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巨人の拳が迫る。
その瞬間、トムの全身は緊張で固まり、動けなかった。
「終わった……!」
胸の奥から冷たい諦めがこみ上げた――そのとき。
ブフォオオオオオオッッ!!!
地響きのような音が広間を揺らした。
次の瞬間、トムとカッパのジュンチャの体は猛烈な勢いで前へ吹き飛び、巨人の股下をすり抜けていった。
「うわあああああっ!」
「な、なんでやんす!? 急に加速したでやんす!!」
床を転がりながら立ち上がったトムは、信じられない顔で自分の尻を押さえた。
「こ、これ……ただの屁じゃない……へ、屁魔法だ……!」
そう、極度の緊張と死の淵に立たされた瞬間、河原のジュンチャが教えてくれた屁魔法が暴発したのだ。
爆発的な推進力を持つ屁が、まるでロケットのように二人を吹き飛ばしたのだった。
そして、巨人はというと――。
あの黒い鱗をまとった巨体が、鼻を押さえるようにして転げ回っている。
「グオオオオオォォッ!!」
鱗で守られた巨体は刃も水もはじく。
だが、屁魔法が生み出した圧倒的な臭気までは防げなかったらしい。
あまりの匂いに、巨人はのたうち回って苦しんでいた。
「くっ……ぷははっ! こいつ、屁にやられてるでやんす!」
「は、はははっ! マジかよ……こんな所で役に立つなんてっ!」
二人は顔をしかめながらも、腹を抱えて笑った。
涙が出るほど臭く、涙が出るほどおかしい。
緊迫した戦場に、場違いなほどの笑い声が響きわたった。
だが――。
笑っていられるのも束の間だった。
巨人は苦しみながらも、なお立ち上がろうとしていたのだ。
「今だ! 攻撃するしかねぇ!」
トムは刃の魔法を剣にまとわせ、叫ぶ。
「スイスイーでやんす!」
カッパのジュンチャも両手から水のカッターを放った。
二人の攻撃が一斉に巨人へと飛ぶ。
だが――。
キィィン! ガキィィン!
火花が散るだけ。
鋼鉄以上の硬度を持つ鱗は、屁魔法の隙を突いた攻撃すら許さなかった。
「……効かねぇ!」
「これじゃあ、決め手にならねぇでやんす!」
トムは奥歯を噛み締め、必死にもう一度屁魔法を出そうとした。
だが、先ほどの一撃で体力も精神も限界に近い。
「う、出ない……!」
その間にも、巨人の胸の紋が真紅に輝きを増し、再び巨腕が振り下ろされる。
「ジュンチャ! どうする!?」
トムが叫び、振り返る。
カッパのジュンチャは唇を震わせながらも、答えようと口を開いた。
「……まだ、あっしが――」
ズドンッ!!!
巨人の拳が落ちた。
雷鳴のような衝撃音とともに、カッパのジュンチャの体は一瞬で吹き飛ばされた。
「カッパァアアアアアアアア!!!」
土煙が広間を覆う。
トムは咳き込みながら必死に駆け寄る。
やがて砂埃が晴れたとき――そこにあったのは、見るも無惨な姿だった。
岩に叩きつけられたカッパのジュンチャ。
その横には、ポトリと落ちる片腕。
「や……やめろよ……カッパ……! 嘘だろ……!!」
その瞬間、トムの中で何かが壊れた。
胸の奥から湧き上がるのは、恐怖でも悲しみでもなく、理性を焼き尽くす狂気。
「うあああああああああああああああああああっ!!!」
トムの絶叫が広間を揺らした。
巨人はなおも立ちはだかっている。
トムの目には、もはや理性は残っていなかった。
倒れるカッパのジュンチャの傍らで、トムはただ叫び続ける。
「殺す……殺してやる……絶対に殺してやるッ!!!」
広間に響くのは、巨人の唸り声と、トムの狂気に満ちた咆哮だけだった。