曲と服毒
僕が音楽と出会ったのは中学の頃。初めて聴いた曲なんて覚えてるはずもなくただ現実に飽きてアイドルやら小説やらに没頭していた中学二年の時、たまたま動画サイトの広告で流れたバンドに一目惚れした。余談だが僕が人やら物にハマる、好きになるのはたいてい一目惚れが多い。それから数々の曲を聴くようになり、次第に周りも流行りのものを聴き、それをさも自分が作り上げたもののように自慢げに共有するようになった。はっきり言って流行っている曲をわざわざ聴くのは時間の無駄だと思う。それぞれに出会った経緯があるのは認めるが人気だと分かっていて聴けばいい曲に違いないし、自分が考えるその曲に対しての見方はほとんどが既出したものだろう。少し話が逸れてしまったが中学を卒業する頃には脳みその4割は曲で占められていたと思う。それは、高校に入っても同じことで緊張やそれから出るストレス、願望とか色々なことを音楽を聴くだけで一時的ではあるが記憶から消してそれだけに集中することが出来た。いい時間の使い方だと自分では思っていた。けれどいつしかその考えは変化し、自分への劣等感やストレス、あらゆる欲望を音楽と重ねるようになっていった。
死にたいと強く思った時は暗めの曲を。爽やかな制服と共に自転車を走らせる時は春を基調とした鮮やかな曲を。それぞれの気分に合わせた曲を選ぶことで自己肯定感が増して人生にBGMをつけることが出来るようになった。
大人になるにつれて忙しくなった僕は、音楽を聴く時間すら無くなってしまった。いや、あるにはあった。しかし朝の通勤時間、いやでも人と近い距離にいされられ尋常じゃないほどのストレスが溜まる。それは到底曲を聴くだけでは無くすことの出来ないものだった。そのストレスと音楽を付き合わせてはいけない。そう思ってから音楽を聴く習慣は無くなり、好きだったバンドは僕の中から消えていった。
社会人になると予想をはるかに越えるストレスと責任感が押し寄せてくる。僕はこれらを一瞬にしてなくす方法を色々と探した。
その結果見つけたのが「死」だった。
飛び降りは良くない。人や物にぶつかると迷惑をかける。電車のホームに飛び込むなんて最もしてはいけない自殺方法だ。血は出したくはなかった。ので、僕は首吊りを試すことにした。しかし、仕事の疲れで食事もろくに取らなかった自分の首はロープをいとも容易く抜けてゆき自殺は失敗した。
死ぬことも許されないこの社会はなんて辛いんだ。そう思っていた時、ふと部屋の棚が目に入った。学生時代集めていたバンドのCDたちだった。色とりどりでセンスのあるジャケット写真は当時の僕の感性を見事に撃ち抜き、月の少ない小遣いを全てつぎ込む勢いで買っていたCDたち。それらを取り出し、プレイヤーに入れた。
懐かしくて、儚くて、大量のコーヒーに砂糖を2粒入れたような学生時代が蘇ってきた。僕は涙を流していた。目の前に置かれたコーヒーにはその涙と、少量の砂糖とミルクと毒が入っていた。全て僕が入れたものだ。ズズズと啜るとあの時代よりも苦い味が舌を通っていった。豆の苦さじゃない。涙だ。その涙に味があるかは分からないが、毒と学生時代の苦さが相まって物凄く不味く感じる。その不味さを懐かしさに変えてくれるこの曲を最後まで聴きたかったなぁ...。そう呟き口から血を吐いてしまった。