3.壊れた蛇口
寒くなってきましたね(。>д<)
「まだ何かあるの?」
美月はこくりと頷いた。
「でも、今は言わない。そのときになったら、ちゃんと受け取ってね」
「ああ、何か知らないけど、無理はするなよ」
「うん」
その後しばらく雑談をして、気付いたら辺りは暗くなっていた。大した話をしているわけでもないのに、美月はいつも嬉しそうに笑っていて、自分も感染するかのように嬉しくなった。この時間がいつまでも続いてほしいと思っても、時は止まってくれない。また明日と言葉を交わし、美月は帰途についた。
小さくなっていく背中を眺めていると、それに比例するかのように、僕の心は寂しさに染まっていった。美しい髪をいつまでも見ていたいと願う自分がいる。どれだけ執着しているんだと半ば自分に呆れていた。しかし、僕の思いは形となって存在してしまっている。忙しなく動く僕の心臓がその証拠だ。本当は、前からずっと思っていた。特別な何かがあるわけではない。壊れた蛇口が直らないだけだ。この思いを聞いても、どうでもいいと切り捨てるかもしれない。気持ち悪いと思うかもしれない。輝く目、白く透き通った肌、可愛らしい小さな手、夜の女神の祝福を受けたかのような美しい髪。何一つ僕とつり合うものはない。だからこそ、君が輝いて見える。君といたいと思う。
どう思われたっていい。でも、いつか届いてほしい。僕が僕のままでいたくないから。この気持ちを許してくれ。
君が好きだ。
中間考査が返却される日となった。初めての定期テストで、どんな対策をすればいいかわからず、かなり戸惑ってしまった。しかし、自分にできる限りのことはやったつもりだ。
一人ずつ名前を呼ばれ、テストを受け取っていく。全ての教科を返すと、先生は黒板に成績順位表を貼った。表には、全員の生徒の成績が載っていた。淡々とした先生の動作はひどく無機質で、悔悟の影もない。噂には聞いていたが、当事者になり、初めてその凄惨さを感じた。
「これが今回の結果です。自分は今どの位置にいるのかしっかり把握して、次のテストに向けて頑張りましょう!」
先生の明るい声が響く。きっと、学校はこの脅しで生徒を奮い立たせようとしているのだろう。先生達は大学受験しか見ていないから。まだこの学校に入学してあまり経ってはいないが、それでもひしひしと伝わってくる。生徒を駒としか見ていない。中高一貫の学校は、どこも同じなのだろうか。しかし、確かに大学進学率は良い。世の中が求めるのは成果だけであり、そこまで辿ってきた道などどうでもいい。無情だか事実だ。もしかしたら、この学校のやり方は正しいのかもしれない。
いつかこの残酷なやり方にも慣れるのだろう。個人の尊重の欠片もない。自分でも考えすぎだとは思うが、どうしても納得できなかった。
先生の言葉は、僕の耳には届かず、ただ撥無されるだけであった。
休憩時間になり、秀樹がいつものようにニコニコしながら歩いてきた。
「なあ、席からじゃあの表見えないから、一緒に見に行こうぜ」
「一人で行けよ。てかなんでそんなに笑顔なんだよ」
「レッツゴー」
秀樹は僕の腕を無理矢理引っぱって、黒板の方へ向かった。表には、学年全員の名前と点数がびっしり書かれていた。点数の高い順に並んでいるので、自分がどのくらいの位置なのかがひと目でわかる。
僕は182人中17位だった。望外な結果に、喜びと安堵が胸に広がる。ちなみに秀樹は143位だった。
「朝陽ってそんなに賢かったの?」
「失礼な物言いだな。まあ自分でも少し驚いているが」
「なあ、一番上見てみろよ」
そこには、平然と『瀬尾美月』の名前が並んでいた。
「500点中487だってよ。お前の彼女すげーな」
「彼女じゃねーよ。それにしても、すごい点数だな」
美月は2位と30点以上も差をつけていた。この学校は定期テストの難易度が突飛なことで有名だが、それでこの点数とは、天才と呼ぶほかになにがあろうか。今更ながら、僕はすごい人に恋心を抱いたのだと実感した。
「美月って、ピアノもめちゃくちゃ上手いんだぜ」
「なんでお前が知ってるんだよ」
「俺もピアノ習ってるから、発表会のときに会うんだよね。あの人のピアノ聞いてたら、上手すぎて鳥肌立っちゃって、それはもう最高ですわ」
意外な情報を得た。美月がピアノを美月がピアノを弾けて、とても上手なこと。これももちろん重要な情報。そして、秀樹がピアノを習っているということだ。人は見た目によらないとはことことか。
「秀樹、本当にピアノ弾けるのか?」
「失礼だな。俺だって一応5年習ってるんだからな。今はソナチネってやつ練習してる」
僕は、胸を張って自信満々に言う秀樹がピアノを弾いているところを想像していると、だんだんおかしくなって、フッと笑ってしまった。
すると、秀樹は頬を膨らませたが、つられるようにゲラゲラと笑い始めた。
周りの視線が少し冷たかったが、あまり気にならなかった。楽しいひとときだった。こいつと一緒にいてよかったと初めて思った。
「なあ秀樹。変な質問だけど、どうしてお前は僕にこんなにもくっつくようになったんだ? 友達には困らなかっただろ?」
「あ、やべえ、あと10秒でチャイムが鳴る。また今度!」
またつまらない授業が始まる。いつも通り、僕はぼんやりと窓の外を眺めていた。
すると、公園に以前にも見たおじいさんが、ベンチに腰を下ろしていた。その顔はひどく苦しそうで、まるで呪縛をかけられているようだった。
おじいさんは立ち上がり、公園を去っていった。歩く様子に違和感はなかったので、体に異状があるわけではなさそうだ。
何か悩みでもあるのだろうか。そんなことを考えても自分がどうこうできる話ではないのはわかっている。しかし、何の因果か、どうしても気になってしまう。
彼が誰かに似ている気がしたから。