庭園の女神〜フィラネスの物語〜凡人と行く至って普通の中世風旅日記<番外編1>
「 凡人と行く至って普通の中世風旅日記」の番外編です。
高級娼婦フィラネスとラドゥールとの馴れ初め編です。
ベタな恋愛小説になりました。
鳥の囀り…
フィラネスの意識がゆっくりと目覚める。閉じた瞼に明るさは感じるが、眩しさはない。初夏、鳥達は太陽よりも早起きだ。
ー夜明け前か。
まだ起きるには早過ぎる。もう一眠りしようと、上掛けを引き寄せた。
夕べは『自主休業』を決め込んで、手足を伸ばしてぐっすりと眠った。そのせいだろうか、微睡みは訪れない。薄目でうかがうと、天鵞絨の分厚いカーテンの隙間から淡く白い光が見えた。
(昔はいつも、このくらいの時間には起き出してたわね。)
寝返りを打ちながら、昔のことに思いが流れ、はたと気付いた。
ーあ、来てるんだった
上掛けを蹴り飛ばす勢いで跳ね起きた。
裸足のまま窓辺に駆け寄りカーテンを引く。
ーうん、大丈夫
東の空の端が随分明るくなって来ている。今日は上天気になりそうだ。 久々の自由な朝に、フィラネスは大きく伸びをして朝の空気をいっぱいに吸い込んだ。
そのまま隣室に足を向ける。
いつもなら、<ペンタス>のエルリーが身支度を手伝うべく待機しているだが、夕べは『自主休業』を宣言したので、彼女も自室で休んでいる。
本来、仕事の時以外は付き人など必要ない。着替えも複雑な物でなければ自分でやった方が早い。だが、最上位の<華>であるフィラネスは立場上、序列に相応しい格式を示さねばならない。面倒で鬱陶しいが<華>に憧れ、目標にしている<ペンタス>や<睡蓮>達の手前、我慢している。
隣室には美しく装飾されたチェストが幾つも並んでいた。衣装用、靴用、宝飾品用など、大小様々ある中、隅の目立たない場所に置かれた古びた木箱に手をかける。
それは、フィラネスにとっての宝箱だ。中には『本来の自分』が詰まっている。蓋を開け、中身を取り出した。
ーびっくりするかしら。
考えただけでワクワクする。悪戯を仕掛けるのは久しぶりだ。
フィラネスはすばやく身支度を整えると、最後に大きなリネンキャップを手に部屋を抜け出した。
「頭に来た!」
帰って来るなり開口一番怒鳴ると、少女は椅子にドカリと腰掛けた。腕組みをして口を尖らせている。
いかにも『私は怒っています』ポーズ。
また誰かとケンカをしてきたらしい。
毎度のことなので母親は作業を続けたまま声をかけた。
「今度は誰?」
パチパチと薔薇の棘を切る。身に付けたいとのご所望で、選りすぐった花だ。あと5本はある。早く作業を終えなければ、せっかくの花が萎れてしまう。
「バカボン!」
ため息を付く。また、あの悪童か。だが、仮にもご主人様のご子息に対して、そんな口をきくことは許されない。
「エトル様とおっしゃい。」
「だってママ、アタシのキャップを取るのよ。」
ご主人様の三男坊エトルは13歳。最近、やたらと娘にちょっかいを出す。そろそろ気を付けねばならない年頃だ。
「困ったわね。」
リネンキャップは女性が髪を見せないための「身だしなみ」の一つだ。娘の豊か過ぎる金髪を収めるためと、顔を隠すために大きめのキャップを被せていたのがアダになったか。
「でも大丈夫よ、ママ。多分、もうしないわ。」
得意気な一言に不安が過る。今度は一体何をした?母親は努めて平らな声で聞いた。
「まあ、何故?」
「そう来るだろうと思って、キャップの中にガマガエルをね、入れて置いたの。」
思わず娘を振り返る。娘は満面の笑みだ。
「キャップを取った途端にね、カエルがエトル様の胸に飛びついたもんだから、もう大変よ。」
開いた口が塞がらない。可愛らしい少女の中身は、実はエトル以上の悪童だ。
「あいつ、カエルが大っ嫌いなの。金切り声を上げてカエルみたいに飛び跳ねるんだもん。笑っちゃった。」
よくもまあ…懲りないものだ。エトルはよく娘に子供染みた悪戯を仕掛けるが、成功した試しがない。それでも仕掛けて、返り打ちに合う。相手がその辺の悪童なら、よくやったと褒めたいところだが、かりにも主家のご子息である。ここは叱らねばならない。吹き出しそうになるのを堪えながら、厳しい声を出す。
「笑い事ではないわ。お坊っちゃまに向かって、何て事を!」
しかし、見上げる娘のケロリとした顔を見て、結局吹き出してしまった。
でもまあ、やってしまったことは仕方がない。切り揃えた花を眺める。納めに行った時、謝れば済むことだ。まあ、女中頭のシキル夫人には嫌味を言われるだろう。今日は長くなりそうだ。
「ママ。その花、私がシキル夫人に持って行くわ。ついでに謝って来るから。」
花に目をやっただけで、娘は察したらしい。この子は聡い。苦笑しながら、娘のキャップを取った。
金髪の巻き毛が溢れ出す。今朝、ちゃんと結ったはずのお下げ髪はぐしゃぐしゃに乱れていた。カールしたほつれ髪が泥で汚れた顔を縁取る。
「頭は汚れてないわ、キャップもよ。カエルはちゃんと池で洗ってから頭に乗せたもの。泥は塗ったよ…いつものように…」
言い訳を続ける娘の傍らに座った。エプロンで丁寧に顔の泥を拭って、仕上げに手櫛で髪を整える。
新緑色の瞳の天使。
窓から差し込んだ日射しが少女の髪を煌めかせ、威光のように縁取る。
まだ10歳でこの美貌。親の欲目にしても、思わずため息がもれた。
(この美しさは、危うい。)
ー美しさ。それは人々を魅了する一方、災いも引き寄せる諸刃の剣だ。
少女はこれまでに二度、危ない目に合っていた。一度目は人攫い。二度目は見知らぬ男に廃屋に連れ込まれかけた。どちらも大事には至らなかったが、母親は生きた心地がしなかった。
娘を守るため、一時期家から出さなかったのだが、これには本人が猛反発。元来、川や森での外遊びが大好きな元気過ぎる娘だ。猛獣のごとく家の中で暴れ回り、ついには屋根裏部屋に二日間立て篭った。
手を焼いた母親が条件を出し、それを飲むことで外出を勝ち取ったのである。
条件は5つ。縁取りのある大きなキャップを冠る。顔を汚し見られないようにする。一人で川や森には行かない。回りの人に注意する。時の鐘・5つ(午後3時)には家に居ること。時の鐘についてはかなりゴネられたが、今のところ概ね守られている。
だが、母親の心配は尽きない。この先、どれほど回りの男達に気をつけねばならないのか。特に主家の男達の目に止まらないことが重要である。使用人という立場上、恥ずかしめを受けても泣き寝入りだ。もし、そうなったら良くて妾、悪くすれば捨てられる。母親が不安に思うのも道理だった。
娘の白い肌に、今度は茶色の液体を塗る。花の汁を絞ったもので、肌に良い上にまだらに塗ればソバカスのように見える。
「花はママが持って行くわ。ネラ、謝りに行きたいなら付いて来てもいいわよ、ついでじゃなくね。」
キャップを被せ直しながら、娘と目を合わせる。天使ははにかんだように笑って頷いた。
二人でお屋敷までの小道を歩く。
庭師の父親は、庭園のはずれに家を与えられていた。家とは名ばかりの物置小屋だったが、家族3人が住むには十分な広さだ。
「不機嫌ね。」
屋敷に近づくにつれて、口数が減った娘を振り返る。キャップの下からは仏頂面が覗いていた。
「『変わり者』、嫌い。」
ぽつりと零した意外な名前に母親は戸惑う。
「ラドゥール様?一緒にいたの?」
次男のラドゥールは16歳。おっとりとして優しく物静かで、使用人達の間でも人気が高い。貴族らしい遊びには興味を示さず、親からは『変わり者』と呼ばれていた。花が好きで、小さい頃から夫の後を付いて回っては一緒に土いじりをしていた。農夫のようなことをするなと当初は叱られていたらしいが、次男ということもあり最近は放置されている。
「通りかかったの。」
憮然として、ますます口を尖らせた。母親は微笑む。エトルとの間に入ってくれたのだろう。この様子だと、お転婆娘を諌めてくれたらしい。有難いことだ。
「何かおっしゃった?」
「『相手が嫌がることをしちゃいけない』って。」
よくぞ言ってくれた。うん、あの方は間違いない。
「それはラドゥール様が正しいわね。」
「どうしてよ!」
ついに娘は癇癪を起こした。
「先にちょっかい出したのはエトル様よ!飛びついたのだって、カエルの勝手だわ。何であたしが叱られるの?」
ネラは地団駄を踏む。この気性の激しさは誰に似たのだろう。
「でも、カエルを仕込んだのは誰かしら?あなたでしょう、ネラ。」
「だって、ジンマシンが出るほど嫌いだなんて、知らなかったもの。」
しれっと白状した娘に、動揺のあまり花を乗せたトレイを取り落としそうになった。
母の動揺を見て、しまった!とばかりに駆け出す。
「ネラ!」
母親のいつになく厳しい声に足を止めた。母が本当に怒った時は、この場を逃げ出しても後が怖い。夕飯を食べられないのは嫌だ。今夜のスープは久々の鳥団子入りなのに!
手が差し出される。観念したネラは渋々その手を握り、引き摺られるように館の裏口に向かった。
空が大分明るくなって来た。早朝の澄んだ空気を吸い込みながら、フィラネスは庭に足を踏み入れる。
まだうっすらと朝靄が立ちこめる庭はいつもより瑞々しい。
街中にあるとは思えないゆったりとした作り。小道の先の東屋。薔薇のアーチ。柳の木の下にはベンチが置かれ、そこから見える植え込みの中には小鳥用の水飲み場がある。
ベンチに座ると、小鳥達が水を飲んだり行水をする様子が見られるように配置されているのだ。
色とりどりの花が咲き乱れ、華やかだが寛げる庭。
(あの屋敷の庭に似て来たわね。)
同じ庭師が作っているのだから当たり前なのだが、あの頃より遊び心がある。
頑固ジジイ本人も知らない茶目っ気が、この庭からは感じられた。
朝露に濡れた小道をゆっくりと歩く。ふと、シャクナゲの枝に蔓草が絡み付いているのが目についた。ヤブカラシだ。厄介な雑草で、根が残っているかぎり何度取っても生えて来る。
フィラネスは茎を辿り、根元から草を引き抜いた。
ふとその先に、更なる『宿敵』を認めて眉間に皺が寄る。モコモコと線上に盛り上がる土。モグラだ。久々に血がたぎる。やおら立ち上がり、踵に力を込めてモグラ穴を踏み潰した。
「痛いっ!」
小さな悲鳴に足が止まった。また踏んでしまったことに、狼狽える。
「す、すまない。」
「は〜い、は〜い!もう結構!結構です!」
パンパンと手を叩きながら声が飛ぶ。大きなため息とともに、ダンスの教師は顰めた顔を左右に振る。
「…ラドゥール様。いい加減覚えていただかなければ、モリー嬢の足が踏みつぶされてしまいます。」
18歳を迎え、成人として社交界デビューが決まったラドゥールは、連日ダンスの特訓を課せられていた。
ため息を付きたいのはこっちの方だと思いながら、額の汗を拭う。長身でガッチリした体格の見栄えとは裏腹に、彼は運動が苦手だった。どうにもリズムが取れない。そのため相手役の侍女の足を何度も踏んでしまい、さらに緊張して身体が動かなくなる。悪循環だ。
ダンスの教師は、侍女のモリーの手を取り、いいですか、もう一度手本をお見せしますよと言いながらステップを踏み出した。カウントを摂りながら一定のテンポで床を軽やかに踏みながら、男女交互に踊り回る。ラドゥールには飛び跳ねているようにしか見えないが、この踊りの肝は足さばきであることはわかった。ふわりとスカートが揺れる。息の上がってきた二人の視線が絡み合い熱を帯び始め、モリーの首筋が赤味が差してきた。教師も高ぶって来たようで、「あ…」と声を上げてモリーがヨロめいたのを幸いに、ステップを踏むのを止めた。
「これはいけない。モリー、大丈夫ですか。」
ああまたか、と内心呆れながらもホッとする。
「気分が優れないようです。治療を施して参りますので、その間、『おさらい』をなさっていて下さいね。」
二人は手を握り合ったまま、そそくさと部屋を出て行った。
部屋に一人残されたラドゥールは大きく伸びをした。身体がガチガチだ。首を回す。
「相変わらず鈍臭いわね。」
窓の外から声がした。思わず笑みがこぼれる。やはり、いたか。
「やあ、『大きな帽子』。相変われず覗き見とは悪趣味だな。」
振り返ると窓枠に小さな手がかかり、次に大きなキャップが覗いていた。
「御機嫌よう、『変わり者』様。あの二人に比べればハシタナクないわ。どういう治療なんだか。あの様子だと当分帰ってこないわね。さ、手を貸して。」
「レディが窓から入るのは感心しないな。」
「あら、あたしは庭師の娘で貴婦人じゃないもの。」
相変わらずの屁理屈に笑いながら、それでも手を貸して室内に入れる。
12歳になっても、相変わらずのお転婆ぶりだ。大きなキャップも変わらない。子どもの頃のように、顔を泥だらけにはしなくなったが、昨年患った病いのせいで酷いあばた顔になったと聞いた。そのせいか、以前よりも深くキャップを冠っている。
「さてと。」
パンパンと服を整える。ネラはラドゥールの前に立って、すっと背筋を伸ばした。
それだけで纏った空気が変わる。
さっきまでの12歳の悪ガキではない。凛とした気品のようなものまで漂うのだから不思議だ。キャップのフリルの間からのぞく真摯な若草色の瞳も一役かっている。
(面白い娘だ)
ラドゥールもポジションを取る。
「<ガイヤルド>はテンポが速いけど、リズムはそう難しくないわ。タンタンタンタタンよ。いつも通り、リズムを掴むこと。それから始めましょう。」
一端の教師のような口調で、二人の『おさらい』が始まった。
こんな風変わりな関係が始まったのはひと月前だ。舞踏会では最低でも3種類のダンス<ガイヤルド><パヴァーヌ><アルマンド>を習得していなければならない。
<パヴァーヌ>は上半身の動きがなく、相手と手を繋いで音楽に合わせて前後左右にゆったりと動く厳粛なダンスなので、問題はなかった。
ところが<アルマンド>になったら、もういけない。手足の動きがバラバラで、ステップに気を取られれば手が動かなくなり、女性をリードしようとすると足のステップが止まる。
教師は失望し、ギャアギャア騒ぎ立てるが一向に身体は動かない。そんなとき、練習相手の侍女モリーが足を痛めてしまった。教師はラドゥールを罵り、彼女を抱えて部屋を出て行った。
嫌なことをさせられるのは苦行に近い。だが、そのために侍女にケガをさせてしまった。何とかしたいが、どうにも身体が動いてくれない。さすがに落ち込んで、ラドゥールは椅子に座り込んだ。
その時だった。
「ホント、鈍臭いわね。」
顔を上げたが、誰もいない。だが、聞き覚えのある声だ。
「あの教師、教え方が下手だわ。人の素養ってモンを見極めないで、鈍臭い人にいくら怒鳴ったって出来る分けないじゃないの。」
言いたい放題である。可愛らしい少女の声で言われているせいか、不思議と腹は立たなかった。窓辺に寄ると、果たして当人が立ち木の枝から窓枠に手を掛けるところだった。
「ネラ!危ないじゃないか。」
「そう、思ったら手を貸して。」
「ちょ、ちょっと待て!窓から入る気か?!そんな、はしたないこと…」
最後まで言えずに顔が赤くなる。女性は下穿きを掃いていない。
「だーかーら、早く手を貸しなさいよ!」
どっちが主従かわからない。不承不承手を貸すと、さっさと室内に入り込み服のホコリを払った。
「ちゃ〜んと掃いてるもんね!この、スケベ!」
得意気にスカートを捲る。咄嗟に目を背けたが、確かにペチコートの下にズボンのようなものを掃いていた。娘の木登りを止められないと悟った母親が掃かせたたに違いない。彼女の苦労が偲ばれる。
「あの教え方だと、リズムが取れないのよね。いい?時間がないからさっさと教えるわよ。まずは身体にリズムを入れて。ターンターンタンタンタンよ。ステップなんて後!足踏みするだけでいいわ。そこからよ。」
「ちょっと待て。何故リズムを知っている?何のステップかわかっているのか?」
舌打ちされた。イラついたように足を踏み鳴らす。
「<アルマンド>でしょ?この踊りいつから習ってるか覚えてます?ラドゥール様。」
はて?一瞬考え込む。
「二・週・間!二週間よ!下で草取りしながら聞かされました!」
どうだ!と言わんばかりに腕組みをする。思わず顔が赤くなった。
「…面目ない。」
「いい加減、覚えちゃったわ。」
教師は手拍子をしながら教えていた。毎日繰り返されるリズムを覚え、一体どんな踊りか興味を持ったという。それからは、木に登ってレッスンを覗いていたらしい。
「騙されたと思って、やってみてよ。出来れば幸い、出来なかったら教師を替えるのね。」
まあ、損はないわけで…娘に言われるまま、身体を動かし始めた。リズムに合わせて足踏みをする。最初は覚束ない足取りだったが、段々慣れて来ると自然とステップが踏めるようになって来た。頃合いをみてネラがそっと手を差し出す。とても自然に手を取り合って、ついには一通り踊り切ったのだった。
「出来たじゃない。」
キャップのひだからのぞく緑の目が笑っている。その目を見た途端、一瞬胸が跳ねた。慌てて目をそらす。
(何だ、今のは)
初めての感覚に戸惑うも、即座に息が上がっているからだと納得する。
「私だって、やれば出来るさ。」
照れ隠しに、ちょっと胸を張る。
「ま、せいぜい頑張って。」
言うが早いか、ネラは飛ぶように窓に向かい、ひらりと外に消える。
慌てて窓に取り付くラドゥールが見たのは、揺れる木の梢と幹を回りながら降りて行くスカートだった。
ホッと胸を撫で下ろすのもつかの間、ノックの音と共に教師達がドアを開けた。
「大分、マシになったわね。」
満足そうに腰に手を当て頷く娘に、息も絶え絶えな青年はへたり込んだ椅子から叫ぶ。
「もう、たくさんだ。舞踏会が終ったら、もう絶対に踊らないぞ!」
「お疲れ様でございました。社交界デビューの成功を祈っております。」
常とは違い、慎ましく応ずる娘を振り返る。何か企みがあるのかと訝しむ。
「一つ、お伺いしても宜しいですか。」
ほら、来た。ちょっと身構える。
「あ、ああ。」
「そんなに嫌なのに、何故頑張るの?逃げればいいじゃない。」
言われて気付いた。最初は逃げる気、満々だったことを。途中からすっかり忘れていた。はて?何故だろう。少し息を整える間の沈黙。窓から涼やかな風が部屋を通り抜けていく。
「まあ、乗り気じゃなくても、一度は社交界というものを経験すべきだと思ったんだ。ただの馬鹿騒ぎかもしれないけど、違うかもしれない。新しい出会いがあるかしれないだろう。ああいう場所には知識人も来る。そういう人達と会ってみたいんだ。」
ふーん、とつまらなそうな答えが返って来た。ちょっと難しかったか。
「親としては私を売り出して、少しでも裕福な婿養子先を見つける魂胆のようだからね。」
「婿養子?」と繰り返して、今度は首を傾げる。
「ああ、そうだ。私やエトルは爵位を継げないからね。いつかはここを出なければ行けない。私としても、フィアンセは金持ちが望ましい。学資を出してもらいたいからね。」
「学資…」
「ああ、大学へ行きたいんだ。」
ネラは目を見張る。
「大学って、聞いたことあるわ。何するところ?」
「勉強するところ。色々なことを学べるんだよ。ネラに字を教えただろう。あれはドーラル語。その他にモール語のような古典や、外国語のロダル語・ドムナ公用語も学べる。」
『勉強』と聞いて、目を輝かせる。獲物を見つけた猫みたいだ。
ネラは小さな頃から好奇心が強く、何でも知りたがる子どもだった。父親のデューレは読み書きが出来る。収穫した種の袋に花の名前を書いた札を下げていた。読み方をラドゥールによく聞いて来た。女に学問は必要ないと、父親は教えてくれないからだ。そこでこっそり基本文字を教えてみると、瞬く間に覚えてしまった。
そんなことを懐かしく思い出しながら、ラドゥールは大学について話して聞かせた。というより、自分が語りたかっただけかもしれない。大学に行って植物学を学びたいこと。その大学はマンクット領にあること。親はいい顔をしないこと…。貴族が農夫のマネをするなど、恥だと思っているのだ。
ネラは黙って聞いていた。
やがて声が途切れると静かな沈黙が降りた。サヤサヤと葉擦れの音が渡って行く。
「上手くいくといいわね。」
「ああ。」
去り際、窓枠に手をかけたまま振り向いて、
「でも、そのまんまじゃ、ダンスが上手くなっても望み薄よ。」
呆気に取られていると、少し怒った声で言葉を投げる。
「鏡をよーく見るのね。それからオブリーの奥様に相談するといいわ。」
意味をとらえかねて、聞き返す。
「オブリー?」
「の、奥様の方」
苦笑いしながらネラは居ずまいを正す。
「ラドゥール様、社交界での成功を願っております」
そして、とても優雅な最上級の礼をした。
逆光とリネンキャップでその表情は見えない。ただ、二人だけのこの時間の終わりを告げている事は、ラドゥールにもわかった。
「ああ、ありがとう」
何とも言いがたい心持ちで答える。
自分でもよくわからない感情にかられて、何か言おうとするラドゥールを振り切るようにネラは身を翻して窓の外に消えた。
サヤサヤと風が吹き抜けて行く。
しばらく、窓を眺めていた。
(私は何を言おうとしたんだろう)
ただ、引き留めたかった。引き留めてー?
ふうとため息をつく。知らぬ間に息を詰めていたらしい。
思いがけず楽しい時間を過ごし、それが終わっただけだ。引き留めたかったのは、そのひと時への未練。そう、結論ずけてラドゥールは考えるのをやめた。
自室に戻ろうとして、 ふと鏡が眼に入った。そこには、ボサボサの髪のずんぐりした冴えない男が立っている。
(そのままじゃ、望み薄よ)
確かに、こんな冴えない男を選ぶ女性はいないだろう。
いままで、モテたこともモテようと思ったこともないから、気付かなかった。口の悪いネラも、さすがに言えなかったらしい。思わず苦笑いが浮かぶ。
オブリーは貴族の御用商人だ。社交界の流行にも詳しい。明日にでも、呼ぼう。そう思ってハタと気付いた。
しかし、何故奥方?
後日、半信半疑ながらも彼女に会ってわかった。
「ンまぁ〜!ンまぁ〜!ンまぁ〜〜〜!」
来るなり奥方はそう叫んだ。それから雌鳥よろしく首を上下させ、ラドゥールの全身を何度も何度もくまなく見る。
「な、な〜んて野性的な若様!もう少し…いいえ、アタクシが腕に寄りを掛けて磨き上げれば、…多分、多少はおモテになりますわよ〜!」
引きつった顔を見て、思わず背筋が寒くなった。確かに、いままで着飾るどころか、自分の容姿にさえ頓着したことがない。髪に香油を塗ったことすらなかった。
その日から舞踏会まで、彼にとってはダンスより更なる地獄の日々が始まったのである。
後に悪夢にうなされるようになった彼は、疲れた顔でネラにこう語った。
「泥の海で溺れる夢を見るんだ。雌鳥とカエルが私の身体に泥を塗り付けて『お肌にいいわよ〜』『髪にもいいわよ〜』『ついでの脱毛しちゃいましょう〜』て、ナイフを振り回すんだ。」
頭の上は気持ちのいい青空だ。
風に乗って小鳥の声や花の香りが流れて来る。春の陽に誘われて、花々も一斉に咲き始めたのだろう。ハイドラの強い香りも混じっている。そろそろクムの新芽が出る頃だ。ちょっとクセのある新芽をカリッと揚げて塩を一振り…思わずヨダレが口に溢れ出す。あの独特の苦味がたまらない。午後に様子を見に行こう。そのためには、この作業を午前中に済ませなければならない。娘は猛然と草取りに取り組み始めた。
その娘、ネラはもうすぐ16歳になる。相変わらず、大きなキャップを冠り、色気より食い気が先行していた。それでなくても春は忙しい。庭園の仕事も然ることながら、それよりも重要なのは、春の山菜、出始めのキノコの採取だ。市場で売れば、いい小遣い稼ぎになる。休みなく手を動かしながら、大きなキャップの中では目まぐるしく多様な皮算用を展開していた。
強くなってきた日差しに汗が流れる。ネッカチーフを引き出して首筋を拭った。
ふと、その手が止まる。立ち上がり、耳を澄ませた。遠くから楽の音が近づいて来る。太鼓とリコーダーは聞き慣れたリズムを刻んでいた。どうやら旅回りの楽士達が到着したらしい。
ー来た!花祭りが始まる!
春と美の女神セロネラの祭りは、この小さな村でも行われている。州都アスンの規模には遠く遠く及ばないが、浮き立つ気持ちは変わらない。
その日はみんな思い思いに着飾って、花と年頃の娘達を乗せた山車が通りを練り歩き、村の広場で老若男女が踊り明かす。
この村では、ダンスが上手いことが結婚のお相手選びの条件になっていた。農村地帯である。すなわち、ダンスを長時間踊れる健康な身体は男女ともに重用されるのだ。一家の働き手として、重要なポイントだった。
太鼓のリズムに手足がウズウズしてくる。小さい頃から踊るのも歌うのも大好きだ。いつもは悪童達から『大きな帽子』と、恐れられる(?)彼女もダンスの季節だけは一目を置かれていた。
(カーリン、今年は負けないわよ。)
ダンスと言えば、宿敵『大口のカーリン』だ。日頃から自分は将来、国一番の舞姫になる!と豪語する鍛冶屋の娘である。確かに、踊りはピカイチで、伸びやかでキレもいい。生来の明るさが全身から溢れ出すような踊り手だ。村一番と言っても良い。ただし、自分を覗けば。
ネラの魅力はその優雅さ。腕の一振りさえ華があり、リズム感に優れ、難しいステップも軽々とこなす。舞踊と名のつくものなら村祭りだろうが、貴族達の舞踏だろうが踊る事が出来る。ダンスが苦手なラドゥールの相手をしたおかげだ。
しかも、ネラは今年から初めて夜のダンスに出るのだ。晴れて大人の仲間入りである。
子ども山車の女王を廻って競い合って来たカーリンは、去年から大人の花山車に乗っている。しかし、去年は行き遅れの村長の娘が女王になった。カーリンは今年こそは自分だと息巻いていた。
阻む気満々でネラは密かに闘志を燃やす。
踊り出したい気持ちを抑えて、さて作業に戻ろうと下を向くと…別の「宿敵」を見つけた。またどこからか入り込んだらしい。
本当にモグラは厄介だ。庭木や植物の根を食い荒らし、枯らしてしまう。線状に盛り上がった土を力任せに踏み潰す。ゲシゲシと執拗に踏むのに熱中していたせいだろうか。
「ネラ。」
呼ばれるまで気付かなかった。
小道の先に立っているラドゥールは、半年ぶりなのに相変わらずぼんやりした顔で笑っていた。
農民のようにがっしりした身体の上にその顔が乗っているのだから、どうにもアンバランスだ。大きな手に、これまた不似合いな小さな鉢植えを持っている。
「久しいな。元気そうで何よりだ。」
ネラは軽く膝を曲げる会釈をした。親し気に微笑みかける彼を、無遠慮に見つめ返す。ラドゥはここ3年ほど、マンクット領の学校に行っている。どうやら、花祭りのために帰って来たらしい。半年ぶりに見る顔が、何故か急に憎らしくなった。
「父さんなら、納屋におります。」
そっぽを向いて、また草取りに戻る。何か言いかけた気配がしたが、無視した。さっさと父さんのところへ行けばいい。草取りに熱中する振りを続けていると、止まっていた身体が動き出すのが見えた。
そうだ、さっさと行っちまえ。そう思いながらも鼻の奥がツンと痛んだ。何なのだろう、この感情は。わからないことが余計に腹立たしい。
「これを。」
目の前に鉢植えが差し出されていた。親指ほどの薄紅色の花がたくさん付いている。ファーネラだ。
「メイナ、この花好きだったろう?お墓に植えてあげるといい。」
ー覚えていてくれたのか。礼を言って受け取る。
母のメイナはこの冬を越せなかった。可憐な花を見ていると母の顔が浮かんだ。
『貴女の名前はね、ファーネラから取ったのよ。』
ネラを生んだ時、家の回り一面にファーネラが咲いていたのだそうだ。春の女神が我が子を祝福しているように思えてその名から取ったという。病いの床の中で、はじめて語った。
でもね、と母は可笑しそうに続ける。実はこれは偶然ではなく、父の仕業だったらしい。母を喜ばせるために植えたのだった。
『貴女には災難だったかしら。』
『御心配なく、ママの娘よ。』
春の女神は冬の神を追い払って、やってくるのだ。
その話をした時の母は、本当に幸せそうに微笑んでいた。
ファーネラは別名「女神の花」とも呼ばれる。株が地下茎で筋状に広がるため、女神セロネラの通った後に咲くと信じられていいた。
しかし、この頃はあまり見ない。咲かなかったのではなく、気持ちの余裕なくて眼に入らなかったのだ。
今度は白いハンカチが目の前に差し出されていた。何故?彼を見ると、とても痛ましそうな顔をしていた。それでも受け取らずにいると、ラドゥールは不器用な手付きでネラの頬を拭ってくれた。
赤茶けたシミが付く。小さい頃から母が塗ってくれた花水だ。頬が涙に濡れている事に始めて気付いた。動揺して、ハンカチを固辞しながら手の甲で涙を拭う。しかし、涙は拭っても拭っても後から後から流れてくる。
ついにネラはエプロンで顔を被い、その場に座り込んでしまった。それでも涙は止まらない。母が死んだ時も、その後もこんなに泣かなかった。いや、泣けなかったのだ。父が深く打ち拉がれながらも、淡々と日常をこなす様子を見て、しっかりしなければと自分を鼓舞していた。
何故、この『変わり者』の前で泣いてしまうのか。ネラにはわからない。こいつが花を持って来たから?ファーネラを今日まで、まったく見なかったわけではないのに。珍しくもないのに。
でも、やっぱりこいつが悪い。ラドゥールが醸し出す空気が、ネラの張りつめた糸を切ったのだ。
少し気持ちが落ち着いてきたので、エプロンから目だけを出す。隣りに一緒にしゃがみ込むラドゥの顔があった。また涙が滲む。エプロンに顔をもどしながら思った。やっぱりこいつが原因だ。
「やっぱり、『変わり者』、嫌いよ。」
しゃくり上げながら、揺れる声で呟く。小さな子どもに戻ったようで、恥ずかしい。
「すまんな。」
ラドゥールは、ちょっと苦笑して、立ち上がろうとして…果せなかった。ネラの片手が、彼の袖を掴んでいたからだ。泣き止むまで付き合えということらしい。
彼は大人しくまた腰を下ろした。ネラを泣かせてしまった手前、立ち去ることも出来なかったのだろう。大きな身体を丸めて、黙って側にいてくれた。
そんな二人を、遠くから見つめる者がいた。ネラの父、デューレだ。痛いものでも見たように、その場をそっと離れる。
父親としての想いは複雑だ。この二人が結ばれる事はない。ラドゥールは良い男だが、身分が違う。同じ貴族の婿入り先も決まっている。娘も村の誰かと結婚するだろう。それまで淡い恋心で終ってくれればと、願うばかりだ。
ため息をついて、空を見上げる。
地上の人々の想いとは裏腹に、ヒバリが恋の囀りを天高く響かせていた。
その夜、ラドゥールがデューレを訪ねて来た。
彼は今、大学で植物学と農学を学んでいる。そこで得た知識を、実際の庭師である父と語らうためだ。二人は、それを楽しみにしていた。
昼間の事があったので、ネラは彼の顔が見られない。まだ目は腫れていて酷い顔だ。キャップで見えなくても乙女心である。簡単な酒肴を用意して、そそくさと自室の屋根裏部屋に引き上げた。
自室と行ってもドアがあるわけでもないので、二人の話し声はまる聞こえだ。ベッドに横たわりながら、ネラは聞くともなしに耳を傾けた。
ラドゥールの声はとても耳に心地いい。自分と話す時とは違い、言い淀むこともなく、とても滑らかだ。知的で思慮深い。肥料の配合についての話は難しかったものの、それ以外はとても興味深いものだった。
特に二人が熱く語っていたのは、品種改良の話だ。父は花の交配を、ラドゥールは寒さに強い作物の研究の話していた。大学では農業指導の傍ら、品種改良の研究も盛んに行われて、彼もその虜になっているらしかった。
「ある時、教区の神父達に怒鳴り込まれる騒ぎが起きてね。」
「ほう、神父様がですかい?」
「『お前達がしていることは、神への冒涜だ!』と言うんだ。神から与えられし作物を、人の手で改良するとは何事か!とね。」
ラドゥールはちょっと言葉を切った。少しの沈黙。多分、父の顔色を伺っていたのだろう。
「それに対して老師は、いきなり考古学の話を始めた。この大地は、樹木の年輪のように古い時代の上に新しい時代が積み重なって出来ていると話し始めたんだ。現に畑を耕したら、地面の下から古い家の跡が出て来ることがあるからね。
そんな古代の地層から小麦の種も一緒に見つかることがある。それは現在私達が食べている小麦よりも小さかったそうだ。さらに下の古い地層から、もっともっと小さな小麦が出てきた。そこで神父達に向き直りこう言った。
『あなた方が食べている小麦は、もうすでに何千年も品種改良が成されているのです。神より与えられし小麦をより良く活かす私達の探求が、神を冒涜しているとは思えない。神の小麦が食べたいなら、野にある『スペルト』を食べればよろしい。』と。スペルト小麦は唯一原種に近い植物なんだ。」
確かに、スペルト小麦は皮が硬く分厚い。その分、実も小さく収穫量も上がらない。脱穀しても堅い皮が交じってしまうので、パンを焼いてもぼそぼそとした食感になってしまう。父はクツクツと笑っている。
「神はそんな狭量な方ではないと、私は思う。同じ品種の中から病気や虫に強いもの、寒さに強いものを選び出して増やし育てていく。それこそ、神が私達に望まれていることではないかと思う。それによって飢饉や冷害で苦しむ農民を減らせるのだからね。次の時代に絶やさず続けて行く事こそが、むしろ私達に与えられた使命と思うよ。」
熱を帯びたラドゥールの声が昔を思い出させた。4年前のあの頃、自分に話してくれた夢。社交界デビューの結果は知らないが、大学に通っているのだから、婿入り先が見つかったのだろう。彼は着実に前に進んでいる。また少し涙が出た。自分達はもう、子どもの頃のようには笑い合えない。
「私は年輪の一部として、未来の子ども達の糧となりたい。」
まだ続いている二人の話し声を子守唄に、ネラは眠りについた。
次の日、ネラは母親の村祭り用の衣装を取り出していた。刺繍された白いシフトドレス。伝統的な織物で作られた特別なコルセット。色鮮やかなスカートと凝った刺繍のエプロン。密かに母の匂いがする。いつか譲られる日を心待ちにしていたが、こんなに早いとは思ってもいなかった。
(ラドゥールは踊るのかしら。)
ふと浮かんだ顔を振り払う。
自分も今回の祭りから大人の仲間入りだ。良い『花婿』を見つけて、早く父親を安心させたい。そうして、子どもを産んで家庭を作っていけば、自分もラドゥールのいう「年輪」になれるだろうか。
その時だ。
ドアが勢いよく開いた。青い顔をした父親が、戸口に立ち尽くしている。
昼過ぎ、館に呼ばれて行ったままだった。ただ事ではない様子に、ネラは父のもとに歩み寄る。
父が喘ぐように呟いた。
「男爵様が破産した。」
あまりの事に口がきけない。
話が飲み込めないまま、それでも取りあえず父を促して椅子に座わらせた。白湯を前に置くと、一気に飲み干す。もう一杯飲んで長い沈黙の後、話し始める。
館に行ってみると使用人全員が呼び集められていた。待っていたのは、顔色の冴えないラドゥールと執事、商人風の男達。御当主の伯爵の姿はない。
そして商人風の男が男爵の破産を告げ、この屋敷の差し押さえを宣言したという。
使用人は全員解雇。速やかに立ち退くように言い渡された。もちろん、退職金も無し。
そして、屋敷にあった金目の物すべての運び出しが始まった。
使用人達はラドゥールと執事を問いつめた。昨日帰ったばかりのラドゥールは、何も知らされていない。同じく執事は、主がお金の管理をしていたのでわからないといった。当主一家は旅行に出掛けたまま、連絡がとれないという。
ノース家が傾き出したのは、一年前の先代の葬式からだった。
家督を継いだ長男サーナスは、近隣の名士を呼んで盛大な葬式を上げた。ネラも手伝いに駆り出されたので覚えている。これでもかといわんばかりの贅沢な葬儀だった。
次に、御領主さまに報告のためと、ひと月、都アスンに滞在。大量の請求書の束を持ち帰った。
そして、さらにはお披露目の大舞踏会。次から次と財産は消え、危機感を持った執事が進言したが、取合ってもらえなかった。そればかりか、経理の一切を自分達で行うと言い出した。
「つまり、サーナスは無能だったてことね。」
もはや、『様』を付けるのも忌々しい。
当主不在のまま、日々の払いもままならず、執事は不安を募らせていた。
「ラドゥール様は?」
「ああ。今、あの商人達と話し合ってる。」
窓の外に目をやった。日が暮れて暗く沈んだ館が見える。どの窓も真っ黒な中、ただ一つだけ灯りが付いていた。あの中で今もラドゥールが話し合いを続けているのだろうか。
「私達はどうなるの?」
「いずれ、立ち退かされるだろうな。仕事も探さにゃあならん。」
花祭りどころではなくなった。
翌日、また使用人達が招集された。一様に不安げな顔をして、落ち着きがない。
空っぽの屋敷の広間には、ラドゥールが一人が立っていた。
まず、彼はこのような事態になったことを深く詫び、立ち退きまでの猶予を三日延長してもらった事を告げた。そして、これまで勤めてくれたことに感謝し、その礼として、僅かではあるが全員に謝礼を渡す事を約束したのだった。
父に付いて来ていたネラは、安堵する彼らとは裏腹に不安に陥っていた。
多分、彼は自分が所有している僅かな資産を処分して、使用人達に支払うつもりだ。
しかし、そうなれば結婚はどうなるのだろう。体面を重視する貴族が、没落した婿養子を受け入れるだろうか。もし、破談となったら、彼には学資がない。奨学金は庶民でなければ受けられない決まりだ。
(どうするつもり。)
自分も同じような身の上なのに、彼が気がかりだった。
ラドゥールは、去って行く人々を見送っている。その顔からは何の表情も伺えない大人の顔をしていた。その姿がネラを不安にする。最後に残ったのはデューレ親子だった。
おもむろに父親はテラスの方へ向かって歩き出した。そして、観音開きのガラス戸を開け放つ。
テラスに出ると、そこには父が作った庭園が広がっていた。
美しく整えられたシンメトリーの花壇が手前に2面。模様を描くように造り込まれている。そして、奥には広々としたグランドカバーがあり、その先は林が見える。とても広大な敷地に見えるが、実際は目の錯覚を利用して設計されたものだった。少しでも広く見せたい!という、見栄っ張りな主に乞われて作り出した父デューレの苦心作だ。
父は目を細め、暫く眺めていた。
「デューレ、すまない。」
沈痛な面持ちでラドゥールは、その背に詫びた。彼も父の仕事をずっと見て来たのだ。その苦労も工夫も知っている。
「なんの。この庭は遣り尽くしました。また、新しい庭をイチから作りたいと思っとったところです。」
振り向いた父親は柔らかく微笑み、ラドゥールに向かって最上級の礼を取った。そして、テラスの階段をゆっくりと降りて行く。
ネラは躊躇った。何も出来なくても、彼の側に居たい。だが、彼の眼を見て思い留まる。礼を取り、一言も交わさぬまま父の後を追う。
ラドゥールは今、ひとりになりたいのだ。穏やかに振る舞ってはいるが、心の中はいい知れぬ寂寥が渦巻いている。そう、感じた。
父は庭園の花壇をゆっくりと見て回る。よく手入れされたトピアリー。その間を彩る花々。今は低木のエリカセアが満開で、ピンクと白の花が淡く香る。この花は数が多いので、毎朝の花殻摘みが大変だった。萎れるとすぐ茶色く変色するため景観を損ねるからだ。面倒だと思っていた仕事ももう、しなくてもいい。そう思うと少し寂しくなるから不思議だ。
無言のまま、屋敷の右側に向う。
角を曲がると広い中庭に出た。テラス側の庭園と違い、3方を建物に囲まれてた奥行きのある長方形の庭だ。迷路のような小道が縦横に走り、わざと見通しがきかないように樹木や低木が配置されていた。茂みをぬけると小さな噴水、木陰にはベンチ、その先に東屋が見える。小道を辿ると宝探しのように次々と現れた。ネラはここが一番好きな庭だ。
(別れを告げてるのね。)
妻を亡くし、庭園の仕事も無くなった。父の後ろ姿が小さくなったような気がして、その背をそっと抱きしめる。父の温かな手がネラの手に優しく添えられた。
「家に帰ろう。荷物をまとめないとな。」
気持ちは伝わったようだ。
振り向いた父は、意外なほど穏やかな微笑みを浮かべていた。何か吹っ切ったような、そんな笑顔だ。
ネラも笑顔を返す。そうだ、今日で世界が終るわけではない。多分、ここでの役目が終わったのだ。泣いても笑っても、明日はやって来る。
霧が晴れるように不安が消えていく。父は『新しい庭』と言った。またどこかで、庭師として仕事をするつもりなのだ。並んで歩きながら、真っ直ぐ前を向く父の横顔が頼もしい。
自分も何か、自分だけの『新しい庭』を見つけたい。そんな想いが涌き上がる。
ネラは、このとき初めて「自分」を考え始めた。
これは夢だろうか。
それとも、これが既視感というものか。
とにかく、前に見た同じ光景だと、ラドゥールは思った。
朝靄の中、女性が庭園の草取りをしている。頭には大きめのキャップ。こちらに背を向けている。手際良く雑草を摘み取って行く。
昔、似た女性を知っていた。彼女は悪戯好きで気が強く、生意気な妹のように思っていた。だが、もうあの頃の彼女はいない。美しいドレスに身を包み、土など触れることもないだろう。
そんな物思いにふけっていたその時、下を向いていた女性の身体が突然大きく揺れた。地団駄を踏んでいるーように見えるが、あれは…
ラドゥールの顔に笑みが広がる。
ー既視感でも夢でもない。彼女だ。
そおっと、足音を忍ばせ彼は小道を行く。彼女に気付かれないように慎重に。気付いた途端、小鳥のように逃げてしまうかもしれない。いや、大泣きされるか。ーあの時と同じように。
「決めたわ。」
クヤデの安宿の一室で、彼女は決然と宣言した。
「あたし、『百花の園』に入る。」
屋敷のすべてを処分し引き渡しが終った後、ラドゥールは旅に出た。大学に退学届を出すためだ。
突然、婿入り先の貴族から破談の申し入れがあったのは、事が起こるひと月前だった。理由もわからず、婚約者を訪ねたが門前払い。狼狽して、兄に手紙を書き送ったが返事は無い。仕方なく、実家に帰ったところ、破産騒ぎとなったのだった。
大学には手紙で事足りるが、私物もある。本などを売れば、多少の蓄えにはなるだろう。何より学舎への未練もあった。学友に別れを告げ、恩師に今後の相談もしたい。道すがら、自分の身の振り方を考えるにも良い時間だと思った。
途中、クヤデに立ち寄ったのはほんの気まぐれからだった。急ぐ旅でもない。滞在中のデューレ親子の様子を見ようと思ったからだ。
(大きな帽子は元気だろうか。)
親子はここで職探しをしていると、人づてに聞いた。
安宿を訪ねると、二人は歓迎してくれた。明るい顔で仕事先が決まったと言う。ホッとした反面、寂しさも感じた。これきり、この親子とも別れてしまうのだろうと。
その夜、祝杯を上げようと街に繰り出すことになった。デューレが所用で先に出掛け、部屋にネラと二人きりだった。結婚前の男女には良いことではない。ドアを開けようとすると、ネラに止められた。
「大事な話があるの。」
そう切り出された。
その話がこれだ。
ラドゥールは激しく動揺していた。到底、受け入れられるものではない。考えるより先に、言葉が出た。
「ダメだ。」
キャップのヒダの奥から、新緑の瞳が射竦めるような強さで自分を見ている。
「反対しても無駄よ。」
「お前は知らないからだ。あの館の商売は…だな。」
女性に向かっていうには、あまりに礼を欠く。躊躇していると、
「知ってるわ。高級娼館よ。お金で男に身体を売る娼館だわ。」
言われたラドゥールの方が顔を赤らめた。本人は顔色一つ変えない。
「知っているなら尚更だ。何故、そんな必要がある。」
父親の仕事も決まって、生活の心配もなくなったはずだ。
「誘われたの。」
驚いたことに、父親の仕事先はその高級娼館だという。ネラが直談判に行って、決めてきた。その時応じた館の主に、誘われたという。
何と短慮な事を。きっと綺麗な服と金で釣られたのに違いない。何よりデューレが許すはずはないのだ。
「デューレには?話したのか?」
「自分の好きにすればいいって。」
彼は呆気に取られ、次に唸った。
「…信じらねん。自分の娘だぞ!」
「高級娼館よ。お金で売られるわけじゃないわ。その辺の娼婦と一緒にしないで。」
厳しい声が飛ぶ。確かに、女性が知性を磨く場所としては他に類を見ない。だが、高級娼婦は誰でもなれるわけではない。知識と教養、歌舞音曲、男達を飽きさせない手練手管、全てを備えてこそ成り立つ商売だ。
仮に人気を博して客を選べたとしても、男に身体を売ることには変わりはない。ネラは、それがわかっていないのだ。
「母さんも、お城に上がるほどの高級娼婦だったそうよ。』
あのメイナが…と言ったきり絶句する。無理もない。父親が語るまで自分も知らなかった。
「あたし、自分を試したいの。」
「いや、だが、それは…他に方法があるだろう。」
他の方法…言ってはみたものの何も思い付かない。ただ、嫌だった。ただ止めさせたい。それだけで口を動かしている。見透かされていることはわかっていたが、高ぶった気持ちは収まらない。
「女が自分を試す方法なんて、他にないわ。」
「ダメだ。認められない。」
「貴方に止める権利はないわ。もう、使用人じゃないもの。」
頭にカッと血が上る。彼女の両肩を掴んだ。彼女と目を合わせる。
「そうだ。私は名ばかりの貴族で、おまえは使用人じゃない。妹でもない。」
感情が先走る。もう、止められない。
「好きなんだ。」
若草色の目が大きく見開かれた。
「結婚しよう。3人で暮らそう。」
ネラの瞳が輝く。お互いの想いが通じた瞬間だった。
ラドゥールは喜びに満たされる。
だが、それは一瞬だった。
彼女は痛みを堪えるように目を閉じ、顔を背けた。一瞬の喜び、そして失望。彼女の様子に彼は混乱し、焦った。好いてくれていると感じたのは気のせいか。
ネラは気持ちを切り替えるように、息を吐いた。そして、顔を向ける。ひだの奥の若草色の瞳に、強い光が宿る。
「ダメよ。」
息を飲む。真っ直ぐな目差し。
「今の貴方とは無理だわ。」
胸に黒い穴が穿たれる。穴は圧迫感さえ伴ってシミのように広がって行く。
「あたしも同じ。未熟なままだわ。そんな二人が一緒になって、どうやって生きていくの?」
現実を突き付けられて、返す言葉もない。自分は働いたことがないのだ。
「それにね。」
一度、言葉を切る。
「もう自分を偽りたくないの。あたしは、あたしのままで、生きてみたい。」
彼女はキャップを勢いよく取り去った。
その瞬間、雷に打たれたように彼は動きを止めた。
滝のように流れ落ちる豊かな金の巻き毛。瑞々しく美しい白い肌。新緑色の瞳。ファーネラの花色の唇。彼女が今まで隠していたものを、初めて見せた瞬間だった。
息さえ止めていたかもしれない。綺麗な瞳だとは思っていた。ひどいあばた顔だと聞いていたので、キャップのヒダの中は覗き込んだことはない。だから、これほどの美貌だとは思いもしなかった。
彼女の肩に置いた手を離し、彼はヨロヨロと手近な椅子に力なく座った。
「あなたは、あたしを守れる?」
呆然と彼女を見上げる。
「権力もない、剣術も苦手なあなたが、どうやってあたしを守ってくれる?」
彼は喘いだ。そんなラドゥールを見て、自嘲気味に笑った。
「今のままじゃ、あたしも自分を守れない。どの道騙されるか、力づくでか、いいとこ金持ちの妾ってところだわ。下手したらゴロツキの情婦よ。」
重いため息を付く。
「館のマダムにね、『その美貌では、普通の幸せを掴むのが一番難儀だろう』って言われたわ。『知性と教養で武装して、男達を翻弄するか、顔を隠して一生目立たぬように生きるか』と聞かれたの。」
(貴女は、どう生きたいの?)
真摯な紫色の瞳が、ネラを静かに見詰めていた。
「一生に一度ぐらい、あるがままの自分で勝負して、生きる力を付けたい。」
「だから、貴方も大学に帰って。」
静かな声で語りかける。
「そして、自分のしたい勉強を続けて。」
ラドゥールは虚ろな、どこか焦点の定まらない顔で、苦笑を浮かべて呟く。
「そんな金はない。」
そのまま黙り込む。惨め過ぎて、彼女にさえ破談のことは言えない。
だが、彼女は知っていた。館を引き払う時、執事から聞いたのだ。当主が何度も相手貴族に金の無心に行っていたと。これ以上続くようなら、破談にすると宣言されていたと。
ネラは奥歯を噛み締める。だから、決めた。ここからが正念場だ。彼の心を失うかもしれない。心の震えを押さえるように、一度瞑目した。ネラは用意していた言葉を口にする。
「取り引きをしましょう。」
「…取り引き?」
「私が援助するわ。」
弾かれたように顔を上げた彼の顔は、困惑と怒りに歪んでいた。ラドゥールが口を開く前に話し始める。
「貰った支度金があるの。」
彼女が口にしたのはかなりの額だった。
「勘違いしないで。貴方のために娼婦になると思ったら大違いよ。それとこれとは別の話。お金は貸すだけ。ちゃんと返してもらうわ。」
互いに相手を探るような沈黙。ネラが口を開く。
「お金を貸すにあたって、条件は三つ。一つは、研究を続けて学門を修めること。二つ目は返済期間は10年間。分割でも一括でも構わないわ。」
もう、後戻り出来ない。神様、お願い。
「三つ目は、お金が払えなかった場合、あたしを嫁にすること。」
彼の顔が歪んだ。無言で、のそりと立ち上がる。そして、ネラに背を向けた。正面はドア。交渉決裂。彼は出て行く気だ。
胸に絶望が突き刺さる。彼の心を読み間違えた。あばた顔の自分を好いてくれた彼なら、どんなに汚れても受け入れてくれると。女を娼館に売って学費を作ったと醜聞が立ったところで学問のためなら気にしないと。ラドゥールなら、わかってくれると思っていた。
所詮は彼も普通の男だったのだ。そして、心は誇り高きお貴族様。
ネラは失望しながらも、彼に縋り付くまいと拳を握りしめた。何より今、彼に必要なのは自分ではない。家も金もない一人の男として、生きて行く土台が必要だ。
だから、考え出した三つ目の条件だった。他の男に弄ばれた女を嫁にしたくなければ、金を返せばいい。それだけでも、10年、繋がっていられる。
今、好きだと言ってくれた気持ちだけで満足すべきだ。
ラドゥールの大きな背中が滲む。ネラはこみ上げる感情を必死に押さえた。せめて、彼が出て行くまでは泣くまいと。
ふいに、彼が振り向いた。
目が合う。何とも言えない表情をして、彼はネラを抱きしめた。
朝焼けに空が紅く染まリ始めた。
彼が出て来るのを待つ間、ちょっとだけ草取りをしようと思っていたのに。モグラ穴を見て闘志が湧いてしまった。ふぅと息を吐いて、背を伸ばした。
途端にパッとキャップを取られる。振り向けば、ーやはり、待ち人がそこに立っていた。
「カエルは入っていないようだな。」
驚かそうと思っていたのに、逆に仕掛けられて悔しい。
「貴方にカエルは効かないでしょう。無駄なことはしないわ。」
ちょっと膨れっ面をしてみせて、笑いながら抱き合った。
「…よくわかったな。」
「貴方の気配はすぐにわかるの。」
「本当に?」
「嘘よ。父さんが教えてくれたわ。」
笑いながら抱き合う二人を遠目に見守るデューレは目を細め、天を仰いだ。空は丁度ファーネラのような薄紅色。亡き妻も祝福しているような気がして、神に感謝する。
この10年、二人を見守って来た。娘ネラは輝くばかりに花開き、今では館最上級の『華』だ。一方、ラドゥールは学問を極め、学者として農業指導する傍ら、品種改良にも力をいれている。娘への借金も僅かづつながら返済を続け、5年前からは年に一度、デューレの元へ直接持って来るようになった。庭の手入れを手伝いがてら、しばらくデューレの作業小屋兼自宅に泊めてもらうのが決まりだ。
それも、もうすぐ終る。
「夕べ、最後の返済をデューレに渡した。…今までありがとう。」
フィラネスの顔から笑みが消える。条件その2を10年で完済したことになる。よって、条件その3は不成立。完済した今、二人は対等だ。
「ネラ。」
久しぶりに名前を呼ばれ、ハッとする。
「私の妻になってくれ。」
若草色の瞳が大きく見開く。長い夢から目が覚めた気がした。前の時より、数段逞しく精悍になった彼をしみじみと見つめる。ラドゥールには、今の自分はどう映っているだろう。行き遅れの年増には違いないが、プロポーズしてくれたのだから、まだ魅力は残っているらしい。
「あたしを守れるようになった?」
フィラネスの顔で睨め付ける。
「剣術は多少…、いや、う〜ん。権力は…権力者に伝手がないこともないこともない。」
とぼけた返事に、思わず吹き出す。
「それって、どっちよ。」
「私が守らなくても、自分で身を守れそうじゃないか。」
「当然よ、そこいらの男なんて屁でもないわ。」
膝蹴りのマネをされ、ラドゥールは慌てて飛び退く。
「返事は?」
ちょっと焦り始めた瞳に、はにかんだ顔の自分が写っている。
「キスしてくれたら。」
程なく、要求は満たされた。
朝日が庭を照らし始める。
二人の時間が終わろうとしていた。
ネラはフィラネスに戻り、ラドゥールはデューレの手伝いに来た庭師になる。別れがたい気持ちを抑えて、テラスまでの小道を歩いた。
「今回はゆっくり出来るの?」
「ああ、前に出した報告書の件で、御領主様に呼ばれている。定例会まで厄介になるよ。」
ネラの顔が輝いた。
「そう!じゃあ、アスンの花祭りまでいるのね。」
「そのつもりだ。」
日射しに、フィラネスの金髪が目映い光を放つ。まさに春の女神セロネラのようだ。
「一緒に踊りたいわ。」
10年前は、それどころではなかった。
彼女に見とれながら生返事をする。
「…ああ、うん。」
返事をしてから、はたと気付く。ちょっと待て。
「嬉しい!ありがとう!じゃあ、アスンで落ち合いましょう。祭りの二日前には向かうわ。」
「…ア、アスンって?」
満面の笑みをたたえながら、不敵に笑った。
「フィラネス最後の『夜の踊り』よ。」
領都アスンの花祭りは盛大だと聞く。昼も夜もパレードやダンスが行われ、ことに夜に行われる舞台には高級娼婦達が花を添える。日頃お目にかかれない美姫達を間近で見られるとあって大人気だ。
「ちょ、ちょっと待て。そんな大事な踊りに、私が相手だなんてダメだろう。」
「フフ…大丈夫よ。心配しないで。<アルマンド>より簡単よ。足も踏まれないと思うわ。」
呆れ顔をされても、無理なものは無理だ。絶望的にダンスが下手なのは自覚している。
「…いや。やはり、無理だ。…舞台の上だろ?」
ふふ〜ん、とちょっと考え込んでニヤリと笑う。良からぬことを思い付いた顔だ。ラドゥールは身構える。
「じゃあ、こうしましょう。」
さて、どう来るか。
「私が踊るのを、貴方は舞台の袖で見てて。」
「いいのか?」
「ええ、いいわ。」
ホッとしたのもつかの間、
「ただし、その気になったら、相手をしてちょうだいね。」
「ああ、わかった。」
絶対にならない自信がある。そのくらいなら大丈夫だろう。
「約束よ。」
「ああ。」
朝日のせいだろうか、新緑色の瞳がキラリと光ったように見えたのは…。
屋敷の方から誰かを呼ぶ声がする。誰かが彼女の不在に気付いたか。フィラネスは遠目に誰かを認めたらしく、ニヤリと笑って髪を大急ぎでキャップの中に突っ込む。
「手紙を書くわ。じゃあ、アスンで!」
言うなり小道を猫さながらに身を低くして走り去っていく。
姿が見えなくなった後も、暫く道の先を見つめていた。果たして、しばらくすると女性の悲鳴が聞こえ、その後に爆笑が重なった。相変わらず、悪戯好きは健在なようだ。
この分ではアスンの花祭りも、どうなることやら思いやられる。それでも、次に会うのが待ち遠しい。祭りが終われば、高級娼婦フィラネスはネラに戻り、自分の妻となる。
朝日を浴びて庭の草花が生き生きと輝き出す。彼女が置いていった雑草の籠を拾い、ラドゥールはゆっくりと歩き始めた。
「フィラネス様〜」
エルリーはため息を付く。
屋敷中、くまなく探したが見つからない。黙っていれば女神。口を開けば女王様。負けず嫌いでいたずら好きな『華』の行動は、まだまだエルリーの想像を越えて行く。後は庭だけだが、出来れば行きたくない。虫が苦手なのだ。テラスの石段を降りるかどうか躊躇していると、使用人が通りかかった。見慣れない女だ。やたらキャップが大きく顔がよく見えない。新しく雇った者だろうか。まあいい、背に腹は代えられない。
「ちょっと、そこのあなた!」
使用人は足を止め、会釈した。
「フィラネス様は庭に出ていらっしゃる?」
う〜〜ん?と首を傾げている。
「フィラネス様よ。わからない?」
また、う〜〜ん?と反対側に傾げた。どうにも埒があかない。
そこへ、離れの小道から二人の男女が姿を現した。
「おはようさん、エルリー。朝っぱらから忙しそうだな。」
大旦那様だ。まずいことにマダムも一緒だ。咄嗟に、礼を取る。
「おはようございます。大旦那様、マダム。お騒がせ致しまして、申し訳ございません。」
「どうかしたの?」
「いえ、あの。」
言い淀む。マダムには知られたくない。言葉を探していると、かかかと軽い笑い声がした。
「エルリーが血相替える相手は一人だけだろう。なあ?」
好々爺としていても、さすが大旦那様。マダムはため息をついて、まだ突っ立ていた使用人を見る。
「フィラネス。いい加減になさい。」
「やだ、つまらないの。」
使用人がキャップを取った途端、フィラネスに変身した。
あまりの化けっぷりに二の句が告げない。前の付き人、<睡蓮>のユールに注意するように言われていたのだ。フィラネスは変装の名人だから、気をつけるようにと…
まったく悪びれる様子もなくテラスに上がって来るフィラネスに、沸々と怒りが湧いて来る。一つ息を吐いて、気持ちを切り替えた。
「本日は時の砦の鐘3つ(午前10時)に、レイナック卿とお約束があります。お急ぎ下さい。」
「そう。」
事務的に伝える彼女に、いつもの無表情なフィラネスに戻る。
エルリーの脇を通り過ぎるとき、ふと足を止め、
「あら、付いてるわよ。」
肩から取った何かを手のひらに乗せた。そのまま奥に向かう。
ふと見るとそれは…
「キャーーーーーーーー!」
手からこぼれ落ちたのは大きな緑色の芋虫だった。
「フィラネス!」
「ハッハッハーーーッ!相変わらずだなぁ。」
叱責するマダムと大旦那様の大笑い。
エルリーはしばし気を失った。
さあ、いよいよ花祭りに向けて、色々盛り上げていきます。