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母の記憶は単純に百年分。
その五分の一も生きていないわたしにとっては、想像もできないほど膨大な量です。
中にはわたしですら目を背けたくなような凄惨な出来事や、逆に加わりたいと思ってしまうほど微笑ましく楽しそうな記憶もありました。
もちろん、わたしの知識欲を満たすものも。
「ねぇねぇ、エビオン。法術ってこれで良いの? やり方あってる?」
「あ、合っています。ウィロウ様。よもや、少しお教えしただけでわたくしめと同じ……いえ、わたくしですら今だ理解しきれていない主の御心にお触れになるとは思いませんでした」
「聞いた? 魔王ちゃん! 現役バリバリの聖人に褒められたよ!」
その一つがこれ。
魔王城の城壁の片隅にたむろしている小汚い恰好をした物乞いたち……もとい。エビオンとその一派十数人のもとで、ウィロウが法術の手解きを受けている記憶です。
「エビオンよ。さっきウィロウがやったのは、本当に法術か? 魔術では?」
片膝を突いてかしこまっているエビオンに、知らない男性の声が質問しました。
エビオンが視線を母へ向けたので、先ほどの質問は魔術で声、さらには姿まで男性に変えていると思われる母がしたのでしょう。
「さきほどウィロウ様が成したのは、『主と一緒に死んだなら、主と同じように生き返ってみんなハッピー』という教えを実現する奇蹟。間違いなく法術、しかも、今だ誰も成したことが奇蹟中の奇蹟でございます、魔王様」
「いやいや、ウィロウは幽霊だぞ? 生き返るもクソもないが? ピカーっと光っただけで、何も変わってないぞ? と、言うかみんなハッピーって何だ。前々から思っていたが、お前たちが信仰している神はノリが軽くないか?」
「いいえ、間違いありません。ウィロウ様のお身体を通して、たしかに主の御力を感じました。おそらくですが、普段からレイ・ラインという莫大な力と繋がっておられるウィロウ様は、主のお力の受け皿として理想的な性質を知らず知らずの内に獲得なされていたのだと思います」
「じゃあ、ウィロウは死んでも生き返るということか? すでに死んでるのに?」
「主は、死とは肉体の死ではなく魂の死と説いています。つまり、魂が消滅したときこそが、本当の死です」
「と、言うことは、ウィロウは消滅させられても一回は大丈夫な状態になっているということか。差し詰め、残機プラス1だな」
「ザンキ? それは何でございますか?」
「……昔、どこかの国で聞いたスラングだよ。それよりもエビオン。少しの間、人払いをしてくれないか? お前と二人きりで話がしたい」
「それはかまいませんが……」
エビオンが命じるまでもなく、目配せしただけで取り巻きたちはそそくさとどこかへ行ってしまいました。
ですがウィロウは不服らしく、「ちょっと魔王ちゃん。メイド属性が付与されたお姉ちゃんで誰よりも親身に魔王ちゃんの身の回りの世話をしたり愚痴を聞いてあげたりしてるわっち抜きで内緒話をするつもり?」と、頬を膨らませて抗議しています。
それでも母は勤めて冷静に、「良いから、今は我を信じてくれ」と言って、ウィロウを引き下がらせました。
「……エビオン。幽体化したウィロウは近くにいないな?」
「はい。気配は感じません。何なら、結界を張りますか?」
「頼む。この話は、お前にしか聞かせられぬ」
「わかりました。少々、お待ちください」
エビオンは母に断りを入れると胸の前で両手を組んで瞳を閉じ、「主よ、知恵ある者とともに歩む我らに幸いを。友ならざる愚か者には害を与えたまえ」と唱えました。
すると、母とエビオンを包むように虹色の球体が形成され、周りの音が消えました。
「へぇ、これが法術の結界か。効果は?」
「教え通りでございます。結界内にいる限り、何者もわたくしたちを害せません。仮に害そうとすれば、相応の罰が下ります。もちろん、幽体化したウィロウ様でも結界はすり抜けられません」
「あんなに短い詠唱で、効果は絶対守護領域魔法並みじゃない。ホント、法術って聖人レベルの人が使うとチートだわ」
「ま、魔王様?」
「ん? どうかした?」
「いえ、その、口調が、その……」
「ああ、ごめんごめん。男装したままだった」
母の目の前が淡い光に包まれると、段々と視線が下がり始めました。
視線が下がるのに比例してエビオンの顔は驚愕に変り、下がりきる頃には限界まで目も口も開いていました。
「あなたには初めて見せるわね。これがあたしの本当の姿。どう? 綺麗でしょ?」
「は、はい。大変お綺麗でございます。ですが、それ以上に驚きました。わたくしめは魔王様を長寿族だと思っていましたが、まさか人間で、しかも女性だったとは……」
「色々と事情があってね。あたしの種族も性別も、名前すらも明かすわけにはいかないの」
「では、どうしてわたくしめにそのお姿を?」
「話……いえ、あなたには共犯者になってほしくてね。これはあたしなりの覚悟の証。この姿を晒した以上、あなたにも相応の事をしてもらう」
「それは恐ろしい。わたくしめに何をさせたいのかはわかりませんが、これはいわゆる悪魔との契約。いえ、その王たる魔王さまとの契約。背信にも程がありますな」
「信心深いあなたには死ねと言っているようなものだものね。それは、悪いと思っているわ。で? どうする? 話を聞いてくれる? それとも、あなたに接触してきた人間から言付けられた依頼を優先する? あたしはどっちでもいいわよ?」
母が問うと、エビオンは穏やかな表情を浮かべて両膝を地面につき、頭を垂れて「魔王様の御心に従います」と言いました。
「そう、じゃあ言うわ。あなたは接触してきた人間に言われた通り、決戦の際に一派を率いて魔幽軍を壊滅させなさい。その後は、あなたの好きにすればいい」
「はい。かしこまりました」
「あら、意外ね。一つ二つは質問されると思っていたのに、二つ返事とは思わなかったわ」
「魔王様は、異端扱いされていたわたくしどもを受け入れてくださいました。殉じる覚悟で異端に甘んじていたわたくし共に、希望を与えてくださいました。その魔王様がひた隠しにしている秘密の一端を晒しながらの命令なのですから、即答するのはあたりまえでございます。もちろん理由もお聞きしませんし、今見聞きしたことも生涯、絶対に口外せぬとお約束もいたします」
「そう。助かるわ。じゃあ、この話はこれで終わり。あなたはさっき命じた通り、決戦の日に魔幽軍を壊滅させなさい」
先ほどの会話で、質素倹約を旨としていたエビオン一派が欲に負けて魔王軍を裏切った話が半分嘘だったことはわかりましたが、母が何を考えているのかはわかりません。
魔幽軍に所属していたのが魔族と言うよりは魔物に近い、幽霊や怨霊の類ばかりだったからでしょうか。
だから壊滅させることに抵抗がなく、何かの目的のために腹心であるウィロウにすら明かさずに事を進めたのでしょうか。
「契約術式は、刻まないのでございますか?」
「必要ない。だって、裏切られる痛みと怒りを誰よりも知っているあなたは、あたしを裏切らないでしょう?」
「はい。けっして裏切りません。ですがそれは、わたくしめが裏切りによる苦しみを知っているからではございません」
「じゃあ、どうして?」
「わたくしめは、あなた様こそ主の現身であると信じているのです。弱者を救い、罪を背負い、誰よりも平和を願って悪を演じるあなた様こそ、主がこの世界に遣わした子の位格でございます」
エビオンはそこで一息つき、次いで潤んだ瞳で母を見上げて、静かに「このエビオン。主、そのものである魔王様のお言葉を真摯に受け止め、契約を果たすとここにお約束します」と、返しました。