第5話【奴隷の覚悟】
「ふッ、ふッ、ふッ……」
フェイは日課の走り込みをしていた。
最近だと自宅周辺だけではなく、少し距離を伸ばして走り込みをしている。開店準備中の商店街を通り抜け、朝の散歩中である老夫婦に「おはようございまーす」と元気よく挨拶をし、迷宮区を駆け回っても疲れない体力をつける為に走る。
適度に汗を流し、フェイは深緑色のつなぎの襟元で顎を伝い落ちる汗を拭う。なかなかいい距離を走ったと思う。これで自宅に戻って、軽く湯浴みを済ませたらご主人様を起こせばちょうどいい時間帯だろう。
まだ営業前の迷宮区案内所の前までやってきたフェイは自宅まで戻ろうと踵を返すが、
「そこにいるのは、あの強欲女の奴隷か」
聞き覚えのある少女の声がして、フェイは振り返るのを少し躊躇った。
ここで振り返るのを止めて逃げたら、何をされるか分からない。相手はご主人様であるユーリの元仕事仲間である、希少スキルを持ったSSS級探索者であることは確実だった。
せめてご主人様のユーリがいれば庇ってくれたのだろうが、奴隷であるフェイを守ってくれる存在のユーリはいない。自分一人で対応しなければならないことが悔やまれる。
胸中で「乱暴なことをされませんように」と祈り、フェイは仕方なしに振り返った。
「おはようございます、今日もいい天気ですね」
「適当な挨拶など必要ない」
振り返った先には、子供かと見紛うほど小さな少女が薄い胸の前で腕を組みながらフェイを見据えていた。
メイヴ・カーチス、現在は『銀獅子調査団』の首魁を務める少女である。
元々はご主人様であるユーリと同じく『七つの大罪』に所属していた探索者で、元仕事仲間という訳だ。昨日会った時点ではユーリの方が嫌っていた様子なので、フェイもメイヴを警戒するに越したことはない。
フェイは努めて人当たりのいい笑顔での対応を心がけると、
「あはは、奴隷とはなるべく話したくないですもんね。あの、じゃあ俺はこれで……」
「貴様はユーリ・エストハイムの奴隷なのだろう」
さっさとその場から立ち去ろうと思ったのだが、メイヴが唐突な話題を振ってきたので逃げるに逃げられなくなってしまう。
「いつまであの強欲女のところにいるつもりだ?」
「どういう意味です?」
「長いこと一緒にいれば分かるだろう、我々は普通ではないのだと」
メイヴに言われ、フェイは首を傾げる。
彼女は何を言いたいのだろう。
それがフェイには理解が出来なかった。話題が回りくどすぎる。
「はあ」
「貴様はユーリ・エストハイムの容姿が変わっていないことに疑問を持っていないのか?」
「持ってないですね」
フェイは即答していた。
五歳の頃、実の両親に奴隷商人へ売却されてからご主人様のユーリ・エストハイムに購入された。その時から彼女の容姿はあのままで、フェイが成長してもユーリは老いることなく成長を見守ってくれた。
フェイにとってユーリ・エストハイムとは、母であり姉であり迷宮区踏破の知恵を授けてくれた師匠である。特に何も思わない。
たとえそれが、人間の輪から外れるようなことだとしても。
「マスターが普通ではないのが、一体何ですか?」
「いつか貴様自身が主人を置いていくこととなるのに、まだあの強欲女にしがみつくのか」
メイヴは音もなく琥珀色の双眸を眇め、
「それとも、そこまで主人を愛しているのか。置いていくことになろうとも」
「そうですね」
フェイはこれにも即答で返した。
ユーリはずっとあのままだ。老いることも、死ぬこともなく、ただずっと【強欲の罪】という希少スキルに寄り添って生きていくのだろう。
彼女にとって瞬きの間に過ぎない関係だが、それでも自分の命が尽きるまでご主人様の側に付き従えられたらいいと考えている。フェイはそれで後悔はない。
だってフェイは、主人であるユーリ・エストハイムを敬愛しているから。
「俺はマスターの意思に従います。マスターが俺を早々に手放すなら、本当は嫌だけど従います。マスターが俺を手放さないでくれるなら、俺は最後までマスターの側にいます」
フェイの真っ直ぐな言葉に、メイヴは口を閉ざした。
彼女はやれやれとばかりに肩を竦める。小声で「これでは忠告の意味がないではないか」と言う。
やはり忠告の意味があったのか。敬愛する主人を置いていくのであれば、せめてその前に主人を拒絶した方がいいのではないかという彼女なりの心配なのだろう。
「ならば、私から言うことは何もない。せいぜい奴隷と主人同士、仲良くすればいいさ」
メイヴは颯爽と踵を返し、迷宮区案内所の前からスタスタと迷いのない足取りで立ち去った。
小さな背中を見送ってから、フェイも踵を返す。
早く家に帰らないと、主人が起きてフェイがいないことに気付いてしまう。――いやもう気付いているのかもしれないが、家にいないことでご主人様から怒られたくないのだ。
☆
急いで家に戻れば、ユーリはまだ眠っていた。
ご主人様であるユーリは朝に弱い。フェイが毎朝苦労して起こしているのだ。
本気で起きない時は最終手段としてご主人様の名前を呼び捨てにして起こすのだが、それを毎回やると効果がなくなるので普段は苦労して叩き起こしているのである。今は主人が朝に弱くて助かった、と思うしかない。
フェイは安堵の息を吐くと、
「マスター、おはよう。朝だぞ」
「んー……」
狭い寝室を占拠する大きめのベッドに寝転がるユーリは、もぞもぞと布団に包まる。起きるつもりは毛頭ない、という彼女の意思表現である。
残念ながらその意見には賛成できない。
今日も迷宮区探索の仕事が待っているので、きちんと起きてもらわなければ仕事に行けないのだ。本当ならいつまでも寝てていいのだが、迷宮区は早い者勝ちなので仕方がない。
フェイは布団に包まったご主人様の元まで歩み寄ると、
「マースター」
「んんー……」
「マスター、起きないと。今日は迷宮区に行くんだろ」
「んぃー……」
フェイの起床を促す声に抵抗していたユーリだが、フェイの汗の臭いを感じ取ってぼんやりと赤い瞳を開いた。
「フェイ」
「あ、起きた。おはよう、マスター」
「外に行ったのかい? 汗の臭いがするけど」
「え、ああ、ちょっと走り込みをしてきた」
嘘は吐いていない。
迷宮区案内所でメイヴ・カーチスに出会ったが、そのことには触れずにいた。もし報告すれば、ご主人様のご機嫌が急降下するからだ。
ユーリは「そうかい」と眠たげな声で応じると、
「起きる……」
「今日の朝飯は何がいい?」
「何でもいいよ。アンタの作る飯は何でも美味しいからねェ……」
欠伸混じりに起き上がったユーリだが、やはり眠気には敵わずグラグラと頭を揺らす。
フェイは苦笑すると、櫛を取ってきてベッドに座った。
主人のボサボサになった髪を梳かすのもフェイの役目だが、いつもであれば背中に回るのだが、今回は胸元に飛び込んできた。フェイの鍛えられた胸板に顔面から飛び込むと、そのまま「すぴー」と二度寝をし始める。
汗の臭いがするからあまり嗅がれたくないのだが、仕方なしにそのままの状態で髪の毛を梳かしてやることにする。何だか抱きついているような気分だ。
「マスター、あんまり臭いを嗅がないでほしいんだけど」
「何でだい……」
「そりゃ、汗臭いから嫌なんだけど」
「いいじゃないかい」
グリグリとユーリは額をフェイの胸元に押し当てて、
「この男臭さがいいんじゃないかい」
「俺が歳を取って加齢臭とかし始めたら、絶対に離れていくだろ」
「その時はその時さね」
ユーリはフェイにしがみつきながら、声を押し殺して笑った。
メイヴ・カーチスがフェイを想って――そしてユーリを想って離れた方がいいと忠告をしたのであれば、フェイはそれに従わない。
フェイはユーリの側にいることが幸せなのだ。彼女がフェイを必要ないと思えば簡単に切り捨てるだろうし、それまではこの美しく強い主人に尽くそうと思う。
(マスター、これからも俺のマスターでいてね)
自分が死ぬ、最後の最後まで彼女の側に在り続けられたら、と密かに願う。




