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3 困難への覚悟

「あの子は私たちを救ってくれたんです。でも、あの子は一人らしくて…。お父さんが一緒だったらしいのですが…。」

 マサヨは、チエを不思議そうにまた気の毒そうに眺めながら警察官に語った。

「多分、あの子のお父さんは樹海の中で冷たくなっているのではないでしょうか。」


 ・・・・・・・


 チエは、保護されてから何も語らなかった。様子のおかしいチエは、警察から見れば自殺しかねない思いつめた顔色だったのだろう。彼らは保護した山梨県警から警視庁亀有警察署へ引き渡されると、チエの心の中の畏怖は、三人が葛飾へ戻るにつれて強くよみがえっていった。


 樹海の奥深いところ。二度と帰れないところ。

 お父さんは起きてくれなかった。

 お父さんが周りの石や土と同じように冷たく硬くなっていた。

 不思議な声が聞こえた後、不思議な力でここまで歩いてきた。

 しかも、二人の大人まで連れて…。


 すべてが現実に起きたことだった。強く記憶された樹海の光景のとなりに、もう一つの黄土に包まれた暗黒が口を開いていた。父親が座り込み冷たくなった大木の陰。チエが座るはずだった父親の隣に、それがあった。暗黒を振り回す黄土の衆羅が父親を黒く飲み込み、チエを追ってきた。すくっと突然現れた端正な蒼いオーラの御使い。チエを見つめる包むような表情をした彼に縋りついたとき、黄土の衆羅はチエから離れていった。その樹海での記憶は畏怖と恐怖そのものだった。


 葛飾へ近づくにつれて、再びチエの周りを黄土の衆羅が舞い踊り、ささやき始めた。

「お前は意味のない人間だ。どこへ逃げ出そうとしても無駄だ。私は思い出させる者、悟らしめる者。お前があきらむる時まで、周りと天とから目を背ける時まで、私はお前に無とあきらむることとを絶えず注ぐ。いつか生きることを止めるまで、いつかあきらむるまで」

 この心へのささやきにチエは動揺し始めていた。


「おばさん。私怖い!」

 警察署での別れ際、チエはマサヨにそう叫んだ。そのチエの目は初めて恐怖に震えていた。彼女の手は恐怖のためか、冷たく震えている。

 この子は可哀想な子供なのだ。マサヨは改めてそう気づいた。

「私たちもこわかったわ。でもあなたは私たちを救ってくれたのよ。私たちには昔女の子がいたわ。死んじゃったけどね。私たちのあの子も、もしかしたらあなたみたいな強い子になっていたのかしら・・・」

 そう言いながらマサヨはチエの髪をなでた。同意を求めるように康煕の顔を見ると、彼は別のことを考えているように見えた。その謎の違和感をチエも感じていた。いいものを見つけた・・・・。彼はそんな顔をしているように見えた。

「あなたはこれからも強く生きられるわ。ありがとうね」

 マサヨは、今頃になっておびえているチエと、それを見つめる康煕とを不思議に思った。


 ・・・・


 チエは、児童相談所から養護施設へ。長らく分かれ分かれだった母親を探してもらうためだった。それを待つ間に座っているパイプ椅子は、無機質にきしんでいる。

 本当に母親がいるのだろうか。いなかったらどうなるのだろうか。誰も頼りにできない。せめてあのおじさんおばさんが家族だったら…。そう思うこともあった。

 ほどなく見つかったのは、下千葉のアパートに住む女。名をたいらテルミといった。煙草をくわえながら真っ赤なドレスとハイヒールで迎えに来た姿は、場末のホステスそのものだった。

「あんたがチエかい?」

「はい、平チエです。」

「弥寿は死んだんだって? 一緒に死んじまえばよかったのに。めんどくせえなあ」

 これがお母さんなのか。チエは目の前の女を凝視しながら信じられなかった。

「何にらんでいるんだよ。ついてくるんだろ。はやくしな」

 チエは覚悟した。耐えるしかない生活がまたしばらく続くことを…。ふと思い出した優しい父の姿。しかしそれはすぐにあの黄土の影に代わってしまった。もう、優しい父はどこにもいなかった。


・・・・……   


「チエ、あんたの朝めしと晩めしは、これで済ませておきな」

 テルミからチエの足元に投げられたのは、百円玉が三枚。まるでたまたま見つけた小銭を、余ったからお賽銭にすると言うかのように。でも、もらえるだけでもこの日はラッキーだった。

「お客が来るからね。はやく学校へ行け。夜になるまで帰ってくるなよ」

 毎夜はホステス業、昼は時々男を家に連れ込む。小学生のチエにはそんな母親が何をして日々の生活費を稼いでいるのかは、わからなかった。

「三百円かあ。どうしようかな」

 これではワクドナルドのセットも買えない。いつもの通り朝食は我慢して、そのまま下千葉小学校へ行くしかない。夜は母親の遅い帰宅で睡眠不足、その上腹をすかせたまま、午前中の授業を耐えることは難しかった。結局、毎日の午前中の授業はぼんやりとしていることが多く、睡眠学習のように過ごしている。


 給食は一日分の食事をとる唯一の機会だった。

「チエ、なんでそんなにとるの。ずるいわ」

「チエ、ずるいぞ」

「なんでそんなに盛るんだよ」

 チエはおかずを多めに取ろうとする。その食い意地の悪さが周りの少女たちから忌み嫌われていた。他方、同じ小一の男子たちはおかずを多めに取ろうとするチエと争うことが多かった。こうして満腹となると、毎日の午後の授業は寝て過ごすばかりだった。

 今夜は三百円があるから育ち盛りの空腹を少しは満たすことができるが、いつもは毎夜空腹のまま寝入っている。そうして母親が帰ってくるのを待つのが日課だった。


 こうしてチエは、寝て過ごすばかりの小学校そして中学校の生活を過ごしていく。寝て過ごすばかりのチエだったが、それでも学びは不思議なほど十分に積み重ねられていた。


 ………………………


「過払い金を取り戻せます。それで結構なお金になりますよ。」

 新小岩駅近くに事務所を構える司法書士は、そう断言した。事実、いくばくかの手数料は支払ったものの、サラ金などから事務所が取り戻してくれた金銭は、林康煕と林マサヨにとって店を出すための自己資金として十分だった。

 司法書士の紹介もあり、二人は亀有駅近くに店を開店した。そのあとは堅実な商売と幸運とが六十近くの年齢となった二人の時を七年もの間守り続けている。


「この店を守ってもうすぐ七年になるのね」

「もうそんなになるんかい。それは大したもんだ」

 老年の志門トウヤが応じた。青みがかった白髪の老人。彼は六年前の開店当時からの常連だ。

「へえ、馬喰町と下田の親戚に手伝ってもらって、店を三つも出せるまでになってまして…」

 康煕が感慨を込めてそう言う。

「下田のほうでは、駅近くに候補地があるといっていたね」

「その立地なら観光客あての商品を売ることもできるだろ」

 トウヤは、日経新聞を開きながらそう助言した。

 彼らは都心や下田市で、中華料理店と仕出し弁当で一定の評価を得るようになっていた。樹海に入り込むほど思い詰めていたことは、今のマサヨにとって愚かしい嘘だった。いまでは、救い出してくれたチエを思い出し、親のない少年少女を採用しつつ奨学金を用意して進学の面倒まで見ている。

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