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7 親心の残照

  朝になっても母親は、帰ってこなかった。

  チエは、この日の朝も一人で朝の支度をしている。狭い部屋に敷かれた寝具をたたみ、掃除をし、朝餉の支度をし、帰ってくるであろう母の朝食も整え、身支度を済ます。三年生の二学期となり、残り半年もたてば卒業になるなら、こんな朝の準備も近い将来変わるだろうか。


「ねえ、お母さん…、食費が無くなっているんだけど」

「うるせえな。あたしは食べて帰るからいらねえよ」

「そうじゃなくて、私が食べる朝と晩の食材がもう買えなくて…だから、お金くれないかな」

「給食で食べて来いと言っているだろうが、なんで朝飯と晩飯も食べるんだよ」

「でも、夏休みは給食がないのに食費もくれなかった・・・・。」

「しらないよ」

「でも食べないと死んじゃう・・。」

「じゃあ、死ねよ」

 最近、母親のテルミはチエに問い詰められるようになった。すると、テルミはきまって死ねという呪いの言葉を吐く。それを天が聞いていることを知らないのだろうか。このままではこの母親は早々と命を取られて地獄へ落とされてしまうと、チエは心配した。


 そんなことをぼんやり思い出しながら、アパートを出たところだった。そのチエをめがけて警官が二人向かってくる。こんなボロアパートに住んでいる私に何の用があるのだろうか。

たいらチエさんですね。」

「な、なんですか。私何にも悪いことなんかしないですよ」

 そういうと二人の警官は少し表情が和らいだ。

「いや、そういうことではありません」

 そのあとの彼らの言葉は、チエに複雑な思いをさせた。

「あなたのお母様が、誰かに押されるようにして車道に飛び出し、はねられたんです。今は病院へ運ばれました。頭部骨折の重体です。事件性があるため私たちが来たのです。すぐご同行願えますか」

「あの、少し待ってもらえますか。入院用の準備をすぐ済ませますから」

 チエは足早に取って返すと、台所やタンスを行き来しながら洗面用具やパジャマなどの用意を手早く済ませ、アパートを出た。


 ・・・・・・・


 病院の地下待合室では、青白い光がシーツを照らす。周囲の乾燥した空気は冷たく光っている。しかし、奥の霊安室には光が届いていない。その暗がりの中で、チエは母親の無言の姿に呆然としていた。

 人の命はあっけない。誰かに押されたように車道にとび出したというが、母親の後ろに誰もいなかったという。何か恐ろしい力がそこに働いているとしか感じられなかった。

 あまり話すことのなかった母親は、永遠に話すことのない姿になってしまった。毎日朝帰りで食事の用意をしてもらったこともない。服を見立ててもらったこともない。料理やお菓子作りを教えてもらったこともない。ろくに褒めてもらったこともない。ただヒステリーと気分でわめき散らすから、ご機嫌を取らねばならない相手であった。それでも、この人は母親だった。

 確かに束縛から解放されたのだろう。虐待と無視。そんな苦しみはこれからなくなる。同時に孤独が始まっていた。目の前が行く手が見えなかった。チエは、自分が、羽の擦り切れた、天敵からさえも見捨てられてしまった虫けら、消されてしまうだけのつまらない虫けらのように感じられた。

「苦しみがなくなっても、また別の苦しみが来たわ。なぜ、いつまで苦しまなければならないの? やっぱり私は生きていちゃいけない。消えてなくなりたい。そうすればこの苦しみから逃れられるから…」

 チエの足元の影が黄土に染まった。衆羅だった。

「そうだ、お前は虫けらだ。生きることにこだわる必要もない。我にその身を任せよ。さすれば、生きることをめられる…」

 この呼びかけは今のチエにぴったりだった。そうチエが思った時、そのしわ枯れ声の横から、ユウトに似た声が聞こえた。

「下がれ、衆羅。チエ、意識をしっかりせよ」

 その声と同時に、頭上を蒼い影が覆った。

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神 わたしが、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにいる」

「私の命はどうでもいい命です。それなのに『雄々しくあれ、強くあれ』『生きろ』と言うのですか。生きていてもいいことはないじゃないですか。それでも『生きろ』と命じるのですか。なぜ生きろと命じるのですか。貴方が生きろと命じても、私にはもうその力がないのです。どうやって生きろというのですか。苦しみに耐えろ、耐え続けろというのですか。それができなくなっているのに。それほどに私はみすぼらしく、価値のない、力のない、汚い虫なのです。もし生きろというなら、せめて、この際限のない苦しみから助けてくれますか。そんなこと、できっこないでしょ」

 蒼い影はチエの叫びに明らかに反応していた。まるで通常の人間のように、チエに相対して動揺していた。彼は、反発するチエをあくまで優しく覆い庇うように蒼いオーラを広げ、チエの両肩に手のひらを置いた。

「わたしが今、貴女を助ける」

 その言葉がチエの大人びた幼い心を満たした。そして、次から次へと言葉が続いた。

「わたしはあなたの神。あなたの右の手を固く取って言う『恐れるな、わたしはあなたを助ける』

 恐れるな、虫けらのようなチエよ、わたしがあなたを助ける」

 ついには、幻の中の大きな祭壇からも差し翳される蒼い翼が見えた。それは御使。そこから走り追ってきた男が、チエの周りにへばりついている黄土の衆羅を圧倒し吹きとばしていた。名前こそ知らないものの、チエにとってはどこかでなじみのある青いオーラの男。彼が壮大な光の玉座を背景にして、立っていた。

 その幻は一瞬だった。


 ・・・・・・・・・・・・・・


「お母さん、あまりあなたを育ててくれなかったのね」

「・・・」

「家の中を確認させてもらったけど、どこにも食品を買ってないし、冷蔵庫の中は何もないし、冷蔵庫自身のスイッチも切っちゃってあったね。これでよくあなたが育ってきたわね」

「母の悪口ですか」

 チエは児童相談所の職員に反感を持った。

「いやいやそういうわけではないんだけど」

「私には話すことはありません。」

「でも、あなた、この家に住み続けることはできないのよ。」

「わかっています」

「そう、それならね。これから大変になっちゃったけど。・・あなたが大人になるまで支えてあげる。私たちが何とかしてあげる。それが私たちの組織と制度なのよ」

「『なんとかしてあげる』? 何それ? なんとかしてどうするのよ。生きろって命令するの? どうでもいい命じゃないですか」

「命は大切なものよ」

「私の命だもの、好きにするさ。それなのに、偉そうに指導するわけ?」

 チエは聞く耳を持たなかった。それは無理なことだった。もともと他人の大人たちからの言葉は、そんな程度の言葉だった。児童相談所の職員は親切で優しい女性なのだろうが・・・親ではない。それでも、チエに対して一生懸命に対応してくれたのだ、とチエは考えなおした。ただ、結果は引き取り手のない孤独な道しかなかった。たぶん、チエには多くの人の手が差し伸べられているのだろう。しかし、チエにはまだそれが見えなかった。

 それでも、チエは様々な導きと助けによって、足立にある施設から南綾瀬中学へ通うことになった。


 ・・・・・・・・・・・・・・・


 チエは通学の際、亀有駅の北口から南口へ高架下通路を通過するようになった。そこから浅草寿町行きバスで南綾瀬中学へと向かう。


 この日チエがバス停を降りると、カズキが学校へ向かう姿が見えた。

「おはよう」

 カズキは言った。この前のことがあるので、チエは半分引き気味である。

「あの、たいらさん、あの人と、どんな関係なの?」

「えっ。私、あの人のことあまり知らない。名前も知らないし」

「え、知り合いじゃないの? あっ、タクヤさん・・あの・・・、チエを抑えていた暴走族のひと・・・から聞いたんだ」

 チエにとってカズキが話しかけてくるのは迷惑だった。

「私、暴走族なんて知り合いいないし…。」

「でも、あの人、ただ者じゃないらしいよ」

 チエは、特攻服のユウトを思い出した。同時に白蛇腹の錦糸高校の生徒だというオートバイの男子も。なぜ二人同時に思い出したのか、チエにはわからなかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 カズキがたしなめるようになってから、クラスでチエに手を出す男子はいなくなった。ただ、イサヨたちは依然としてチエに対する嫌がらせを続けている。

「イサヨ、お前らもうやめろよ」

「何、それ。いいかっこしいだね」

「格好の問題じゃねえよ。あのユウトさんがくぎを刺していたじゃねえか」

「それがどうしたんだよ。人に言われて止めるような根性なしじゃねえ。チエはは生きていちゃあいけないんだよ。死んでくれないかな」

「何言っているんだよ」

「何もかも諦めて死んじまえって言っているんだよ」

「お前ら、きっと反撃を食らうぜ。それもちっぽけなチエからじゃねえ。もっと大きな奴からな」

「だから、どうしたんだよ。そんな事怖くてやっていられるかよ」

 イサヨたちの仕打ちは無くならなかった。


 相変わらず物が無くなる仕打ちは続いていた。陰湿さはイサヨたちそのままだった。それでもチエは黙っていた。受験をこなし難関の錦糸高校に進学してしまえば、イサヨたちとも別れを告げられる。その思いがチエの支えだった。


 ・・・・・・・・・・・・・・・


 錦糸高校をはじめ、高等学校の入学試験は、中学三年生の三学期二月中旬にある。各高校はその日程にむけて、二学期の中ごろから「進学相談」という場を設けている。各高校にとって優れた生徒を集めるためであり、受験する中学生にとってはなるべく確実に合格を勝ち取れる場となる。

 チエもそのために進学相談の場に出かけた。錦糸高校ばかりでなく、多くの都内公私立高校が相談者を設けている。周りは揃って親子連れ。その一角に錦糸高校の教師と一人の生徒が出張ってきていた。ただ、チエは付き添いがなく、一人だけだった。

「すみません。特待生コースをお願いしたいのですけれど」

「お待たせしました。保護者の方は?」

「私一人で来ました」

「そう? それだと込み入った話ができないけど…」

「特待生となるためにはどうしたらいいのか教えていただけませんか」

「偏差値を示していただけますか」

「これでしょうか」

 チエは中学で定期的に行われた実力テストの成績を差し出した。

「国数英で75。五教科でも75。数学だけが80なの? なかなかすごいですね。これなら入学金と授業料が実質ゼロの特待生になれます。クラスは特進選抜ですね」

「特待生? 私でも入学できますか」

「それには、保護者の方と一緒に相談をしたいのですが・・・。あの机に来ていただきたいのですが…」

「保護者と、ですか? 私には両親がいないので・・・・」

「修学旅行とスキー旅行と言うのがあってね。その積立が必要なんです」

 その教師の説明では、毎月の積立金の支払きがあるという。とても払えるものではなかった。

「積立金・・・・。わかりました」


 次の朝、チエは施設のベッドから起きることができなかった。

 施設長の安西さんがさっきからチエの顔を覗き込んでいる。

「昨日、進学相談会に行ってきたんだね」

 チエは無言だった。

「何か良くない話を聞いたんだね」

「もういいんです」

「よくないよ」

「あそこは学区の中で一番の高校だから、行きたかったんです・・・。」

 チエは「あの高校には先輩がいるから」とは言えなかった。

「それに、あの高校には、入学金免除の特待生制度があると言うので・・・」

「そうしたら、旅行の積立は必要だって・・・」

 訥々というチエの説明に、安西さんは黙って聞き入っている。

「積立金か・・・。」

 安西さんは、すべてを察したようになかなか口を開かなかった。

「でも、行きたいものな」

 チエは無言のままだった。そして、安西さんも無言のまま部屋から出ていった。チエには道が開かれないように見えた。


「起きよ」

 向こうを向いた蒼いオーラの御使い、彼から伝えられるこの疑似声音は何度目なのだろうか。ただ、短い言葉だった。しかし、彼の右手がチエの髪をなでる幻が繰り返される。

「私にはお金がありません」

「どうしろというのですか」

「何をしたらいいか、なぜ教えてくれないのですか」

「わたしにはわかりません」

「私はどうせ・・・」

 皆がいなくなった共同寝室のベッドの中で、チエは一人繰り返した。さっき声をかけてきた疑似声音の(ぬし)が、傍で聴いているはずだと思って、わがままのように訴え続けた。

「こんな小さな私に何をしろというのですか」

 答えはもうなかった。いくら待っても、もう答えはなかった。チエはようやく身を起こし、中学へ登校していった。成績を落とすわけにはいかなかったから。


 夕暮れの時はとうに過ぎ、まだ窓を開けて残照の外を見た。秋の風。これが木枯らしになる頃、もうチエの今後は断たれるだろう。それがチエの心を怯ませ、悔しがらせた。下を向くチエの視界には、生徒たちの姿も絶えた校庭が映る。虚な目はそのどれも観てはいなかった。

 暗い中に、残照を反射する人影があった。カズキ。彼が校庭からチエを見上げていた。先ほどからチエに手を振っていたのだが、チエは無表情。いや、気がついていなかった。

「平(たいら」さーん」

 カズキが大声をあげると、チエは我に帰ったようにカズキに目を合わせた。

「奨学金があるんだぜ。俺、事務員の青田さんから聞いたんだ。親のない高校生のための奨学金があるんだ。職員室に青田さんが資料を持って待っててくれているよ」

「小久保君、ありがとう」

 南綾瀬中の職員室は、二階廊下をおれたところ。いまなら教師に会うこともないだろう。そうでなければ、チエにとってあまり行きたくないところだ。

「あのう、青田さんいらっしゃいますか。申請書をいただきたいです。」

 中に入ると、事務員の青田さんが声をかけてきた。

「カズキが話してくれたよ。おととい、進学相談会に行ったんだって? 錦糸高校を希望しいるんだってね? すごいなあ。そうそう、これが樹海奨学金の書類だよ。」

「樹海奨学金」

 変わった名前だった。それが親のない地元中学生のための有志による奨学金。それは名も知らぬ、しかし豊かに注いでくれる心のあふれる思い。それがチエの背中をおす。まるで門出の子供を力づける親のような手だった。

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