8 思わぬ知人
曳舟十三橋は亀有駅への道の途中にある。カズキが既に出してくれた奨学金書類の提出先は、その先のバス通りに面した事務所だと教えられている。チエはバスを降りて歩き始めたところだった。
「まてや」
イサヨの声だった。
「あんたに、錦糸高校へなんか行かせるかよ。」
「何のこと?」
チエは争いたくなかった。知らんふりをしてそのまま行こうとした。
「私らが知らないとでも思ってんのかよ。奨学金なんてお前にもったいないぜ」
「もう手続きは済んでいるわ」
「なにい」
「今日はお礼を言いに行こうと思っただけよ。でも迷惑になるなら帰るわ」
チエはイサヨらがいる道へは進まず、横道へ入りこんだ。
「まてよ」
すでにチエは走り出していた。イサヨたちと争わずにやり過ごしたかった。
横道を抜けると、目の前に白亜の教会堂が見える。そのお御堂の下に車庫の入り口が開いており、チエはそこへ急いで隠れこんだ。しばらくすると追いかけてきた女たちの大声が、外に響いている。
「あいつ、どこへいった?」
「チエの奴め」
この声が周りで聞こえている間は、この物陰から出ることはできない。
チエが座り込んでいるところから上へ、礼拝堂への階段がみえた。階段の上り口から、クリスマスの讃美歌の旋律が響いている。練習をしているのだろうか。チエはそっと大きなドアを開けて中をのぞくと、優しい旋律がしばしチエを包み込む。誰も聞いていないところで響く旋律は、祈りにも似たものになる。それゆえ、応える言葉があった。
「だれ?」
「すみません。少しここにいさせてくれませんか」
女の口調が柔らかくなった。
「どうしたの?」
「演奏を続けてくれませんか。その旋律の翼の下にかくまってくれませんか」
「翼の下に? 不思議な言い方をするのね。誰かに追われているの?」
「はい」
「ではここにいらっしゃい」
そのとき、チエには礼拝堂の祭壇から翼が広げられたように見えた。まるで窓に見える外の敵から、中の雛たちを守るように。
外の声が強くなった。
「この中じゃないの。ここの入り口の扉が開いている」
「そうだ、中に入り込んでいるに違いないわ」
「チエ! いるんだろ」
「出てこねえとひきずりだすよ」
教会堂の下から呪いのようなイサヨの声が響いた。その意味を理解したかのように、讃美歌が突然やんだ。演唱していた女が急に立ち上がり、言葉を発しながら礼拝堂から下へ駆け下りていく。
「ここは聖なる土地。土足で踏み込む場所ではないですよ」
「ここの人? 女子中学生がここにいるんだろ」
「確かにいるわよ」
「じゃあ、はいらせてもらうよ」
中に入り込んだイサヨは、祭壇の隅にうずくまっていたチエを引きずり出した。
「この女、私たちに散々苦労させやがって」
「わたし、わたし、なんにもしていない」
「いるだけで、しゃべるだけで、呼吸しているだけでうざいんだよ。だから締めてやるのさ」
「わたし、なんにもしていないのに」
チエが『助けて』という声にならない心の叫びを祭壇にぶつけた時だった。新たな翼がチエを覆い尽くした。その光を反射したように見えた女が彼らを押しとどめた。
「まちなさい」
「なんだよ。邪魔すんなよ。ばばあ」
「あなたたち、女子中学生ね。制服から見ると亀有中じゃないわね。南綾瀬中?」
イサヨたちは、このあたりでは制服が知られていないだろうとタカをくくっていた。それが図星を刺され動揺を隠せなかった。
「そうだよ・・・。それがどうしたんだよ」
「そう・・・・・。私、貴女達の中で片親の生徒さんたち、親のない生徒さん達がいるでしょ? その生徒さんたちのために働いているのだけれど。運動会や入学式、卒業式に呼ばれているから、あなたたちと会ったことがあるかもしれないわね」
「なんだよそれ」
「あなたたち、高校進学のための樹海奨学金、知っているわよね。私さんざん名前を言って宣伝しているから…」
イサヨが目を伏せた。女がそれを目ざとく見つけ、畳みかけた。
「貴女も利用する予定なんでしょ。写真であなたの顔を見たことがあるわ」
「そうだよ」
イサヨはあきらめていない。こういう時に悪知恵の良く働く少女だった。
「あたしも樹海奨学金を利用することになっているわよ。あたしらが受ける奨学金は大切なものさ。その女、チエみたいな女が利用しちゃ大切な奨学金をけがすことになるわ。だから、利用をやめさせているのさ」
「やっぱりね。貴女たちもあの奨学金を利用するのね」
「おばさん、樹海奨学金の事務員なのかよ」
「そうね。正確にいうと、私が作った奨学金制度よ」
イサヨは少しばかり驚いている。それでも悪知恵がまだ働いている。
「それなら、そのチエに奨学金を貸しちゃだめだ」
女はそのことばをききながしてチエのほうを振る向いた。
「あなた、チエさんというの? 名字は?」
「平です。」
女は一瞬驚いた顔をした。しかし、イサヨに向けた顔は静かな笑顔に戻っていた。
「この子は平チエというのね」
「そうだよ」
イサヨは、「このおばさんは何を言い始めているんだ」といぶかし気に返事をした。
「私ね、このチエさんに恩があるのよ。それも、返しきれない恩が・・」
「なんだよ。それ」
「もう決めたわ」
「奨学金をその女、チエに貸すのか」
「いいえ、貸すわけではないわ」
一瞬の間が開いた。イサヨは勝ち誇ったような顔をし、チエはあきらめの表情を浮かべている。
「返してもらうつもりのない奨学金を、彼女にあげるのよ。」
そういうと、女はチエを見つめていった。
「久しぶりね。チエちゃん。私、林マサヨ」
「え?」
そして、イサヨたちを振り返ると言葉遣いが変わった。
「この奨学金はね、もともとこの子のために作ったものなの。この子に道を開くためのものなのよ。あんたらもこの奨学金を利用するみたいだけど、あんたらはおまけなのよ。」
「・・・」
「さあ、帰った帰った。帰らねえか。しまいには奨学金をストップするよ」