自意識ジャンキー
私は今から小説を書こうとしている男だ。名前はどこかに書いてある。たぶん上の方に書いてあるんじゃないかな。
小説というものを真面目に書こうとすると、苦しみしか生まないということを、私は経験でもって知っているのだけど、それでも何故だかまた書きたくなってしまう謎の中毒性があり、今日もこうして小説を書き始めたというわけだ。
本当は私だって小説などを書かなくたって生きていけるはずなんだよ。それでも書く。書かねば、という義務感すらある。誰に求められているわけでもないのに。こういう自分への腐しをいちいち入れてしまうのは、最初は照れ隠しだったのだが、いまではもう立派な癖だ。あまり褒められたことではないけれど、もう諦めるしかない。だって癖だ。自覚したってなかなか直せないのが癖というものだ。こんな些細なことで気を煩わせたくない。
私も年をとり、なんでもありになってきたということだ。こうして自分の書いているものが、小説であると恥ずかしげもなく言えるようにすらなった。前は言えなかった。自分の書いているものが小説などとは、とてもとても。これもひとつの諦めか。なんだか文章すらじじくさくなってないか。ちょっと一旦休憩しよう。私はどうも疲れているらしい。
よっこいしょっと。さてさて。私にはもう小説っぽい小説は書く気がないようだ。諦めたと言えば諦めたし、逃げたと言えば逃げたし、私の仕事ではないと言えばそうなる。文章なんて言ったもの勝ちだ。私が小説だと言えば、こんなものでも小説になる。ジャンルが違いますだとか言われたって、うるせえ黙ってろで済む話だ。他人が、ああだこうだ言う話ではない。私自身が他人の書いたものに、ああだこうだ言っているのは承知の上だ。私は間違ったことは言っていないし、すべての選択を間違えている最中だ。矛盾しているように聞こえるかもしれない。でもこれらは同時に起こり得る。すべてが同時に起こっているんだ。
私はどれだけ低カロリーで小説が書けるのかを考え、そして自転車操業執筆法を編み出した。プロットがどうとか問題じゃない。こいつはもう書きながら小説になるのかどうかすらわからない、一行先は闇の世界だ。闇の中ではすべての境界線があやふやで、どろどろに溶けて、不定形の半液体。
メタファー。断トツ人気の小説家がよく使う言葉だ。私はなんだかんだで彼に共感めいたものを持っているのかもしれない。あっちにしてみれば知ったこっちゃない話だけど。私だって知ったこっちゃないよ。
いまは台詞すら考えたくないんだ。この文章すべてが台詞と言ってもいいけど。モノローグだけ。それって超ださい小説だな。私はここまで堕ちてしまった。悪い気があまりしないのが不思議なほどだ。そういう気分、ムード。モードでもあるな。コードを覚えないまま、エレキギターを演奏するようなものでもあるかもしれない。ただただ文章というデータをロードしていく。そして、なんでもないようなことが幸せだったと思える日がくるなら、それを黙って受け入れよう。例えそれが人生の第十三章であったとしても。
なるべくなら労働はしたくない。だがホーボーになる根性などは私にはなかった。これだけ物が溢れ、夜でさえ眩しい光に照らされている時代に、どれだけの絶望を経験したら、根無草になれるのだろう。それでも生き続ける彼らへのリスペクトを、みんなもっと持った方がいいと思う。不様だと笑うあなたこそが不様なのだと自覚した方がいいと思う。そんなに世界平和が望みだと言うのであれば。
酒や薬で身を持ち崩し、いずれ野垂れ死ぬ。そんなありきたりな方向に舵をとろうとしていた頃もあった。しかし、それすらも面倒になった。酒や薬に溺れるのだってひとりではできやしない。人付き合いから逃げ出した私は、徒歩並みのスピードのローラーコースターに乗り込み、レールの上を流されながら居眠りをしていた。
気づいたら宙ぶらりんの、こんな場所にいたってわけだ。ここは狭く、酸素も薄く、いい暮らしとは言い難いけど、居心地は悪くない。なによりあなたたちのことがよく見える。よく悪く見える。私はその光景に腹を立てたり文句を言ったりしながら、こんな小説を書いている。いいえ。助けを呼ぶのは結構なんだ。さっきも書いたが、この場所の居心地は悪くない。
欲しいものはあらかた手に入れた。そのほとんどが必要のないものに変わっていった。ネガティヴな意味ではない。必要のないものだと結果的にわかるプロセス、そいつがとても今の生活の役に立っている。私はそう言いたい。
ネガティヴに陥るのは非常に簡単だ。人間、いや生物というものは基本的にネガティヴな性質がほとんどを占めているのだから。ふさぎこもうとすればいくらでもふさぎこめるし、悲しいことなどいちいち探しまわらなくたって、いくらでもお望みのままに手に入れることができる。ネガティヴを玩具にしたいのであれば、どうぞご勝手に。けれどそれは大抵の場合において、つまらない見世物になるだろう。世界はつまらない見世物が溢れかえっている。なにもそこにまた、つまらないものを足すことはないと思うのだが、それでもそうしたいのであれば、どうぞご勝手に。私は遠慮しておくよ。つまらないものはどこまでいってもつまらないからね。
なにもドライヴしないまま、ここまで来てしまった。ここまで来てしまったと言っても、長編小説であればまだまだ序盤の数ページ。主人公がひとりぶつくさなにか意味のわからないことを呟いていたってなにも不思議ではない。どうせ序盤の方なんてすぐに忘れていくんだ。と言うよりも、文章なんて読んだ端から忘れていくんだ。覚えているのは質感だけ。その質感がおれを惹きつけるし、おれを興奮させるんだ。
面白いものだ。一人称をおれに変えただけで、まるで人が変わったみたいにすらすらと書けるし、ちゃんとおれになった。一人称を私にすると、死にかけの爺さんがぼそぼそと喋っているような文章になってしまう。文章が一人称に引っ張られてしまう。おれはちょっとガキくさいかなと思い、私に変えてみたらどうにも速度が出ない。リズムにのれない。グルーヴが生まれてこないんだ。私はおれにはちょっと早すぎる。いつかおれの速さに耐えられない時がくるのかもしれない。そのとき改めて私に戻ろう。私のすっとろくささに、おれは苛々してこの小説をまるごと削除する寸前だった。これすべて一人称への言及。「私」とか表記すれば、読んでいる方もわかりやすいのだろうが、敢えてあなたを混乱させてみよう。小説を書くやつはこういう意地悪をよくやるんだ。ちゃんと集中して読んでいるのか不安で仕方ないのだろうな。読者を試してきやがるんだ。
ぼーっと読んでいると、なにを読まされているのかさっぱりわからなくなってしまう小説。おれはその瞬間の感覚が結構好きなんだ。敢えてわからないまま読み進めるのも悪くない。
小説の楽しみ方なんて人それぞれってことだ。ストーリーをなぞるだけが小説じゃない。キャラクターが喋るだけが小説じゃない。伏線の回収なんて大した仕事でもない。あんなもん、後付けでなんとでもなるし、説明していない事柄をごろんとその辺に転がしておいて、後で説明すればいいんだろう? 作者からすれば簡単なことじゃないか。読者はそんなことを褒めていていいのか。あれは伏線だったんだ! ってそんなに驚くような体験なのか。ふーん。で終わることなのでは。その辺りの感覚がいまいちよくわからない。自分にとって極端に不利な、誰が見たってフェアではない条件の勝負に負けたやつが、対戦相手を褒め称えているのを見るのは、どうにも納得がいかないけれど、小説の楽しみ方なんて人それぞれと言ったのはおれだ。
小説に出てくる登場人物はよく肩をすくめる。確かに肩をすくめるやつを見たことはある。でも普通の会話で、相手の見ている前で、堂々と肩をすくめるのは如何なものか。アメリカならいざ知らず。連中は肩をすくめて両手を広げて、むかつく顔までする。それも彼らが普段やっていることなのかは知らないが。大抵が映画やホームドラマで見かける所作だから。街で見かける欧米出身と思われる外国人同士は結構淡々と会話をしている。しばらく見ていても、肩をすくめてむかつく顔をしていることはない。どっちかひとつは結構ある。しかしながら欧米の外国人観光客の、信じられないほどの薄着は一体なんなのだろうか。春とは言え、まだ肌寒い季節に半袖短パンで歩いていたりする。寒くないのだろうか。
ここ日本において、肩をすくめるのは、大抵むかつくやつの言動に納得がいかない時、むかつくやつの目を盗んで行うことだと思うが、これはおれの思い込みだろうか。どっちかと言うと、立場が対等な相手に行う行為と言うよりも、目上の相手にすることが多い気もする。と言うか全部おれの話だ。おれが肩をすくめるシチュエーションがそうだと言うだけだ。おれ個人の話を、日本人すべてに当て嵌めようとするのは流石に無理がある。他人との交流があまりないおれだから、なおさらだ。
小説からなるべくおれを排除したい。けれどそれは無理な話だ。なにしろおれはこの部屋からなかなか出ていかないのだし、物語も登場人物も拒否するのなら、おれを出すしかないだろう。言葉としての「おれ」を使用しないという試みは何度かやってみたが、「おれ」を使おうが使うまいが、結局はなにも変わらないという結論に至った。全ては気分だ。おれを使いたくなれば使うし、使いたくなければ使わない。おれがおれである場合もあるし、おれがおれでない場合もある。そんなことはおれにも読者にも関係のないことだ。なるべくなら排除しておきたいが、自意識中毒者であるおれは、美意識の奴隷でもある。はやく自由になりたいものだ。奴隷生活は辛い。私小説は大嫌いだ。
耳鳴りがする。最近多い。一度など、えげつない耳鳴りがして、あまりにも派手なので、てっきりおれの身体の外の物理現象により発生した音だと思い、確かめようと耳鳴りの方向に歩いていったこともある。耳鳴りに導かれ、その時点では耳鳴りとは気づいていないのだが、そのまま玄関から部屋を出て、あまりにも代わり映えのしない退屈な風景を目の前にして、やっぱり外になんて出てこなければよかったと激しく後悔した。
こんな風景の中で、日々を送るくらいなら、部屋に閉じこもって小説を書いていた方がましというものだ。それがおれの仕事だ。そう強く思った。仕事というものはなにも金銭が発生するものだけを指すわけではない。仕える事。おれは小説に仕えたい。
小説は参入条件が低い活動だ。音楽なら楽器やら機材やら練習場所やらでとにかく金が掛かるし、人に提出するのだってある程度のレベルに達していなければ、趣味でやるにしたって話にならない。その他いろいろ。同じことだ。金と人に提出するある程度のレベル。どちらか、あるいは両方が必須条件になっていて、おまけに一人では到底できないような活動もある。
その点、小説はご存じの通りなので、何者かになりたいが取り柄のない連中が集まってくることになるのは当然の論理的帰結である。もちろんおれだってそのひとりだ。何者かになりたいかどうかは微妙なところだが、取り柄なんてものはない。だからなんだと言うわけではないけれど、これを小説だと主張することを許して欲しい。それだけだ。いつでもオチみたいなものがあると期待しないで欲しい。大抵のことにオチなどはないのだから。小説は終わっても、小説は続いてゆく。どこまでも、どこまでもだ。その途中であなたに出会うことがあれば、握手でも交わそうじゃないか。そしてまた、それぞれの。