ウォシュレットが止まらない!
半分実体験です
なんてことだ。ウォシュレットが止まらなくなってしまった。私はただ尻を洗い流したかっただけなのに。
「止」と書かれたボタンを押しても一向に止まる気配を見せない。かろうじてわずかに水勢を変えることができるのが唯一の救いだろうか。
しかし、このような時どうすればいいのだろうか。無視して立ち上がりでもすれば、とめどなく噴出されている水は便器を飛び出して便所はたちまち水浸しである(しかもフタのないトイレのため閉めて逃げられない)。かといって私の尻を永遠に冷水にさらすわけにもいかない。
外に助けを呼ぶことも考えたが、このトイレはかなりへんぴな場所にあり、電話してもすぐに助けが来るとは思えないし、私はここの管理者の連絡先を知らない。個室に入る前、人の気配は一切無かったため、中から音を出しても気づいてくれる人は居ないだろう。居たとしてどう助けるのか。
ひときわ目立つあのヒモはどうだろう。先に赤いボールが付いており、壁の「緊急」と書かれたボタンから垂れ下がっている。私はワラ(ヒモだが)にもすがる思いでこれを引っ張ろうとしたが寸前で思い止まった。確か、これは体調が悪いときに使うものである。昔、流すボタンと間違えて使って騒ぎになったトラウマが蘇ってきたのだ。一応今回も「緊急」ではあるが、これは最後の手段にしよう。
こうしている間にも私の尻は水圧によるダメージが蓄積している。水の冷たさが孤独感を増幅していく。ただでさえ人がいない場所に設置され、窓もなく独房のような個室なのに、これ以上孤独感を出されたらたまったものではない。
私はいまだ「止」を定期的に押し続けているが、ウォシュレットはまだ止まらない。強弱や長さを変えながら様々な押し方をしてみるがどれも反応しない。それどころか、水圧が増しているようにさえ感じる。私は最近の大便が硬いため、肛門付近に傷ができてしまったのだ。ウォシュレットを使ったのはその傷口を洗うためでもあったのだが、今回はただ傷口がしみて痛いだけであり、水圧が上がるとなおさらである。このウォシュレットは私の困っている姿を見て楽しんでいるのではないかと思えてきた。
今度は「止」ボタンの横に並んだボタンも何度も押してみる。もしかしたら隠しコマンドのようなものがあるかもしれない(そんなものがあったとして何通り試さなくてはならないのだろう)。同時に押したり、順番を変えてみたりとやってみたが、結果虚しく「止」以外は皆正常に作動するということが分かっただけであった。私のため息に呼応するように、「音」ボタンで起動した流水音が悲しげなメロディーを奏で始めた。
なぜ、私がこのような目に遭わなくてはならないのだろう。普段の行いが悪いわけではないし、真面目に人生を送ってきたつもりだ。ただただ運が悪いと言えばそうかもしれないが、尻に冷や水をかけられながら便所に軟禁されるなど誰が想像するだろう?思えば昔からそうだった。私は何かと運が悪い。行事の時に限って鳥のフンが直撃したり、信号待ち中に犬にマーキングされたり、お客様との会話中に突然腹を下したり…。もうこれはそういう星の下に生まれた者の運命として受け入れるしかないのだろうか…。
その時グッと水勢が強くなり、少し水が肛門から内側に侵入してきた。直腸が冷えるのを感じ、ネガティブに引っ張られた思考がウォシュレットに引き戻される。相変わらずコイツは私の尻を濡らしているだけだが、一瞬だけ味方になってくれたように思えた。
いや、何を言っているのか。このネガティブな気持ちも元はと言えばウォシュレットが止まらないことが原因である。味方ならさっさと止まれ。
一人でそんなツッコミを入れながら頭を抱えていた、その瞬間、
オノマトペで表せないような超爆音が鼓膜を破壊した。トイレは建物ごと大きく揺れ、天井からパラパラと破片が落ちてくる。
数分経って、全く聞こえなくなっていた周囲の音の感覚がようやく帰ってくるのを感じる。しかし、静か過ぎて本当に感覚が帰ってきているかは確かめようがない。超爆音が起きてからは身体中の筋肉が緊張し、目を見開いて歯を食いしばったままであった。
一体何が起こったというのだろうか。震えが止まらないまま外の様子を見ようと立ち上がる。…?…立ち上がる…ということは、ウォシュレットが止まっているではないか!理由はどうであれ、これ以上尻の冷たい思いをしなくて済む。非常に喜ばしい。
私はずぶ濡れの尻から水滴を垂らしながら立ち上がり、ペーパーで水滴を取り下着をぐっと持ち上げる。湿っているせいで少し冷たいが、布の確かな温もりを下半身いっぱいに受け取る。肛門の傷も、これで外気から守られて安心であろう。
身近な幸せを享受したところで、問題の外である。トイレは壁や天井が破片を落とし、「止」以外のボタンも機能しなくなっている。「緊急」ヒモにいたっては、付け根のボタンごと外れて床に落ちている。個室のドアは歪んで開けるのにも一苦労だ。ようやくの思いでドアを押し開けると、そこには他の便器や廊下は無く、瓦礫が積み上がっていた。周囲を見渡しても、人はおろか道路や建物の姿も無く、木々も燃えることすら許されなかったかのように消え去っていた。爆風の当たり方から奇跡的に耐えたのだろうか、外から見ると、何もない土地にトイレの個室だけがポツンとある、なんとも珍妙な光景である。ミサイルが飛んできたら窓のない個室に逃げ込めと言うが、ここまで効果的とは思わなかった。
しかし、ミサイルによってこうなったかは分からない。急いで携帯から情報を得ようとするも、圏外となっている。トイレに入る前は弱くとも繋がっていたハズなのだが…。
ともかく、この惨状を見るに命があっただけで奇跡と言えよう。もしウォシュレットが止まってスッキリして外に出ていたと思うと背筋が凍る。ウォシュレットはやはり私を守ろうとして止まらなかったのではと勘繰ってしまう。よく聞く、地震を予知した犬が飼い主を守ろうとする話のようなやつのウォシュレット版である。
ウォシュレットに感謝しつつ、とりあえず電波の通じる場所へ移動することにした。電波が通じなくとも、ほかの場所の様子が確認できるところまでは行きたい。
それにしても、何がどうなったらこんな事になるのか。近所の発電所が爆発したのか?やはりミサイル?はたまた隕石だろうか?今は考えても仕方ないと思いつつも想像してしまう。そうなった時、家族は、友人は大丈夫だろうか?自然と歩む両足に力が入る。「誰かいませんか?」と叫ぶ声が必死になる。
半日程度歩いたが、それでも景色が全く変わらない。携帯も圏外のままだ。冷や汗が止まらない。思い返してみると、トイレ付近からは歩いてきた方向に山が見えたはずだが、それらしい輪郭もここに来るまでに全く見えていなかったことを思い出した。考えを巡らせすぎてそこまで頭が回っていなかったが、まさか山まで吹き飛ばす威力の現象だったのか?
さすがにそこまでのふざけた威力はしていないはずだ。なぜならトイレの個室が耐えたのだから。私は諦めず、さっきとは反対方向へ進むことにした。さっきの方向は爆心地に向かっているから全然たどりつかなかっただけで、反対なら被害のないところに出るかもしれないという推測である。
野宿ののち、また半日かけ足跡を辿って元いたトイレまで戻ってきた。やはり、どこを向いても山は見えない。雲やら霧やらで見えないだけと思いたかったが、あいにくにも不気味なくらいの晴天である。ここまできたら爆風の当たり方とかではなく、トイレの個室が山よりも強い耐久性を持っていたと考える方が自然な気がしてきた。いや、そもそも爆発によってこうなったかも定かではない。何も分からないのだ。
考えてもみれば、どうして救助が来ないのだろう。これだけ大きな被害なのだから、ヘリくらいすぐに出動してもいいはずである。やはり、そこも既に消滅してしまったのだろうか?それとも入れ違いになっただけ?いや、それなら瓦礫の撤去くらい行うだろう。そのような考えが巡るたび、足から力が抜けて、ついには座り込んでしまった。
やはり、私には運が無いのだろうか。最初はウォシュレットのおかげで助かったなどと思っていたが、それは大きな間違いだった。助かったのではなく、独り生き残ってしまったと考えるべきだ。トイレの個室に閉じ込められたときにも感じたが、孤独というのはとても辛い。死より残酷と言っても過言ではないだろう。私はそれを強要されている。私は死ぬはずだった。ウォシュレットはそれを捻じ曲げ、もっと厳しい、恐ろしい審判を下したのである。
これからどうすればいいのだろう。助けも来なければ、他に人もおらず、食糧も無い。人を探す気力も体力も無い。あとは孤独に朽ちていくのみなのだろうか。
突如、近くで音がした。小さな音。少なくとも救助ではない。私は驚いて周囲を見渡したが、どこにも源は見えない。自分以外に生存者がいないかと瓦礫を手当たり次第にどかして回る。まだそんな力が残っていたのかと自分でも驚いた。まさかと思い、トイレに走る。確かに音は近づいている。やはりそうだった。
開け放された個室の中から弱々しくも自らの存在を示そうとしているかのような音がかすかに反響している。
私が個室を覗くと、最後の希望のごとくウォシュレットがチョロチョロと水を出していた。水は若干茶色く濁っているようにも見える。
見たことのないほど弱い水勢だったが、これが生きろという啓示なのか、束縛なのか、はたまたただの故障なのかは私には分からない。
*追記
ウォシュレットのことをトイレの尻を洗う装置全体を示す概念かと思っていたのですが、TOTO様の商品名だと後から知りました。