報いるために未来で残りの命を捧げた。

(あなたの献身に報いたいの)


「……見返りは?」

 ネフェリアが瞬きをして顔を上げると、ベルゼは胡乱な目つきでネフェリアを注意深く見ていた。どんな無茶な要求を突き付けられるのかと、戦々恐々としている。

「……」

(いや……そこは普通、もっと違う反応をするでしょう……)

 ネフェリアの好意を信じていないのか、人間性を信用していないのか。いずれにしろ悲しくなると同時に、沸々と怒りが湧き上がってきた。

「はあぁ……」

 深く溜息を吐き、少し間を置いてから、ネフェリアは誰もが見惚れる美貌で微笑んだ。よく耐えたわ、とネフェリアは心の中で自身を労った。もともと短気で我儘な性格なのだ。今まで大した癇癪も起こさず、デリカシーの欠片もない男とよく向き合った。


 それから躊躇なくベルゼの手の甲を捻り上げた。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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