1 樹海の中の言葉
地上に点在する太極の中心、その最大のものは長白山だった。長白山を中心にして取り囲むように、円弧上の日本列島と東京、南京、北京、そしてアムールが位置している。太極からの鳴動は、円弧上の地域に邪神の眷属たちを暗躍させ、様々な災悪をもたらしていた。
眷属たちは、日本列島に沿った巨大な地殻変動を幾度となく呼び起こした。その一つが富士だった。眷属たちの霊的な蠢きは富士の爆発を引き起こし、日本に溶岩と火山灰をもたらした。それは日本経済をどん底に突き落とし、弥寿の生きる糧を奪い、チエの居場所を奪った。
父親の弥寿とともにチエは樹海に来ていた。但し、此処でも、溶岩と火山灰がチエの歩みを邪魔する。チエの歩みによって得られたものは、擦り傷、ひっかき傷、まとわりつく湿気と落ち葉、そして寒さ。それらをひっくるめたひもじさが、チエの体から生気をそぎ取っていく。
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富士の樹海は時折薄暗くなる。それは、衆羅が通り過ぎた時の特徴である。彼らはこの地を蠢くように巡回する邪神の眷属だった。彼らが通り過ぎると木々がうねり波立つので、それが分かるのだ。
衆羅たちがある大木の周辺に集まりだしていた。彼らがいざなうと、男とその幼女が大木の根元に腰を下ろした。ただ、幼女は反発するように父親の手を振り払い、立ち上がって周囲をしばらく巡り歩き、様々なものを注意深く観察していた。
幼女の名は「チエ」。本来の名前は「智慧」なのだが、父親から長らく「チエ」とよばれてきた。今、チエの目には、彼女の親 平弥寿が木の根元に眠っているように見えた。三時間ほど前に、彼女は様子のおかしい父親から逃げ出したのだが、それでも恐る恐る戻って来ていた。
「パパ......」
よく眠っているのか、返事はない。
「パパ!!」
腕をゆすってみたのだが、反応がなかった。不自然に体がかたく冷たかった。六歳児であれば、それがおかしいことであると気づいたのだろう。彼女は立ち去る前にためらいがちに言葉をかけた。それが父との最後の会話だった。
「パパ...、誰か呼んできてあげるからね。必ず迎えに来るからね」
チエはそういうと振り返り振り返りしながらも、何かを決意したように進み始めた。溶岩と火山灰で不安定な足場を踏みしめつつ、転びそうになりつつ。
今、目の前にあるのは火山灰で覆われた大きな倒木。よじ登って超えていかなければならないのに・・・・。もうここで座り込みたい。倒木の陰で寝てしまいたい。そう思った。
そのとき、チエの頭上に御使いが蒼いオーラを広げた。翼がないのはまだ新米の御使いなのだろうか。そうぼんやり考えるチエの心に、響く声があった。
「勇気を出しなさい。わたしが、あなたの行くところどこでも、貴女とともにいる」
確かにここで座ってしまうともう立てなくなることは、幼いながらもチエにはわかっていた。今まで歩き疲れるといつもそうだったから。でも今は父親がいない。そう思った時、そのオーラを押しのけて黄土の羽衣を広げようとする影、衆羅たちがチエの注意をひきつけた。
「一人の人間が枯れることで寂静の悟りを得んとするを邪魔する悪鬼よ。幸せとは枯れた寂静にあると悟ることなれば、生きる気力にどんな意味があるというのか。下がれ、サタン」
衆羅たちは、蒼の御使いを戟で牽制して大声を上げた。蒼の御使もまた抜身の剣をひらめかせた。
「寂静を良しとする態度は、根拠なくいたずらに人を涅槃に至らしめること、すなわち殺しではないか。天の経綸を邪魔する者たちよ、お前たちこそサタンというべきだ。私がチエに伝えることこそ、現実に基づいた喜びなれば、いま、現実の喜びから目をそらさせるものは去れ」
「何を言うか、涅槃の寂静を邪魔するものよ」
衆羅たちは戟を構えて呪いの声を上げた、蒼の御使もまた剣を構えて衆羅たちを威嚇した。
「下がれ。さもなくば権威の執行者たる御使いが、力づくで退かせるぞ」
「ほほう、われら衆羅を退けるというのか」
衆羅たちは嘲笑しながら、一人で幼女を守ろうとする蒼の御使いを嘲笑した。
このとき、チエは蒼の御使いを見つめていた。彼女は、愛を求めるように蒼の御使いの首めがけ、小さな両腕を伸ばした。それに気づいた蒼の御使いはそれまでの厳しい顔つきを緩め、幼い娘をやさしく抱き上げていた。衆羅たちはその光景に油断したのだろう、次の瞬間に蒼の御使いによって次々に吹きとばされていた。
チエがなぜ蒼の御使いを求めたのか。チエの寂しさ、孤独な心。それを感じ取った蒼の御使いの憐みのまなざしと声とが、彼女の心を満たしていた。
「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神 わたしが、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにいる」
その言葉は疑似声音のようにチエの頭の中に優しく響き続けた。
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二人の目の前にいたのは、落ち葉にまみれ泥んこだらけ、傷だらけの幼女だった。
林康煕と林マサヨ。二人は長いこと、この大木の根元で並んで座っていた。夕方が近づく。冷たさと湿気とが増していくことで時が経過していくことが感じられる。二人は手を取り合いながら、もうすぐ来るであろう最後の時を待っていた。
睡眠薬すら買うことのできない二人は、ただこの樹海に踏み入るしか考えつかなかった。ただひたすら歩き、疲れ、そしてこの木の根元で眠るように命の火が消えるのを待っていた。
その二人を幼女が覗き込んでいた。二人の目の前に、ぬれ落ち葉と泥んこだらけの幼女がふらりと表れていた。
「ここで何しているの?」
遠慮がちの声に、マサヨはゆっくり目を開けた。もう死ぬばかりの疲れ切った人間に、場違いな質問だ。マサヨにはそう思えた。他方、康煕にとっては邪魔されたように感じられ、まともに答える気は起きなかった。
「この木が困っているよ。早くここから立ち去ってくれって。」
マサヨは長く動かしていない手を動かそうとした。身じろぎ程度の動きに康煕がうめいた。
「二人とも、起きて。」
幼女の強い声が響いた。その声に驚いた二人は揺さぶられたように上半身を起こした。
「ご、ごめんなさいね。私たち、ここで…」
まさか、『ここで死ぬのを待っているのよ』とは説明できない。そう考えながらマサヨは康煕を突いた。
「あなた、起きましょう。この子に見つかってしまったわ。」
「ああ。でも、この期に及んでどうしろっていうんだろう。」
その声に返事をするように幼女は答えた。
「私、ここから出たいの。連れてって。」
康煕はそれを聞き、チエを見つめた。
「へえ、本当はこのままここで静かにしていたほうがよかったんじゃねえのか」
目の前の二人、チエにとって一人は会ってよかった者、一人は会ってはいけない者のように感じられた。
しばらく降っていなかった雨が降り始めた。いったん起き上がってしまうと、マサヨと康煕にとっては生気を奪いて死に導いてくれるはずの雨が鬱陶しいものに映っていた。三人は慌てて道路があると思われる方角へ走り出していた。
少し走ったところに、幹線道路があった。夕闇の中を何人かが誰かを探している。三人を見つけた人がほかの人を呼ぶ声が聞こえた。
「おーい、人が戻って来ているぞ。」
道路にいた人たちを見つめながら、チエはマサヨと康煕に向かって言った。
「おじさんとおばさん、帰りましょう。私、絶対帰りたいんです」
二人はチエとともに東京へ戻ることになった。斜陽の中で輝くチエの言葉は、康煕にとってまぶしすぎ、マサヨにとっては現実に向かわせるものだった。偶然に、チエが戻るといった家は二人と同じ葛飾区だった。
不思議なことだった。