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魔道の境地の一つとされているものに、無詠唱があります。
その名の通り詠唱を必要とせず、頭の中に魔道式
を描くだけで発動するこの方法が確立されれば、魔術師最大の弱点である詠唱時間がなくなります。
「その境地を、魔道の才能が欠片もないクラリスが曲がりなりにも実現しているなんて、なんとも皮肉な話ですね。もっとも、クラリスも本意ではないのでしょうが」
魔力を薄紫の液体に変えて全身に纏ったクラリスを攻撃する度に、銀色の犬の動きが鈍っています。
クラリスの言葉を信じるのなら、あの液体はすべて毒。
原理はさっぱりわかりませんが、クラリスは魔力を術式無しで毒に換えたのです。
いえ、換えさせられた。
殴り合いを望んでいたのに、いざ始まってみれば手も足も出なかったクラリスにとって、あれは苦肉の策でしょう。
「まったく、バトルジャンキーの思考は理解できませんね。チカパシの様子でも見るとしますか」
そう決めたわたしは、各種探知系魔術の範囲と精度を上げてチカパシと謎の狙撃手を探しました。
ですが、見つかりません。
範囲を全天全周、半径五百メートルほどに広げて精度も上げているのに、どの魔術にも二人が引っかかりません。
「もしかして、範囲外で戦っているのでしょうか。いや、それにしてもおかしい。クラリスと銀色の犬が戦い始めて十数分ほど経っているに、銃声が一発も聞こえていません」
それはつまり、チカパシと狙撃手はまだ、相手の位置を探り、探られているということ。
クラリスの戦闘と比べたら地味ですが、この静かな戦い……と、言うよりは、二人の隠遁術に興味があります。
「あと使っていない探知系魔術は……」
残念ながら、わたしが知っている探知系魔術はすべて高精度で使用中。
と、なると、新たに作るか覚えるかする必要があるのですが、どちらも非常に難易度が高い。
そもそも、何を探知すればいいのでしょう。
魔力も、音も、光も、熱も、考えうるほぼ全ての要素を探知しているのに、これ以上何を?
「あ、そういえばハーロット・オブ・バビロンの術式に、意図がわからない術式がありましたね」
その術式名は気体測定魔術。空気中の成分を調べる魔術です。
そんなものを調べてどうするのかわからなかったので、クラリス・クラーラ改二からは外しています。
「まあ、現状は他に手が有りませんし、ダメ元で使ってみましょう」
試しに使ってみると、今まで見えなかったものが見えました。
この場に存在する全ての生物の呼吸前と後の空気の違いが、可視化されたのです。
「なるほど、これなら見つけられるかもしれません」
どんな生物でも、無呼吸で動き続けられる時間は知れています。
音も出さず、体温も雪と見分けがつかないほど下げて移動し続けている二人でも、呼吸はしているはずですから。
「いました。約二百メートル西に行った先の開けた雪原」
そこで、二人は慎重に移動し続けています。
他の探知系魔術の情報を視覚化しただけでは何かが動いているように見えませんが、呼吸は隠しきれていません。
ですが二人とも呼吸は数分に一回、しかも非常に短時間。注意深く見ていないと、すぐに見失ってしまいます。
「さて、どっちが優勢なのでしょう?」
一方は距離を詰めようとしていて、もう一方はその逆。二人の武器の射程を加味すると、前者がチカパシでしょう。
「まあ、チカパシは期間限定とは言え仲間ですし、援護してあげますか」
わたしは雪鎖拘束魔術と氷壁防護魔術を狙撃手の進路上に遠隔発動しました。
ですが、二つの魔術が発動する寸前に狙撃手は逃れてしまいました。
「でも、これで終わりです」
狙撃手は姿を晒しました。
雪原から飛び出したのは、黒い革製のロングコートと、同じく黒い革製の耳まで隠せるハンティングキャップを身に着けた十代後半くらいの美少年。いえ、体形を見るに女性でしょうか。
「さあ、あとはチカパシに任せるとして、クラリスの方は……」
銀色の犬は毒のせいで動きが鈍っていますが、それでもクラリス並みのスピードを維持しています。
対するクラリスは、魔力を毒に換えるのをやめて、噛みつかれたり引っ掻かれたりされつつも反撃していました。




