転生した辻回復大好き人間、人に気付かれずに何でもかんでも回復する
ハナは回復職が好きだった。
困っている誰かを助けられる。
仲間と組んで冒険をした時は、全員が生きて帰れると、とてつもない達成感を覚えた。
もっとも、ハナのいる世界では、魔物は出ない。
あくまで、ゲームの上での話だ。
しかし、ゲームに慣れていく中で、ハナには不満が募った。
スキルを覚えるために、わざと瀕死の状態でプレイしていたのに、回復されて迷惑だ、とか。
クエスト中で使わなければいけない道具だったのに、回復されて使えなかった、とか。
回復されることが迷惑な状況もある。と、知ってしまったのだ。
極めつけは、回復職のあるゲームが減ってしまったこと。
苦労して敵を倒すことより、何体もの敵を倒すことより、ハナは人を回復させることが好きだった。
「あ~~~事情とか状況とか関係なく、思う存分善意の押し付けがしたいーー!!!」
ハナに焼き付いている記憶は、それだけだった。
今、ハナの目の前には、果てなく広がる白の空間。
地平線と思われる場所は、薄く黄色が広がっている。
そして、ハナの目線の上には、巨大な人が浮いていた。
女性と思えば女性に、男性と思えば男性に見えるその人は、ゆっくりとハナに語り掛けた。
「ハナよ……人の生、お疲れさまでした」
「はっ……ひぇ?」
ハナには理解が難しかった。
「あなたに頼みたいことがあったので、人の生を終えたあなたの精神を、私の世界へ呼ばせていただきました」
すっと、浮かぶ人は両手を広げた。
その姿は神々しく、とても威厳のあるものだったので、ハナは自然と居住まいを正した。
そのまま、おそるおそる問いかける。
「もしかして……あなたは神様ですか?!」
浮かぶ人は、ふるふると首を振る。
「ハナの中にある言葉で示すなら、私は天使……でしょうか」
「天使サマ!!」
ハナは、浮かぶ人を拝んだ。
浮かぶ人は続ける。
「神、と呼ばれる方は、私たちの上司にあたります。私たちは、それぞれいくつかの世界を割り振られ、その管理をしております」
壮大な話だ。
ハナは知らずのうちに、喉を鳴らした。現実感がなかった。
ゆっくりと、ゆっくりと。天使様の言葉が、ハナの頭に染みわたる。
「え?!私、死んじゃったんですか!?」
ようやく、最初の言葉が染みこんだ。
「はい。といっても、立派に老後を迎え、旅立ちましたよ」
ハナは、ほっとした。
しかし、自分の記憶には、そんな情景がない。
天使様は、まるで彫像のように笑ったまま、話を続ける。
「ハナには、やっていただきたいことがあったのです。その為に、一番都合の良い記憶が残っています」
そういえば、天使様は頼みたいことがあると言っていた。
ハナは頷く。
自分は一体、何を頼まれるのか。
「あなたには、思う存分、世界の人々の傷を回復させてもらいたいのです」
「やります!!!!!!」
ハナは、くい気味に答えた。
「良いんですか!マジですか!好きに回復していいんですか?!いいんですね!!」
「マジです」
天使様がニッコリと言う。
そんな言葉に、ハナは少し冷静になった。
「天使サマが、マジとかっていう言葉使うの、何だか変な感じですね……」
せっかくお姿が威厳に溢れているのに。と、ハナが残念がる。
天使様の表情は変わらない。
「言葉は、ハナの中から借りています。我々の言葉は、ハナには難しいと思うので……」
「ちょっとだけ、ちょっとだけ天使サマの天使らしいとこが見たいです!!!」
興奮するハナに、天使様は、では……と姿を崩した。
ハナの目の前で、天使様は姿を変えていく。
人の言葉で形作れないそのモノは、おそらく言葉を発した。
固まるハナの耳に届くのは、脳が揺さぶれるような高周波。
ハナは、意識を飛ばした。
「はっ!!!」
「それでは、説明させていただきますね」
「はい」
気が付いたハナは、自らの矮小さを知り、冷静に、かつ、素直になった。
正座をしたハナの前で、変わらず浮かんだ美しい人は、ゆっくりと話す。
「私と双子の存在である天使がいるのですが、その子がだいぶ人間に寄ってしまったのです」
それぞれで、いくつかの世界を管理する天使たち。
世界は神のものだから、天使たちはあまり世界には干渉しない。
それでも、神は人間が好きだから、何とか人間が生き残るように、天使たちは試行錯誤をしてきた。
「しかし、人間に寄ってしまったあの子は、人間が滅びれば良いと思ってしまった」
人間同士で、争いはいつまでも起こる。
人間のことが好きになってしまったあの子は、ならば人間が最後の一人になれば良いと思った。
人間の望む、人間が一人だけの世界になれば良いと、楽しみにしている。
それが、人間の望んでいることだから。
人間を殺す魔物が闊歩する世界になっても、あの子は人間が減るごとに喜んでいるのだ。
「それは、神の真意では、ありません」
神は人間が好きだが、あの子のようには、思っていない。
小さくて小さくて小さい生き物が、自分に縋ってくることに、喜びを感じるのだ。
その数を減らすなんて、とんでもない。
「なので、ハナには、あの子の世界に行ってもらって、片端から人々を回復してほしいのです」
ハナは少し、考える時間をもらった。
是か非かを考えるのではなく、情報の整理に時間が必要だったのだ。
「はい、はい……ところどころ怖かったですが、話は何となくわかりました」
天使様は、変わらず浮いている。
その姿に、質問をしても良さそうだと、ハナは、おそるおそる声を出す。
「私が回復しまくったとして、その世界を管理している天使サマに怒られたり、しません、かねぇ」
「大丈夫です。もしもの時は、ハナが苦痛を感じる前に、私の世界へ移動させましょう」
どんな世界なんだろう。
聞きたかったけれど、好奇心で言って、先ほど酷い目にあった気がするので、ハナは口を噤んだ。
何か恐ろしいモノを見たような記憶は、薄くなっている。
天使様が続ける。
「それと、回復するときに、神に祈りを!と、言うと良いでしょう」
「神に祈りを、ですか?」
何度か、口の中で言葉を転がす。
「人々が神に祈るようになれば、神は喜びます。そうなれば、私たち天使は、下手に人間に手を出せなくなる」
ひいては、ハナの身が守られる、ということ。だろうか。
自分を守る言葉だと思い、ハナは、しっかりと心に刻む。
「さて、他に、ハナが回復を心おきなく行うために、必要なことはありますか?」
言われて、ハナは考える。
魔物がいる世界。
では、自分がやってきたゲームの中のような世界なんだろうか。
そこで必要なもの。
「あ!隠密とか、人に気付かれにくいスキル?スキルで良いのかな。そういう技とか、もらえたりしますか!」
天使様は、にっこりと笑い、告げる。
「馬車に轢かれ、誰にも気づかれず手当てもされずに朽ちていく、というハナが見えます」
「天使サマ、ちょっと細部詰めましょうか」
そうして、ハナは長時間、天使様と語り合うことになった。
某世界、とある国の、とある森。
ここは今まさに、魔物の大群との戦闘中だった。
北からやってきた魔物たちは、あっという間に森を呑み込んだ。
「下がるな!上がれ、上がれー!!!」
兵士長である彼は、喉が枯れても叫んでいた。
夜に響いた、地響きのような大群の足音。
圧倒的に足りない兵士の数だが、彼らは、奇跡的に大群を押し留めている。
少しでも、この戦列が下がれば、そこには村がある。
腕が上がらなくなっても、足の感覚がなくなっても、彼らは下がるわけには、いかなかった。
まだ年若く、身軽な若者が応援要請に走っている。
街の騎士団さえ間に合えば、戦線は変わるはずだ。
兵士長の目の端に、倒れた仲間たちの姿が映る。
まだ息はあるようだが、助けに行く余裕もない。
カイルは、子どもが産まれたばかりだ。この子のためにも頑張ると、そう言っていた姿が浮かぶ。
トッドだって、ようやくプロポーズが成功したのだ。今度、みんなで祝賀会を開こうとしていた。
そいつらも、あいつも、こいつも。今は、傷だらけで、倒れている。
くそ、くそ、くそ。
わかっていた。
北の大陸は、魔物たちの世界だ。
そいつらが、いつかはココに流れてくるだろうと、予測だってされていた。
何回かに渡っての討伐隊だって、派遣される予定だった。
なのに、なんで、今、こんなに、押し寄せてくるんだ。
声を出す気力もないまま、剣を振る。
もはや、剣の重さだけで振っている状態だ。
一匹の魔物が倒れても、次の魔物が迫ってくる。
視界が、狭くなる。
ああ、もう――――。
「神に祈りを!!」
場違いな声がして、暗くなりかけた目の前が、明るくなった。
「な、んだ……?」
兵士長に、声が戻る。
軽くなった体が、無意識のまま、魔物の攻撃を弾き返した。
気付けば、地獄の絵のようだった目の端が、明るく彩られている。
「うおおおおおぉぉぉぉ!!!」
子どもに逢いたいと、カイルが魔物を数匹斬っていく。
愛する人に愛していると言いたいと、トッドが体術で魔物を怯ませ、剣でトドメを刺していく。
気を取り直した兵士長も、先ほどまでと違い、力が湧いた体で、次々と魔物を倒していく。
「神に祈りを!!」
再び、響き渡る声。
「神に祈りを!!!!!」
兵士たちが、口々に声を上げた。
魔物が、目に見えて減ってきた時、騎士団の来る音が鳴った。
兵士長は、動けなかった。
自分たちを追い越して、騎士たちが魔物を倒していく。
仲間の兵士たちが何人も、生きて、動いて、こちらへ来る。
「おぉ…………おぉ、神よ!!」
兵士長は、涙を流した。
仲間たちの顔にも、涙と共に、笑みがある。
古くからの知り合いの騎士団長が兵士長に声をかけても、兵士長は何も言えなかった。
ただ、ただ、涙と共に、笑い声のみが、口から出るばかりだった。
某世界、とある国の、夕方の騎士団訓練場。
一人の騎士が、壁を殴りつけた。
そのまま、壁に頭を付ける。
「ディーン、大丈夫か?」
彼の後ろから、声がかかる。
振り向いたディーンの後ろには、眼帯をした同じ騎士の姿。
彼らの他に、人影はない。
「ブレントン、笑いにきたのか?」
「まさか。心配したに決まってるだろ?」
「だろうな。そうだろうさ。お前は昔から、そうだ」
二人は、幼馴染だった。
小さい頃から競い合い、学生時代には良い友人となり、共に国を護ろうと、騎士の道を志した。
「なぁ、これは罰か?オレがお前を呪ったから、だからオレはこんな目にあうのか?」
「ディーン、落ち着け」
ディーンは、壁を殴り続ける。
その姿を、ブレントンは止めることはなかった。
いつだって、ブレントンはディーンの先にいた。
騎士団に入ったのは同時だったのに、見習いを抜けるのも、昇進するのも、いつだってブレントンの方が先だった。
だから、ブレントンが目に怪我を負った時。
心配する気持ちはもちろんあったが、これでお前より上に行ける、と、ディーンは思ってしまったのだ。
何よりも、ディーンはずっと、思ってしまっていた。ブレントンが怪我をすれば良いと。
ブレントンは、眼帯に手を当て、言う。
「これは俺のミスで、お前のせいなんかじゃない。そう言ってるだろ」
魔物から子どもを庇って負った怪我。
名誉の負傷だと、ブレントンはいつも笑う。
そのたびに、ディーンの心は沈んだ。
そして今日、ディーンの足は、思うように動かなくなった。
馬車から、子どもを庇った結果だった。
「もう、騎士を続けることは出来ない」
ディーンが、呟いて膝をつく。
壁を殴っていた手からは、血が出ている。
「せめて、ブレントンみたいに、魔物相手でついた怪我なら、良かったのに」
笑い声にもなっていない、渇いた笑い。
「ディーンだって、名誉の負傷だ。人の命を救ったんだぞ」
「オレのことは誰が救ってくれるってんだよ!!!」
眼帯をしたブレントンは、悲痛な顔をする。
それも見ずにディーンは、手を顔に当て、首を振った。
「ごめん、ごめんなブレントン。完全に八つ当たりだ。……だから、オレはダメなんだ」
「駄目じゃない。お前は、駄目なんかじゃないよ」
ブレントンは、不器用なディーンの努力を知っていた。
人一倍努力家なディーンを見ていたから、ブレントンは頑張れたのだ。
ディーンは、いつだってブレントンが先を行っていると思っている。
だが、ブレントンは孤独だ。
ディーンはいつだって、周囲を持ち上げて一緒に進んでくれている。
それがどんなに、ブレントンにとって、眩しくて羨ましいか。ディーンは知らない。
「ブレントン……オレはただ、お前みたいな最高の友達に出逢えたこの国を、護りたいだけだったんだ。
本当に……それだけ、だったんだ」
ディーンの暗く沈んでいた心が、もう、ブレントンと同じ舞台に立てなくなって、ようやく晴れた。
しかしそれは、遅すぎたことだった。
「ディーン。俺もだ。俺だって、お前と馬鹿やった山とか、店とか、取り合ったあの子を護りたいだけだよ」
「はは……。あの子な、もうじきお母さんになるんだってさ」
「本当かよ。やっぱりディーンの情報網は、すごいな」
ブレントンが手を伸ばす。
そうして、ディーンはふらつきながらも、立ち上がった。
「神に祈りを!!」
瞬間、響き渡る光と声。
「なんだ!?」
咄嗟に、二人は迎撃態勢をとる。
しかし、周囲に物音はない。
「今、のは……?」
警戒を怠らないまま、二人は周囲を見渡す。
まさか、騎士団の訓練場に忍び込むヤツが、いるわけはない。
そうは思うが、たしかに今、声がしたのだ。
「ディーン!!」
ブレントンの声に、ディーンは咄嗟に身構える。
そうして、気付いた。
「な、あれ、オレ……え……?」
足が、動く。
先ほどまでは確かに、引き摺らなければ動けなかった。
騎士団の除隊願いを書かなければ、と思っていた、はずだった。
ディーンの姿に思い立ったブレントンは、眼帯を外す。
「見える……!?」
「ブレントン!!」
わけがわからないまま、二人は手を高く上げて叩き合った。
「なんだ、なんだこれ!なんだよ!」
ディーンは、何度も飛び跳ねた。
あんなに痛かった足が、動かなかった足が、思い通りに動く。
それどころか、最近の訓練での、体中の痛みも消えている。
「わからん!わからんけどやった!やった!!わからん!!」
「あははは!!わかんねー!!なんだこれ!!」
「あはははは!!!」
二人は笑った。
笑い合いながらも、涙が出てきた。
そうしているうちに、二人の笑い声が届いて、騎士仲間が訓練場へと出てくる。
仲間たちも次々と、二人の姿を見て、歓声を上げるのだった。
某世界、とある国の、とある街。
「私と、婚約破棄してください」
顔をヴェールで覆った少女が、応接室で、向かい合ってソファに座る一人の貴公子にそう言った。
「出来ない。したくないんだ、アデライード」
返された言葉に、少女は、膝の上で拳を握る。
「どうして、ですか。こんな……こんな私では、ジョルジュ様の婚約者では、いられません」
零さないでおこうと思った涙が、零れる。
連日、あんなに泣きはらして、もう枯れたと思っていたのに。
「愛しているんだ。アデライード」
「でも!……でも、私は、もう」
二人は、婚約者同士だった。
政略で結ばれた婚約だったが、二人はゆっくりと、愛を育んでいた。
そんなある日、彼らが通う学園に、魔物が現れた。
幸いにも、戦う術を学んでいた学生たちだったので、魔物は撃退出来たのだが。
一人の生徒を庇って、アデライードは怪我を負った。
その場所は、顔だった。
治療魔法でも癒せないほどの、深い傷。
アデライードは人前に出ることが、出来なくなった。
アデライードは落ち込んだ。
彼女が庇った生徒が、責任を感じ、多額の賠償金をくれた。
もちろん学園も、学園の不始末として、様々な国の治療師を派遣してくれた。
それでも、ダメだったのだ。
魔物の、最後の一撃。
呪いのこもったそれは、アデライードの顔だけではなく、体も蝕んでいるようだった。
婚約者のジョルジュが、ソファから立ち上がり、アデライードの隣に座る。
そのまま、彼女が握り込んだ拳を、両手で包む。
「一緒にいたいんだ、アデライード」
少し前までは、当然のように、二人で未来を語っていた。
結婚前のこと。結婚後のこと。やりたいこと、見たいもの。
それら全てが、失われた気持ちだった。
「………………私、ひどいんです」
アデライードが、呟く。
「傷を負ったら、ジョルジュ様のお嫁さんに、なれなくなるって、そう思ったのに」
「うん」
「それでもね、彼女を庇ったこと、後悔、してないんです」
「うん」
「たとえ、時が戻ったとしても、きっと、同じこと、しちゃう」
「そしたら、僕がアデライードを守るよ」
「嫌、ジョルジュ様が、怪我をするのは、いやなの」
「うん」
ジョルジュは、アデライードを抱きしめた。
応接室には、メイドや護衛がいたが、皆、見て見ぬふりをしてくれている。
何人かの目は、赤くなっていた。
「私、家のことを考えられて、ない。貴族、失格なんです」
「うん」
「だから、ジョルジュ様の、婚約者では」
「好きだよ、アデライード」
「こんな、顔じゃ、夫人の務めだって」
「好きだよ」
アデライードの声が、小さくなって、途切れていく。
ジョルジュは、本当に、アデライードのことが好きだった。
傷が気になるなら、消してあげたい。もちろん、あっても気にならない。
彼女の寿命が、傷によって削られているなら、最後の瞬間まで、自分が傍にいたい。
少しでも、この気持ちが届けば良い。
ジョルジュは、アデライードを強く抱きしめた。
「神に祈りを!!」
応接室に響く、声と光。
瞬間、メイドがアデライードとジョルジュへ被さり、護衛が二人を囲んで室内を見渡す。
「今のは!?」
「お二人とも、体に異変は!?」
曲者の姿が見えず、人々は二人へ声をかける。
「僕は大丈夫!アデライード、変わったところはない?!」
「だいじょう………………」
声を出して、アデライードは気づく。
顔の、皮が引き攣る感じがしない。
「アデライード?」
心配したジョルジュの声がする。
彼の腕の中で、アデライードは、自分の名前を呟く。
「アデライード。アデライード……」
様子の違うアデライードの姿に、メイドも護衛も顔を見合わせる。
数人が、部屋の外へ、周囲の様子を見に出た。
「スティーブ、パトリック、マリーヌ、ロール」
アデライードが、部屋にいる人の名前を、挙げていく。
顔が、あんなにも、名前を呼ぶことにさえ痛みを伴っていたのに、それがない。
そうして、自分の顔に手を触れる。
でこぼことした、あの感触が、ない。
アデライードが、ジョルジュの腕の中から離れる。
様子のおかしいアデライードに声をかける者はなく、全員がその様子を見守っていた。
「マリーヌ、ちょっと」
呼ばれたメイドが、アデライードの傍へ寄る。
そうして、アデライードは、マリーヌにだけ見えるように、顔にかかっていたヴェールを捲った。
「!!!!!」
メイドのマリーヌは、声を失った。
そのまま固まってしまったマリーヌを見て、ジョルジュは不安になる。
「アデライード、いったい何が……」
マリーヌの反応を見て確信を得たアデライードは、ヴェールを外してジョルジュを見た。
ジョルジュの顔が止まり、笑顔になりかけたところで、涙が零れる。
「アデライード!」
「お嬢様!!!」
ジョルジュの声は、何倍も大きいメイドと護衛の声に掻き消された。
その声を聞いて、アデライードの両親も駆けつける。
両親が、ジョルジュを跳ね除けてアデライードを抱きしめるのは、もうすぐだ。
某世界、とある国の、とある街。
ボロを着た少年が、寝台で眠る母を見ていた。
「あのね、お母さん。今日、とってもステキな話を聞いたんだよ」
病気の母の代わりに働く少年は、勤務先の食堂で、とある噂を聞いた。
なんでも、神の使いが現れたという。
どんな怪我でも、どんな病気も、治してくれる。
でも誰も、その者の姿を、見たことはない。
とある国と国との戦争では、両国の兵士が延々と回復され続け、疲弊した上層部により、戦死者もなく戦争が終了したとか。
とある海では、行方不明になった人々が、次々と無傷で港へ帰ってきているとか。
また、とある国では、討伐不可と思われていた魔物が、神の使いの力を借りて、ついに討伐されたという。
「お母さんの病気も、治してくれるといいのにな。……こんな小さな家じゃ、見つけてもらえないかな」
寝ながらも苦しそうな母の汗を、濡れた布で拭う。
今日も、疲れた。
だけど、どんなに働いても、母の薬には届かない。
瞼の重くなった少年は、うとうとしながらも、母に語り掛ける。
「そうそう、神の使い様は、いつも、こう言うらしいよ」
目を閉じた少年は、呟く。
「神に祈りを」
寝入ってしまった少年は、自分の声に、誰かの囁き声が重なったことに、気付かなかった。
顔色が良くなった母親は、微笑みながら眠っている。
某世界、とある国の、とある城。
「ええい、神の使いとやらは、まだ見つからんのか!」
王様が、玉座から立ち上がって、玉座の間を歩く。
いつもなら顔色の悪い大臣が、ニコニコと答える。
「見つかりませんねぇ。もういっそ、見つからないままでも、良いではありませんか」
そう答えた大臣のことを、王様が睨みつける。
「お前、昨日までは、早く見つけたいと言っていたではないか」
「いやぁ全く。本当にねぇ。見つかればまぁ、見つかった方が良いんでしょうがねぇ」
昨日までは、見つからないことに焦りを浮かべていた城の兵たちも、今日は機嫌が良さそうにしている。
王様は、自慢のヒゲを触りながら、ずっと気になっていたことを大臣に問う。
「ところでお前、髪の毛めちゃめちゃフサフサじゃない?」
眩しかった大臣の頭には、輝く髪が生えている。豊かな髪は、ゆるい三つ編みまで、されている。
「まさか毛根も回復するとは、思いませんでしたなぁ」
「お前!会ったのか!?会ったなら捕まえろ!!」
大きな声を上げた王様は、そのまま、勢いよく玉座に座る。
「そういう王様も、治ったのではありませんか?痔……」
大臣の囁くような声に、ぎくりと、王様が肩を揺らす。
玉座の間に、少しの沈黙。
王様は笑った。
「まあ、もう少し、様子を見てやろうかなぁ」
「見つけたいんですけどねぇ、見つかりませんねぇ」
全員、体の調子が良いので、なんだか心が広い。
こんなに回復するのなら、ずっと自分たちの傍にいてほしい。
でもまぁ、なんか、世界のみんながこんな思いをするのも、それはそれで素晴らしいなぁ。
王様は、呟いた。
「神に祈りを」
全員がそっと、祈りを捧げた。
この世界を担当する天使様は、焦っていた。
せっかく順調に減っていた人間の数が、減らなくなったのだ。
何者かはわからないが、何者かのせいで、死ぬ人間が減っている。
それも、一応、人間としての力の範囲内で、人間を助けている。
他の天使の介入かと考えたが、人間としての力の範囲内で暴れられているので、直接排除することも出来ない。
規格外の力なら、世界を乱すとして、直接介入して排除出来るのに。
天使様は思いついた。
人間を減らすなら、人間だ。
天使様は、神託として、この世界の神殿へお触れを出した。
「神の使いとされている者を、排除しろ」
世界中の、何人もの神官長が、その声を聞いた。
神聖力溢れる人間たちも、その声を聞いた。
そうして、世界のいたるところで、会議が行われた。
神聖力溢れる人間たちは、井戸端で話し合った。
そして、全員の結論が揃った。
――聞こえた声は、悪魔の声だ。
神の使いを排除しようとする、悪魔の声だ。
この頃、魔物が減ってきているから、魔物側が焦っているのだ。
ここで我らは、奮い立たなければならない。
神に祈りを。
――神に祈りを!!!
天使様は、思っていたのと違う展開に、当惑した。
しかも最近、上司である神様は、この世界からの祈りの力が強いので、ご満悦なのだ。
これではもう、異変を排除出来ない。
人間は、増えるしかない。
天使様は、項垂れた。
そんなことも知らず、尽きぬ回復力を与えられたハナは、羽の生えた靴で世界を跳び回っていた。
「うっひょ~~~事情も背景も知らずに回復して去っていくの超たのしいぃぃ~~ッヒッヒッヒ!!!」
普段は人に見つからないように生活をして、怪我や病の噂を聞きつけては、回復をして去る。
何日も何も食べなくても活動出来る体にしてもらったので、延々と回復作業することだって出来る。
自慢の古傷だとか、怪我が誇りだとか、やっと死ねるとか、そんな事情なんて知ったこっちゃない。
回復したいから回復をかける。
後の騒ぎも混乱も、自分の耳には入れない。この気持ちを止めたくない。
全ての文句は神様に言ってね!のノリで、ハナは今日も高らかに楽しく叫ぶ。
「神に祈りを~~!!!!!」
某世界、とある国の、とある村。
水が枯れ、畑が腐り、人々は伝染病で倒れていた。
明日にも、誰かが亡くなるかもしれない。
村の人々は、過ぎていく時間、一秒一秒が恐ろしかった。
そんな、夜も明ける頃。
ひとつの声が、村に響いた。
「神に祈りを!!」
朝日と共に、村は光に包まれる。
目覚めた村人が、何人も、何人も、家から出てくる。
「……奇跡だ……」
村人同士で、顔を見る。
昨日は、体を起こすことも出来なかった若者が、立っている。
朝を迎えられるか、わからなかった老人が、その場で飛び跳ねた。
人々の困惑顔が、次々と笑顔になっていく。
水は枯れ、畑は腐ったままだ。
それでも、人々は元気だった。
病に倒れた時、もっと、ああすれば良かった、こうすれば良かったと、後悔ばかりだった。
細かいことに拘り続け、ずっと動けなかった気持ちが、動き出す。
なんだって出来る、どこへだって行ける。
だって我らには、健康な体がある。
「神に祈りを!」
村人が、誰からともなく、声を上げた。
それは、波となって、村を包んだ。
朝日は柔らかく、村を照らしていた。