第8話【一日の終わり】
「はあ、ようやくまともに帰ってこれたさね」
濡れた髪を浴布で乱暴に拭いながら、寝巻き姿のユーリが浴室から出てくる。
「迷宮区を長いこと彷徨っていたからな。ま――ユーリも疲れたろ」
「アンタ、また『マスター』って呼ぼうとしたんじゃないかい?」
「呼んでない」
お茶を淹れるフェイは、危うく「マスター」と呼んでしまいそうになったことを否定する。ユーリなら絶対に一〇〇ディールを容赦なく徴収してくると思う。
長椅子に荒々しく腰掛けたユーリは、やや水気を纏った腕をフェイに向かって「ん」と伸ばす。今淹れているお茶を早く寄越せ、と言っているのだろう。
彼女の要求通りに熱いお茶の入ったカップを渡せば、ユーリは「いい匂いじゃないかい」と言う。
「前にマスターと一緒に行ったお茶屋で買った茶葉だけど」
「一〇〇ディール」
「あ」
思わずマスターと呼んでしまった。
フェイは頭を抱える。
一〇年以上もこの呼び方だったのだ。今更呼び方を変えろと言われても、すぐには対応できない。
仕方なく約束通りにユーリへ罰金の一〇〇ディールを支払おうとすると、
「アンタは冗談さえも真面目に受け取るのかい」
「え、冗談?」
「冗談に決まっているさね」
お茶を啜りながらしれっとユーリは「マスター呼びした時は一〇〇ディールを徴収する」という罰金刑を冗談であることを明かす。
本気かどうか分からない冗談だった。ユーリは【強欲の罪】というスキルを持っているが故に、金には人一倍気にする性格なのだ。本当に徴収されてスキル貯蓄に回されるのかと思った。
一〇〇ディールを払わずに済んで安堵するフェイだが、
「代わりにマスターって呼んだらキスでもさせようかね」
「……それも冗談?」
「ンにゃ、これは本気さね」
絶対にマスター呼びを卒業しよう、とフェイは心に決める。
「フェイ」
ユーリの紅玉にも似た赤い瞳が、真っ直ぐにフェイを射抜く。
フェイが「何?」と短く応じれば、彼女は自分の隣をぽんぽんと叩く。隣に座れということなのだろう。
ユーリの指示に従って彼女の隣に腰を下ろせば、ユーリの手が乱暴にフェイの金髪を掻き混ぜた。その手つきにはいつもの優しさがあり、乱暴に見えてフェイの髪の感触を楽しんでいる様子だった。
「あーあ、アンタを奴隷に解放したから一緒に風呂へ入ってくれなくなっちまったねェ」
「そりゃユーリ、俺も男だし」
「男でも奴隷の時は入ってたろう」
「主人の命令に逆らうような性格をしてないんだよ、俺は」
ワシワシとフェイの頭を撫でるユーリは、
「じゃあ一緒には寝てくれるかい?」
「相変わらず夜が嫌いなんだな」
「アンタがいれば話は別さね」
お化けが嫌いで、ゾンビ系魔物が嫌いで、夜が怖い。
意外とこのご主人様――いいや相棒は可愛い一面があるのだ。そのことを指摘すると今度は殴られそうだから止めておこう。この思いはフェイだけの秘密だ。
声を押し殺して笑うフェイに、ユーリが何かを察知して唇を尖らせる、
「アンタ、何を考えているんだい」
「別に何も」
「何もって顔じゃないさね。言いな」
「嫌だ」
「ご主人様の命令が聞けないのかい」
「もうユーリは俺の相棒だから聞かない」
フェイがまだ奴隷の立場だったらご主人様であるユーリの命令に従っていただろうが、今やこの最強の探索者様はフェイの相棒である。
相棒ということは関係は対等だ。だから一つや二つぐらい秘密を持っていても拒否権が行使できる。奴隷から解放されて絶望すら味わったが、でも奴隷から解放されてよかったのかもしれない。
ずっと後ろからついて回るだけだったフェイは、ユーリ・エストハイムの隣に立つことに憧れていたのだ。
「ほらユーリ、一緒に寝るから機嫌直して」
「アンタは奴隷解放されてから可愛げがなくなったね」
「何言ってんだ、ユーリ。俺は男だから可愛くないぞ」
「可愛かったさ。アタシの後ろをついて回ってねェ」
不満げに唇を尖らせるユーリだったが、
「まあいいさね。明日も迷宮区探索さ、次の大迷宮を探さないとねェ」
「また【アビス】のように色々な迷宮区が重なったところはやだな」
「あんなのは稀さね、稀。大抵の場合はだだっ広くて難易度が上昇しただけの迷宮区と変わらないよ」
「そうなんだ、ユーリは相変わらず迷宮区に関しては物知りだなぁ」
空っぽになったお茶のカップをフェイに押しつけ、ユーリは欠伸をしながら寝室に向かう。もうすでに眠気も限界なのだろう、寝室に向かう足取りがかなり千鳥足気味になっていた。
フェイは台所に空っぽのカップを置いて、急いで寝室に駆け込む。
大きな寝台に腰掛けたユーリは、ぐらぐらと頭を揺らしていた。眠気を耐えているようだが、濡れた髪の毛をどうにかしなければならないと思っているのだろう。何度か腕が持ち上がるけれど、その度にパタリと寝台に落ちる。
フェイは浴室から新しい浴布を引っ掴んでくると、
「ユーリ、髪の毛拭くから」
「んー……」
ぽす、とフェイの胸板に額を押し当ててくるユーリ。このまま拭け、と彼女は告げているようだった。
「はいはい」
フェイは濡れたユーリの髪の毛に新しい浴布を被せ、丁寧に水気を拭き取る。時間が経過しているからか、彼女の銀髪はやや乾いている様子だった。
水気を拭き取り終え、銀髪に櫛を通したところでフェイは「よし」と頷く。完璧に仕上げてみせた自分の腕前を褒めてやりたい。
座ったまま眠るユーリの肩を叩き、
「ユーリ、ユーリ」
「んー……」
「眠いなら先に寝てろよ。俺は浴布を片付けてくるから」
「んいー……」
ユーリは眠い目を擦りながら、寝台の枕元に手を伸ばす。
そこにあるのは銀色の散弾銃だ。ふらふらとその重たい銀色の散弾銃を引っ掴むと、銃口をフェイに向けてきた。
まさか、とフェイは浴布を握りしめるが、
「一万ディール装填。《浴布を片付けろ》」
むにゃむにゃと寝ぼけながらスキルを発動させ、フェイの手から浴布が消失する。浴室の籠に片付けられたのだろうか?
「ふぇーい……」
「はいはい」
一緒に寝ろという相棒の我儘に肩を竦めたフェイは、広めの寝台に横たわる。空いた場所をポンと叩けば、ユーリも隣に寝転がった。
モゾモゾと寝転がりながら移動し、いつものようにフェイの胸板に擦り寄るユーリ。その甘えたな姿は迷宮区を探索する最強の探索者から判断できないほど可愛いものだった。
ユーリの綺麗な銀髪を撫でるフェイは、
「おやすみ、ユーリ」
「ん……おやすみ、ふぇい」
そうして、一日は終了する。
明日も明後日も、フェイとユーリは探索者だ。
この世に迷宮区が尽きない限り、どこまでもお宝を求めて神々に挑むのだ。
明日はどこの迷宮区に潜ろうか、などと考えながらフェイも瞳を閉じる。自然と眠気はすぐにやってきた。




