第5話【虫除け香水】
「ん……」
意識が浮上し、フェイは目を覚ます。
あれからどれほど時間が経過したのだろう。
時間の感覚が掴めず、明かりを落とす天井をぼんやりと見つめてから靄のかかる思考回路を整理する。
虫除けの香水を試しにつけてみて、薔薇の匂いがして「いいな」とは思ったのだが、それ以降の記憶が朧げだ。何故か少しだけ身体が熱くて、こんな時に風邪でも引いたのだろうかとうんざりする。
「起きたかい?」
「マスター……」
ひょっこりとフェイの顔を覗き込んできた銀髪赤眼の美しきご主人様――ユーリは、その手に握った浴布をフェイの額に乗せてくる。
浴布は程よく濡らされており、ひんやりとした温度が額から伝わってくる。
おかげで熱った身体の温度も下がっていくようだった。「はふ」と冷たさに吐息が漏れてしまう。
ユーリは指先でフェイの頬を撫で、
「身体は?」
「ちょっと熱い……」
「まだ香水の成分が残ってるようだねェ。でも、理性があるなら上等だよ。そのまま休んでな」
「うん……」
ご主人様に「休め」と命じられ、フェイは静かに瞳を閉じて濡らされた浴布の冷たさを遠慮なく享受する。
目を瞑ると、代わりに他の感覚が研ぎ澄まされていく。
ユーリがフェイの頭を優しく撫でる感触、それからトントンという足音。長椅子を占拠して眠るフェイのすぐ側に座った彼女は、何か作業をし始める。物を断ち切るようなシャキンという音と、ゴリゴリとすり潰す音。何の作業をしているのだろうか。
「マスター、何してるの?」
「虫除けの香水を作っているのさ」
ゴリゴリと何かをすり潰しながら応じるご主人様。
「虫除けの香水? イザベラさんのところで買ったものがあるのに」
「あんなの使えないよ。かと言って他の店から買うと高いからねェ、自分で作っちまった方が早いのさ」
「マスターは虫除けの作り方を知ってるの?」
「当然だろう? 迷宮区踏破に必要な知識は全部身につけているさね」
ゴリゴリと何かをすり潰す音が止まり、ご主人様の「このぐらいかねェ」という声がする。
部屋の空気に森のような心安らぐ香りが混ざった。
イザベラ・ラインツイッヒの店で購入した薔薇の匂いのする香水もいいものだが、こちらの匂いの方がフェイの好みだ。嗅いでいると安心する。
「凄いなぁ、マスターは」
「褒めたって何も出ないよ」
「出なくていいよ」
ゴリゴリと再び始まった虫除けの香水の原材料をすり潰す音が心地よく、フェイを眠りの世界へ誘う。
ご主人様にも言われたし、少し休もう。
この程度の体調不良なら、少し休めば回復するはずだ。身体の熱さも徐々に引いてきたが、まだ倦怠感は残っている気がする。夕飯の支度までに復活できればいい。
深く息を吐き出して、フェイの意識は深淵へと落ちていく。意識を完全に手放すまで、それほど時間はかからなかった。
「フェイ? ――何だ、寝ちまったんだねェ」
ご主人様の少しだけ呆れたような、だがフェイの無事に安堵したような声が聞こえたような気がした。
☆
「…………」
次に目を覚ますと、もう音は聞こえていなかった。
フェイは明かりを落とす天井をぼんやりと見上げて、それからゆっくりと身体を起こす。ご主人様の言葉に従って休んだのが幸いしたのか、身体の熱さもなく倦怠感も消失している。
まだ湿った浴布を額から取り、起き上がったフェイは自宅を見渡す。見慣れた我が家の風景が広がっているものの、大切なものがない。
ご主人様であるユーリ・エストハイムの姿がないのだ。
「……マスター?」
ご主人様の名前を呼ぶフェイは、彼女の姿を探して寝室に向かう。
虫除けの香水作成に飽きて昼寝をしているか、それとも単に作業が終わったから昼寝をしているか。どのみち昼寝以外の選択肢はないと思っていた。
狭い自宅に設けられた寝室を覗き込むと、寝台には誰も乗っていない。ご主人様が丸まって眠っている風景すらない。
「マスター、どこ行ったんだ?」
どうやら家にはいないようだ。
ならばどこかに買い物へ出かけたか、そのまま贔屓にしている店へ飲みに出かけてしまったか。
それならフェイを叩き起こしてもいいのに、体調不良の青年を気遣ったのか。そんな必要はないのに。
何故なら、フェイはユーリ・エストハイムの所有物であり、彼女の奴隷なのだから。
「マスター……」
途端に不安を覚えるフェイ。
虫除けの香水をつけただけで体調不良になるような奴隷はいらない、ということになるのだろうか。
このままご主人様が帰ってこなかったら、フェイは一人になってしまう。奴隷がご主人様に捨てられれば、待ち受けるのは新たなご主人様の存在だ。今度は今のような生活が望めないかもしれない。
それがご主人様であるユーリの判断ならば、受け入れよう。所詮、フェイは奴隷の身だ。ご主人様であるユーリの決定に従わない訳にはいかない。
「……マスター、不甲斐ない奴隷でごめん……」
「何言ってんだい」
玄関の扉が開き、怪訝な表情をしたユーリが姿を見せる。その手には大量の花が抱えられ、ついでに紙袋も一緒に抱えられていた。
本当に買い物へ行っていた様子のユーリは、起き上がったフェイに「起きたようだねェ」と言う。その表情は優しく、自分が所有する奴隷を心配している節さえある。
ポカンと立ち尽くすフェイの頬を撫で、体温と何も反応しないところを確かめて「よし」と満足げに頷いた。
「体調は?」
「え、もう……何とも、ない」
「そうかい」
フェイの答えに軽い調子で応じたユーリは、紙袋をフェイへ押し付けてくる。
「コイツは明日の迷宮区の消耗品さね。準備しときな」
「え、ああ……うん……」
反射的にご主人様から押し付けられた紙袋を受け取るフェイは、
「マスター」
「何だい」
「本当に買い物だったんだ。俺のこと、捨てた訳じゃなくて」
「はあ? 何言ってんだい、フェイ。悪い夢でも見たかい?」
大量の花を机の上に広げながら、ユーリは「そんな訳ないだろう」とキッパリと言い放つ。
「アンタはアタシに死ねって言ってるのかい。アンタがいるから安全に迷宮区を踏破できるようになったってのに」
「そうかもしれないけど」
「けど、何だい」
「【鑑定眼】持ちの奴隷は、探せばいると思うよ。だって外れスキルだし」
フェイの持つ【鑑定眼】のスキルはいわゆる外れスキルとして有名で、物品の価値を見極める以外の使用方法が見当たらない。スキルを使っていけば鑑定できる物品の範囲も広がるが、それ以外の使い道がないのだ。
だが、ユーリ・エストハイムだけは違った。彼女のスキル【強欲の罪】は価値あるものを対価に捧げることで発動する万能スキルであり、フェイが片っ端から物品を鑑定してゴミさえも価値あるものと判断するからこそ、彼女は安定してスキルを発動できるのだ。
外れスキルの【鑑定眼】を持った奴隷なら、フェイ以外にもいる。探索経験がある奴隷だって探せばいくらでも見つかる。――いつでもフェイを切り捨てることは出来るのだ。
「分かってないねェ」
ユーリは呆れたように言い、
「アタシはアンタ以外の奴隷なんて必要ないよ。手放すつもりも毛頭ない。安心しな」
キッパリと断言したユーリは、赤い瞳でフェイを見据えると「いつまでボケッと立ってるつもりだい」と言う。
「とっとと明日の探索の準備をしてきな。それが終わったら香水の作成を手伝いな」
「さっきまで作ってたんじゃ……?」
「ちと凝っちまってねェ。他にも色々作ってみようと思ったのさ」
「うわ、凄い数の瓶が並んでる」
机の上にはいつのまにか大量の小瓶が並んでいて、どれも色が違う。虫除けの香水作りに嵌ってしまったのだろう。
何か、少し安心した。
やはりご主人様はご主人様だ。フェイの大切な、たった一人のご主人様。
命令された通りに明日の探索用の準備をし始めるフェイは、ユーリに捨てられないと断言されたことに安堵するのだった。




