4 反感と孤立
もう三学期も終わる早春の朝。昨夜も母テルミは帰ってこなかった。
もうすぐ中三のチエは一人で朝の支度をしている。狭い部屋に敷かれた寝具をたたみ、掃除をし、朝餉の支度をし、帰ってくるであろう母の朝食も整え、身支度を済ます。こうして今日も南綾瀬中学へとアパートを出ていく。
目の前の水路を超えると大地主、根本家の屋敷の前を通る。この水路も昔はきれいだった。葛西用水から取り入れられた水が、めぐりめぐって流れてきている。流れ来た水はそのまま周囲に残るいくつかの水田へとめぐり、また水路へ、綾瀬川へと流れていく。その先は海へ。チエはその戻ることのない流れを見るのが好きだった。
アヤメ幼稚園の脇を過ぎると、もうすぐ校舎が見える。校舎は水路沿いに建てられた三階建て。建てられたばかりのころの鮮やかな色は失われ、一部が地盤沈下で低くなっている。その横にはプールと体育館、そして校庭の東端には園芸部の畑地がひろがる。始業の鐘にはまだ時間があって、校庭中に男女の群れがいくつもできていた。ある者たちはボールで遊び、ある者たちは談笑している。
チエもこの一年間の間、始業時間ぎりぎりまで校庭で時間をつぶしている。それには訳があった。
「平だ。平が来たぞ。」
チエが始業時間ぎりぎりに教室に駆け込むと、この日も男子の小久保カズキが声をあげた。いやな掛け声だ。
「きったねえ制服!」
制服も洗濯するのだが、洗剤をろくに使わせて貰えない。アイロンもろくに使えないので、ヨレヨレのみすぼらしいものになってしまう。カズキは目ざとくそれをからかう。
「おい、こっちには来るな。」
「平菌がうつるわ。」
カズキの声に呼応するように中村イサヨたちクラス中が牽制してくる。チエはキッと目を上げてにらむのだが、みな薄ら笑いを浮かべながら逃げていく。この仕打ちは一学期の初め以来一年間続けられてきた毎日のこと。チエはずっと自分を殺して生きてきた。いまさらどうしようもなかった。
「誰か、助けて。でも誰にもこんなことを言えない。もう、耐えられない。生きることを止めたい」
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二年生の一学期も七月の初旬、チエはカズキを追い詰めたことがあった。カズキがチエよりは小さな男だったからだろうか。
「な、なんだよ。」
その男は虚勢を張って周りに目を泳がせる。助けを求める目だ。チエに対して皆の先頭に立って蔑みと乱暴な言葉を投げかけてくるくせに、助けを求めているなんて情けない男だ。しかし、彼の目が呼んだイサヨたちがチエを執拗に突き飛ばし続けた。床に転がったチエ。しかし誰も助けようとはしない。痛みをこらえ汚れを払う。チエは周りをにらみながら自分の席についた。手足の痛みのほかに胸が痛かった。目の奥が痛んで何かが目の周りから出てくる。涙。血の涙とはこれを言うのだろうか。このような仕打ちに誰が耐えられるというのだろうか。
つぎの日から悔しくても反応することを止めた。抗っても、助けを求めても助けは来ない。この孤独な戦いに勝利はなく、チエに友人も味方もいなかった。彼女はあきらめるようになっていた。
黄土の羽衣の衆羅がささやく。
「苦しみはこだわりからくる。こだわりを捨てよ、生きることへのこだわりを捨てよ。さすればこの苦しみは流れ去る」
そのささやきにチエは自分を浸し切ろうと心を閉じた。そう、生きることを止めよう、と。しかし、涙は流れ続けている。現実に苦しみは与えられ続けている。今では、彼女には教科書が残っていない。ノートも奪われた。グルになったクラスメートたちの中に犯人がいるのだが、たとえ突き止めたとしても孤立無援のチエが追及できるはずもなかった。教科書や資料集がないと不便なのだが・・・。唯一『自由自在』という参考書のみが友人だった。
「誰か、助けて。でも誰にもこんなことを言えない。もう、耐えられない。生きることを止めたい」
黄土の衆羅たちの働き掛けがあっても、具体的な攻撃と痛みを消し去ることはできなかった。チエにはあまりに苦しすぎて悔しすぎて、とても寂静に浸ることなど無理だった。
・・・・・・
二年の三学期になると、歴史では近代史を学ぶ。今日はその初めの日だった。
「規律」「礼」「着席」
掛け声とともに歴史の教師が声を発する。
「今日は近代国家の成立という章に移ります」
「近代国家とは何でしょう。わかる人はいますか」
「教科書を見ればわかると思いますが…」
教科書の無いチエが一人だけ前を向いている。ほかのクラスメートはまだ教科書を見ているか、わからないので視線を下に落としている。
「平、教科書も見ようとしないけど。お前はわかっているのか?」
教師の言葉には皮肉が混じっている。チエは無言のまま。勉強ができることが周りの反感を買う。それをよく知っているがゆえに、変に正解を答えてクラスメイト達にからかわれたり、非難されることを避けたいがための消極的な姿勢なのだが、教師はそう取ってくれない。
「へえ、どうやらそうらしいね」
「…」
「よし、それなら答えてみろよ」
追い込まれたとチエは思った。ただ、質問をもう一度考えると、以前にその項目全体を俯瞰したことのある簡単なことだった。チエはおどおどしながらも、整理をしてみた。
「近代国家というのは、・・・市民が中心の国家です。その前段階なんですが・・・・・、ヨーロッパの国王は主権者として軍事力と官僚制、資本家を有することにより、領域内の権力のすべてを超越した絶対性を主張し始めました・・・。つまり、絶対主義国家です・・・・。これが中央集権化をもたらしました。ここ、合っていますか?・・・・。その底辺のゲマインシャフトでは政治的一体意識をもった市民が形成されていきます。彼らが自己主張を行い・・・・、市民革命を実行し市民国家が登場しました」
前提となる事実と結果とを説明する専門用語。チエにとってはそれらを単に繋ぎ合わせたものなのだが、そのような答え方は教科書に載っていない。教師はその答え方に驚き質問をした。
「ええ? そんなこと? 教科書のどこに書いてあったかね?」
「ええと・・・」
どこに書いてあるかわかるはずもなかった。教科書は誰かに取られつかいものにならなくなっていたのだから。
「先生、今は教科書がないので、どこに書いてあるかわかりません」
「教科書がない?」
「忘れてきました」
チエはうそを言った。
「歴史年表集には書いてあるだろう」
「それも忘れました」
「それでどうして答えが分かったんだ?」
「答えはわかりました。教科書をもらった時に、ルソーなどの啓蒙思想も読んだので…」
「ええ?」
教師は驚いて次の言葉を継げない。ただし、周りの生徒達は何が教師を驚かせているのかを理解していない。
「もう・・・いい。わかった」
それ以来、教師たちはチエを指名しなくなった。数学も、理科も、社会も、国語も、英語も。チエは教科書がなくてもすべて教師の言うことは理解し、その先までわかっていた。それは教科書がなくても答えてしまうことにもなる。教師たちからの反感はより増していた。
・・・・・・・・・・・・・・・・
いじめにはきっかけがあった。それは、二年生の一学期が始まったばかりの四月上旬、イサヨたちに誘われたことだった。
「あんた、平さんていうんだっけ。ちょっと話があるんだ」
「え、確か、中村さんね」
呼び出されたのは、南綾瀬中学校から帰る途中にある児童公園。チエがイサヨに連れられて出向くと、トイレから数人の女子生徒が出てきた。茶髪にピアス、たばこの吸い殻…。
チエは、あ、これは、と思ったのだが、そんなためらいも顔に出さないように彼女らの様子を見ていた。
イサヨが口を開いた。
「あんたの家、母親がろくでもないんだって?」
イサヨが何を求めているのか、チエにはまだわからなかった。
「私らも、ろくな親がいねえんだよ。親父は飲んだくれて暴力振るうだけだし、おふくろは泣くか呑みに行くかで、いつも勝手なことしやがって。ほかの大人たちだって、勝手な押し付けをして来るしね」
「・・・・」
「あんたも同じように感じてるんだろ? 茶髪にしてんのはそういうことだろ? なあ、どうだろう、私たちとつるまない?」
「・・・」
「どんな話だか、分からねえ、ていう顔をしているね。じゃあもう少し説明してやるよ。・・・あたしさ、あの中学で番張っているんだけどさ、あんたも仲間にならねえかってことだよ。あんたも私らと同じ匂いがしているからさ。」
「・・・」
「なんかいいなよ」
イサヨがじれて声を上げた。チエは意を決して静かに答えた。
「私の父は飲んだくれじゃない。大人たちだって良くしてくれる人はいる。私の髪はもともと茶色なのよ。確かに私の母親はダメな人間だけどね。でも、勝手なことばかり言っているわけではないわ」
「なんだよ。あんた、いい子ぶっているのかよ」
「ちがう、古くからの預言書に『父母を重んぜよ』とあるの・・・。つまり先祖、先達の方々を重んじることよ。」
「なんだよ、それ」
「大人たちは私たちの先達よ。その先達の智慧を素直にまず学ぶことが大切なの。先達の智慧、それは私にとって正しさなの」
「何、それじゃ私たちが間違っているってことかよ? 上等じゃないか」
「やっていることが間違いなのが、わからないの? 素直に聞く態度がないとこのままダメになるわ」
「じゃあ、何、あんたは正しいわけ?」
「そう、少なくとも悪いことはしないわ」
「誰が正しいなんて決められるのよ?」
「私にはわかるわ」
「は、あんたがきめるのかよ」
「私は教えられたことを守っているだけよ」
「誰が教えたのさ。大人だろ」
「単に大人が決めたわけではないわ」
「大人が勝手に決めつけているんだよ」
「違うわ、啓蒙思想から始まった先達の巨人たちの思いは・・・・」
「なんだよ。偉そうに・・・・。そういうのが気に入らないんだよ」
イサヨはそういうと仲間たちに向かって大声を出した。
「このアマ、いい子ぶって大人に媚を売っている嫌な奴、裏切り者だぜ」
「悪い奴だな」
「罰をあたえねえとな」
「しめてやろうぜ」
チエは、その声を最後まで聞いていなかった。
「待てよ」
複数の叫ぶ声がチエを追ってくる。それに追われながら、どこへ行こうかと一生懸命に考えた。・・・公園を出てバス通りに出れば、よく知った交番がある。そうやって逃げきるしかなかった。
次の日、やはり、教科書と資料集を全て奪われた。
このことを教師に訴えたことがある。まじめには取り合ってもらえなかったが……。
「先生、私の教科書と資料集を誰かに盗まれました」
教師はまたかと言う顔をしながらも聞いている。
「いつ取られたんだ?」
「昼休みです。私がトイレに行っている間に、全て取られてしまいました」
「わかった。午後のホームルームでみんなに聞いてやるよ」
「みんな、平さんの教科書が取られたらしい。教師にとって君たちが教科書を持って来ないと困ってしまう。誰か知らないか?」
当然誰も応える者がいるはずもない。仕方なく、チエは一人でツイッターの投稿を調べ尽くし、学校中を探した。わかり切っている授業が終わった後に、ひとりで学校をさまよった。それらしい投稿を元に、すべての教室のごみ箱、掃除道具入れ、階段の下を巡る。最後に行きついたのがコークス倉庫だった。
春ゆえにコークスはもうほとんどない。しかし残された黒い粉が、チエのすべての教科書と資料集を汚しきっていた。春の受難週とはよく言ったものだ。耐え続けるチエのすべてが奪われ、黒く染められ切っていた。
次の日の朝、チエは朝早く登校し、登校してきたばかりの担任教師を捕まえ一気に訴えた。
「先生、見つけました。」
「なんだよ、こんなに朝早く?」
「でも、先生見つけたんです」
登校した際の考え事を邪魔されたためか、担任は少しばかり嫌な顔を見せた。
「めんどうくさい奴」
チエはその感情を受け取ったことで、口調が急速に小さくなってしまった。自分が意味のない命であることを、嫌というほど思い知らされた。
「教科書も資料集も・・・・全部見つけたんです。・・全てコークス倉庫の中に・・・に放り込まれて・・・・黒く染められ切っていました」
「見つかったならいいじゃないか」
「でも・・・・読めません」
「そうか。まあ見つかってよかったな。これで一件落着だな」
担任はおどけるように言ってその場を終わろうとした。
この時、チエはその担任に反発して声を上げた。
「でも先生、このままで済ますんですか?」
朝のホームルーム。チエは一人立ち上がってクラス中を睨みつけた。
「・・・・これは基本的人権の侵害、窃盗、器物損壊、罪が重い行為です」
「どうするつもりかね」
背後から眺めていた教師が、怪しきばんだ。
「このままで済ますつもりですか?」
このあとのチエとのやりとりは教師に反感を持たせた。
「・・・そんなに啓蒙思想にかぶれているならちょうどいい。生徒会長選挙がある。君は生徒会長にでも、なってみなさいな」
「生徒会長・・・・ですか」
そのときチエは真面目にその提案を受け取った。
「わかりました。やってみます。それで私のいじめを正し、正義を取り戻せるなら・・・。どうしたらいいですか」
教師はチエが急にやる気を見せたことに驚いた。ただ、教師たちにしてみれば、このままいってもチエが誰からも得票を得ることのないことは、十分に予測できた。
「じゃあ、やってみるといい」
この中学では五月下旬に生徒会選挙が行われる。チエはチエなりに生徒会選挙の準備をした。候補者はチエ一人。しかし、推薦をする友人はおらず、知恵を与えてくれる教師もいなかった。孤立無援。しかし、立候補の届け出の後、チエなりに立候補の演説原稿に自己推薦の演説原稿を用意した。啓蒙思想に裏打ちされた人間の尊厳と尊重すべき人間性を訴える内容だったのだが・・・・。
開票結果を知らせる日の朝、チエは開票結果を発表する掲示板の前に立ち尽くしていた。結果は信任ゼロ。反対に、全校生徒が不信任を投じていた。チエはただ、その結果を見つめるしかなかった。
イサヨたちが、その近くでわざわざチエに聞こえるような声で話をしている。
「あいつ、バカじゃん」
「生徒会長に一人だけで立候補したのも馬鹿だけど、得票を得られると思っていたなんでバカだよ」
チエは悔しさを隠しながら、周りの生徒たちをにらみつけるしかなかった。喧嘩の強いもの、不良、ツッパリ、そういうやつに人気があり、評価されていた。そのことをチエは改めて思い知った。ただ、そのようなことは、埼玉や千葉に近い足立、葛飾、墨田、江東、江戸川の辺りに限られたことだったのだが・・・・。
「得票数がゼロだったって?」
教師は、「今更何を言っている」という顔をしながら笑って答えた。
「なぜですか。先生も応援してくれなかったですよね」
「本気で生徒会長になれると思っていたのかね」
「せんせい・・・・」
クラス全員はおろか、担任教師までがチエを裏切っていた。
こうして、二年生の初め以来、チエの周りには教師たちの反感、イサヨやカズキたちクラスメートの男女の反感と羨望、嫉妬が渦巻いていた。
「みんな、なぜそんなに私を叩くの? 先生はなぜ私を助けてくれないの? 私は生きている意味がないの?」
チエは、そう言って唇をかみしめた。