6 超速の騎士
南綾瀬中学のプールに、まだ波が残っている。夏休みの水泳教室が先ほど終わったばかりだった。
「中村さん、なにをするのよ」
「騒ぐんじゃないよ」
「放して!」
「うっせえ。ここまで来たら実力を行使してやる。イキガルやつには、徹底的に思い知らせてやらねえとな」
プールに大きな水しぶきとともに大きな波紋が広がる。イサヨたちクラスメートの一団が、チエをプールへと突き落としていた。
「じゃあね」
チエを放り込んだ少女たちは、プールの中のチエを嘲笑しながら帰っていく。チエはそれを見送ってから、やっとのことでプールサイドへ。彼女は水を滴らせながらはい上がった。ブラウス、スカートはぬれたうえに脇の部分が破られている。下着やブラが見える状態では帰れなかった。
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今日は夏休みの第一日目。水泳教室が開催され、チエも一日目から参加している。
「まずバタ足。続けて…。」
南綾瀬中学では、スポーツが盛んだった。この地域でも、スポーツのできる奴は一目置かれている。体育教師たちも、生徒全員に等しく厳しく丁寧に指導してくれる。できない者たちには付き添い、できるまで指導していく。それゆえ、運動のあまり得意で無いチエも、ある程度のスポーツをこなせるように指導されていた。つまり、居残りの指導がある。
今日の水泳教室でも、チエには居残りの指導があり、プールから上がるのは一番最後だった。
練習後の更衣室。もう誰もいない。
「ああ、やっと終わった。」
チエは疲れ切った足を引きずり、ロッカーへ向かった。見つけたのは、開いているロッカーのドア。鍵は掛けたはずなのに…。悪い予感がした。やはり、チエの制服が見当たらなかった。
校舎にはまだ体操服が残っているはず。チエはそう思って、渡り廊下から自分の教室へ。確かにまだ、体操服の入ったカバンは置いてあった。
背後にガタリという音。それは、駆け込んできたカズキたちだった。
「小久保君、なに?」
水着のままだったチエは、カズキたちを警戒した。名前を呼ばれたカズキは、睨むチエの視線を避けるように目を伏せた。
「よこせよ」
「何をするの?」
彼らは力づくでカバンを奪い、走り去っていった。
体操服を奪われてしまっては制服を探すしかなかった。仕方なく更衣室に戻ると、プールに制服が投げ入れられている。それを救い上げ、水着から濡れた制服に着替えた…。着る前まではわからなかったのだが、制服のサイドが切り取られている。脇から下着が見え見えになってしまう。明るい今は、とても表に出られるような状態ではなかった。
「ここにいたのね。まだまだ終わらないよ」
更衣室に入ってきたのは、イサヨたちだった。
「やめてよ」
彼女らは、容赦なくチエを羽交い絞めにしながらプールサイドへと引きずり出した。
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水から上がったチエは、プールサイドの暗がりでひたすら暗くなるのを待った。学校の周りの喧騒もそろそろ聞こえなくなっている。更衣室から周りの様子をうかがいながら、薄暗い工程を横切り、校門へ。よかった、予想通り外は誰もいない。チエはそのまま家路を急いだ。右手には町工場と駐車場が続く。左手にはいつも無人の公園。今のうちに・・のはずだったのだが……。
暗い公園から出てきたのは、カズキとイサヨたち男女のクラスメートたち。彼らが今までの仕打ちを仕組んだのは間違いなかった。待ち伏せをして今日の、いや、今までの総仕上げをしようというのだろうか。
「ずいぶん遅いお帰りだね。」
「へえ、楽しい格好をしているね。」
チエはハッとして胸と腰を手で隠す格好をした。
「罰だよ。もっと恥ずかしい格好にしてやるよ」
チエは黙って後ろへ下がった。するとチエを逃がさないようにクラスメートが囲む。
「逃がすかよ」
イサヨが目で合図をすると、皆がチエの周りに殺到する。ある者は制服の中に手を入れ、ある者は脱がせようとした。
「やめてよ。そんなことをされるなら、いっそ殺して・・・」
彼らはやめようとはしない。
「誰か助けて・・・・」
・・・・・・
「彼女を追い込み、人生をあきらめさせようとするとは。この所業、許されぬものと知れ」
御使いの声が、怒りのあまりにその青い髪と翼を揺らす。黄土の衆羅が慌てたように御使いへ振り返った。
「くそ、始めるのがおそかったか」
「そうだ、彼女のために用意された天の配剤が、今ここから効き始めるところだ。下がれサタン、お前の勝利はどこにもなくなるだろう」
「いや、まだだ、まだだ・・・。お前たちこそサタンというべきものたちぞ。勝利は俺たちのものだ」
しかし、御使いの目の前から、黄土の衆羅は吹き消されていく。
・・・・・・
チエの叫びに呼応する地響き。思いがけなく太いエンジン音が響いた。ゼッツーにまたがった横分けヘアの男子高校生、海軍士官のような白蛇腹の男子がそのオートバイから降り立った。
「お前ら何をしているんだ」
「うるせえ。引っ込んでろ」
振り返った女がユウトをにらみつける。偉そうな態度だ。
チエは泣きじゃくっているにもかかわらず、周りの生徒たちはまだ彼女をむしり続けている。漂っていたはずの彼女の品格がすべてズタズタに、無力感の断片に切り刻まれ、流されている涙は心から流れ出る血潮に見える。ユウトの中で何かがブチぎれた。
「お前ら・・・・やめろ」
ユウトのドスの効いた声に、彼らは無言のまま手を止めた。ずり下がりながらも彼らの目はオートバイの男をにらみつけている。
「お前ら、南綾瀬中だよな。俺もそこの卒業生だぜ。とはいっても、卒業前は目立ってなかったがよ。この春先から、オートバイに乗ってこのあたりを走っているんだぜ。制服見ればわかるよな。俺は錦糸高校の生徒だ」
「何よ、この人、変な奴。カッコつけてんの」
「へえ、トップの進学校へ行った卒業生だからって、先輩風をふかしているつもりかよ」
イサヨもカズキもほかのクラスメートも最初こそ驚いていたが、単にかっこをつけた高校生が一人だけだと気が付いて、数に任せた勢いで言葉を発していた。
「言葉だけではわからねえらしいな」
そういうと、ユウトの眼光は鋭さを増した。ユウトの目に、チエの服装の乱れ、上下の下着があらわになっている。
「お前ら、同級生に何てことしやがるんだ。単なるいじめじゃ済まさないぜ。強制わいせつの現行犯だからな。俺でも逮捕できるんだぜ」
「うるせえな。勉強ができますよって言いたいのかよ」
「そうか、これだけ言っても分かってもらえないらしいな。これからぶちのめすから、覚悟しな」
カズキも含めてクラスメートの皆は、凄みの利いた声とその眼光の睨みに、初めてひるみを見せた。
「わ、わかったよ。まだなにもしてねえよ。みんないこうぜ。」
彼らは逃げていった。
ユウトは制服の上着を脱ぐとチエにかぶせ、ゼッツーに導いた。
「送ってやる。」
ユウトからはすでにあの眼光も声のすごみも消えている。
「いいんですか。こんなことしてもらって・・・」
「気にするな」
彼はチエを後ろに跨がせると、ゼッツーは軽やかに加速していく。
「あのお風呂屋さんの向こうです」
チエは自分のみすぼらしいアパートを見られたくなかった。
「その格好じゃ、恥ずかしいだろ。玄関まで送ってあげるよ」
言葉遣いが丁寧になっている。チエはそう思った。
「もう、ここで・・・・玄関はないんです」
「玄関がない?」
「入口なら、ここから裏手なんです。恥ずかしいから、もうここで……」
「いや、まだだ。安全を見極めないと」
「入り口はもう、そこです」
「わかった。入口まではガードしてやる」
チエのアパートは路地をいくつも曲がった一番奥の古い木造。屋根の瓦は一部が剥がれ、窓ガラスは割れたまま。チエはそのアパートを見られたくなかった。
もうすぐアパートが見えるその前で、チエは降り立った。今の気持ちをごまかすように、立ち止まってユウトを振り返った。
「今日は、ありがとうございました」
「なに、大したことはやっていないから」
「私、錦糸高校を受けようと思います」
「そうなのか。ここの学区では一番難しいところだぜ」
「ええ、知ってます。私には勉強をするぐらいしか、能のないブスなんです」
ユウトはバイク上でしがみついていたチエの体幹を思い出していた。
「そんなことないさ。可愛いしたっぷり魅力はあるぜ」
その言葉は、チエの顔にさっと赤みを刺し、俯かせた。
「あの、先輩って呼んでいいですか」
「えっ、ああ。いいさ」
チエはユウトを見上げる。その視線には何かの覚悟が秘められている。それを受け止めたユウトは初めてチエの顔を見つめた。
「私、先輩のことしか『先輩』と呼びませんから」
「俺みたいな男を、か?。そうか、待っているよ、錦糸高校で」
チエはその言葉を心の奥深くに刻んだ。ユウトはそのチエの心の動きが自分の心に共鳴していることを感じとっている。
「ありがとうございました」
裏手に上がり口のあるだけの古い木造アパート。チエはちょこんとお辞儀をすると、脱いだ靴を持って奥へ消えて行った。ユウトは初めてそんな貧しい住まいを見た。
・・・・・
一週間後の水泳教室は最終日。生徒たちはみな終わっているのだが、チエはやはり一番後だった。
制服はあった。しかし、苦労してやっと縫い合わせた脇の縫い目が、また切り裂かれている。周りを見回したが、今日は人の気配がない。
今夜は新月で外は真っ暗だった。学校の周りの喧騒も消えている。今夜は暗くなれば、恥ずかしい恰好を誰にも見られずに帰れる。そう思って更衣室の隅で座り込んだ。
時計は夜九時半を回り、暗闇があたりを支配する。校門の外は誰もいなかった。チエはそのまま家路を急いだ。こうしてまた無人の公園を急いで通り過ぎようとした・・はずが。
また待ち伏せている奴らがいた。暗い人影が公園のトイレから出てきた。ただし、彼らはクラスメートではなく暴走族たちだった。
「おお、その恰好、俺たちを誘っているじゃねえか」
「じゃあ、あそんでくれ。」
「いやよ」
そう言ってチエは逃げだそうとした。特攻服の一人がチエの右腕を捕まえ、ほかの一人が左の二の腕をつかんだ。
「いや、やめて・・・。またあんな目に合うなら、もう殺して・・・・」
もう一人の男がチエの顔を捕らえる。チエは両手を抑えられ、泣きながら小さくつぶやいた。ついには男たちが笑いながらチエの制服の中に手を入れた時・・・。ユウトが通りかかった。彼が見たのは、再びのチエの絶望。再び繰り返されているチエの血の涙と無力感だった。
「おう、お前ら、待てや」
ユウトは、この日にまた同じ仕打ちがチエを待っているものと予想していた。今夜は杖と白蛇の描かれた特攻服で帰ろう。ワルの勘がそう告げていた。しかし、こうも予想が当たると怒りが余計に強くなる。
こうしてちょうど、特攻服のユウトが通りかかった。ユウトは押さえつけられているチエを一瞥しながら周りを睥睨した。チエは見知らぬ特攻服の男に恐怖を感じ、怖い暴走族に加えて、さらに怖いものが現れたと絶望した。しかし・・・。
「そこの女の子、俺の知り合いだ。」
ユウトは周りをもう一度にらみつけた。
「なんだ、おめえはよ」
「おめえたち、何してんだよ。それ、俺のダチだからな」
「おめえこそ、そのまま帰ったほうがいいぜ。」
「そうだな。その少女をいただいて帰るよ」
ユウトはそう言いながら、チエと彼女をつかんでいる男たちに近づいて言った。
「おめえタクヤじゃねえのか。」
「なんで俺の名前をお前が知っているんだよ。」
「俺だからだよ。」
ユウトがヘルメットをとると、オールバックヘアのユウトを見てタクヤの顔がひきつった。
「や、やべえ。」
ユウトの目にむき出しのチエの下着が映った。それがユウトの逆鱗に触れた。
「タクヤ、お前ら…何をした・・・・・。この子の服がボロボロじゃねえか・・・・・。この子に・・・・お め え ら 何をした?」
憤怒に燃えた目は、チエを取り囲むタクヤたちをにらみつける。ユウトはその怒りでチエを守ろうとするかのように、撒いていた大きな白マフラーでチエを覆った。
「・・・」
「おめえ、足立のタクヤ、もう手を出さねえという約束だよな。こんなことしやがって、おめえらがやったんだな・・・・。覚悟しろよ、無事じゃあ済まさねえぞ」
「ひい」
タクヤたちが悲鳴を上げる。チエはたまらず声をかけた。
「あ、あの。この服は学校でボロボロにされたんで。あの人たちのせいではないんです。」
タクヤはその言葉に乗っかって言い訳をした。
「俺たち、頼まれてただこの女を囲めばいいから、と言われただけなんで・・・・。」
「このおんな?」
「いえ、このひと・・・」
「こいつらの言っている通りなのか」
「ええ」
チエはそう答えた。体温で暖められた白マフラーからの匂い。チエをかばい立つ男の匂いがチエの鼻をくすぐる。ちょうど一週間前に助けてくれた白蛇腹の高校生と同じ匂い。チエはまさかと思いつつ、ユウトの顔を見上げた。だがヘアスタイルの違いから、同じ人物であるはずもないとは思った。
「わかった・・・。それならお前らに頼んだ奴らをここに連れて来いよ」
タクヤたちは近くに隠れていたチエのクラスメートたち、イサヨとカズキたちを引きずり出した。ユウトは彼らを一瞥していった。
「お前ら、この子に何度もこんな悪さをしているみてえだな」
「そんなことはありません。今日が初めてでして」
「そんなことはねえだろ。ちょうど一週間前もこんなことをしたんじゃねえのか」
「なぜわかったんですか」
「ばかやろう。お前らは、一度痛い目にあっても分からねえって顔しているからだよ」
「すみません。もうしません」
チエはもう大ごとにはしたくなかった。怒りに我を忘れているユウトをなだめようと、特攻服を懸命に引っ張り続けている。
「もういいんです」
「え、そんなわけねえだろ。こいつら徹底的にぶちのめして…」
「でも、私なんかのためにそんなことをしたら・・・・」
「あんた、散々嫌な目に遭っているんだろ。それなのに、始末をつけねえと……」
「お頼みします。あの人達を許してあげて…」
ユウトは後ろで自分をなだめようとするこの娘が哀れに見えた。大ごとにしたくない、ワル目立ちたくないというだけではなさそうだ。彼女は敵であってもその痛みを自分の痛みに重ねてしまう心を持っている。
「あんたがそう言うなら、そういうことにしておいてやろう。ただ、悪巧みをしたお前らの名前を教えろ」
「はい、カズキといいます。平チエのクラスメートです」
「誰だよ。平チエってえのは」
「わたしです」
「あんたの名前か? 何だ、俺を前にして彼女の名前を呼び捨てにしているのかよ」
「平チエさんの…です」
イサヨは、悔しさのあまりチエをまだにらみつけている。
「私は…いわないよ」
「名前を言えよ」
「いわないよ。なんでこいつのために私が名前を言わなきゃならないんだよ」
「なんだと」
ユウトは激しい怒りを発した。
「へえ、女のあたしをぶちのめすのかよ」
「俺は、この子をこんな目に合わせたことが許せねえんだぜ。何なら今現行犯で逮捕するってえことでどうだい? 暴走族だからって、警察を敵視しているばかりじゃあねえんだぜ」
「わかったわよ。私は中村イサヨよ・・・」
「よし!わかった。じゃあ、おめえら、クラスメートならこの子を大切にしろよ。このチエって子は俺のダチだからな。金輪際手を出すなよ。いいな」
ぎろりとにらみつける眼光は、特攻服のきらめきと相まって鋭い閃きを発していた。
彼らが退散していくと、ユウトはチエをゼッツーにまたがらせてアパートまで送っていった。
「送ってやる。」
「いいんですか。こんなことしてもらって・・・」
「気にするな」
彼はチエを後ろに跨がせると、ゼッツーは軽やかに加速していく。ちょうど一週間前と同じ超速の加速感だった。
「あのお風呂屋さんの向こうです。」
「わかった。その格好じゃ恥ずかしいだろ。確か、玄関がねえんだろ。入口まで送ってやるよ。」
この人も言葉遣いが丁寧になっている。玄関がないことも知っているみたい。チエはそう思った。
「もう、ここで。」
「いや、入口まではガードしてやる」
この暴走族の男は、どこの入口をめざしているのだろうか。そう考えているうちに、男は教えてもいない一番奥のアパートの入り口へ、何のためらいもなく進んでいく。
「このオートバイ、一週間前と同じ・・・・。この人、一週間前の海軍士官みたいな人と同じ人じゃないの?」