僕とサカタさん
『起きて下さい、先生!こんなところで寝ていたら、
風邪を引きますよ!先生!しっかりしてください!
酔っ払っているんですか?先生、起きて下さい!』
僕を起こそうとする声が聞こえる。誰かが僕の体を揺する。
サラリーマンをしている僕を『先生』と呼ぶのは、
僕の住んでいるアパートの真下の階のサカタさんだけだ。
頭がガンガンと痛む。
飲み慣れない缶ビールをたった2本飲んだだけなのにと、
僕は顔をしかめて、目を開けた。
ああ、僕を心配げに見るサカタさんのシワだらけの顔が見える。
あれだけ、ひどく酔っていたけど、ちゃんと家に
帰って来られたらしい。
「サカタさん、どうしたんですか?回覧板ですか?
それともまたパソコンが固まってしまいましたか?」
「先生、寝ぼけていますね?ここは私の家の玄関ですよ。
先生は酔って、階を間違えたんじゃないですか?
新聞を取ろうと思って、玄関を開けたら、先生が倒れて
いたんですから、驚きましたよ。一晩中、こんな所で
寝てたら、いくら若くったって、風邪を引きますから、
今後は気をつけてくださいよ」
サカタさんは半分心配げに半分呆れ気味にそう言って、
シワだらけの手を僕に差し出した。
ああ、僕は階を間違えたのか。
体がアチコチ痛いのは、コンクリ廊下で寝てたからか。
「ほら、起きて下さい、ご飯にしましょ。独り身なんで、
たいした物は出せませんが、先生、お腹すいたでしょ?」
「いや、ご迷惑をかけたうえに、朝ご飯までは・・・」
「何言ってんですか!先生は私のパソコンの先生でしょ!
遠慮は要りませんよ。それに先生、泣いてたんでしょ?
目が腫れぼったいですよ。何か辛いことがあったんなら、
まずは飯ですよ!お腹いっぱい食べたら、少しは気持ちも
晴れる、ってもんですよ!」
サカタさんはシワだらけで小柄なのに、力や押しが強く、
僕はサカタさんの家に放り込まれてしまった。
小さなちゃぶ台の前に座らせられて、卵焼きと味噌汁と
ご飯をご馳走になる。
僕は部屋の隅に置かれたノートパソコンを見る。
「そういや、サカタさん。僕の友人がどうも、サカタさんの
小説を読んでいたみたいなんですよ。彼が酷評していた
作品の題名が、サカタさんから聞いていた題名と
同じだったので、僕は内心とても驚きました。ああ、
安心して下さい。彼、割とブレブレな所が、素人くさくって、
逆に面白いかもって、最後笑っていましたから」
「ありゃ!先生、ブレブレの小説だからって、
そんな生暖かい目で憐れむのは止めて下さい・・・って、
もしかして、先生も私の作品を読まれたのですか?」
「いや、僕は読んでないです。何かこう、身内みたいに
感じるサカタさんが書いていると思うと、何だか妙に、
小っ恥ずかしくって・・・。
今、書いているのが、調子が悪いなら、毎日更新なんて、
止めて、ゆっくりと休んだらどうですか?」
「ああ、さすが先生ですね。何もかも先生の言う通りです。
そうですね、休むのもいいかもしれませんね。
でも、書かずにはいられないんですよ。もしかしたら、
気が変わって、読んでくれるかもしれないって思うと・・・」
「サカタさん、無理して悪役令嬢物なんて書かなくても
いいんじゃないですか?サカタさんが大好きなのって、
時代劇とかお侍さんが出てくるお話とかじゃなかったですか?
大体ゲームだって・・・、ゲーム機がないのに、
どうやって乙女ゲームをするんです?サカタさん、
ゲームをしたことがないんでしょう?友人がこの人は絶対、
ゲームを知らないって、話していましたよ。
もろにゲーム未経験者だってバレているじゃないですか!」
「いや、何度か友人宅で、ゲームをさせてもらったことは、
ありますよ。確かに乙女ゲームとかはしたことはないですが、
土管に入るゲームや電車の双六みたいなゲームなら、
友人に教えてもらって、やってみましたし。
ただ、どうもゲームってヤツは、相性が悪くって、
ゲームをしていると頭痛がして、気持ち悪くなるんで、
自分ではゲームを買いませんでしたね」
「じゃ、何で、また、無理をして、ゲームを題材に?
・・・って、甥っ子さんでしたっけ?
甥っ子さん、乙女ゲームが好きなんですか?」
「・・・ええ」
僕はシワだらけのサカタさんが目を細める姿にため息をつく。
サカタさんは今、独り相撲の真っ最中なのだ。
相手は何年も会っていない甥っ子だ。
どんな相撲なのか、何を競っているのかは知らないが、
サカタさんは一年近く、その勝負をしているらしい。
僕はそれは勝負じゃなくって、サカタさんの願掛け
なのではないだろうかと密かに思っている。
僕は、鰹節が入った卵焼きを食べながら、
サカタさんとの出会いに思いを馳せた。
僕がサカタさんと親しくなったきっかけも、
今日と同じ酒が原因だった。
去年無事に二十歳になったことを職場の先輩に
祝ってもらって、初めて居酒屋に連れて行ってもらった。
僕はしこたま酔っ払って家に帰り、風呂に入ろうと
思ったまでは良かったが、風呂の湯を止めずに寝てしまい、
湯をあふれさせて、僕の家の真下のサカタさんに
多大な迷惑をかけてしまった。
サカタさんは平謝りする僕に修繕費は要らないから、
ノートパソコンの使い方を教えて欲しいと頼んできた。
それから僕はサカタさんの『先生』になったのだ。
サカタさんは機械音痴で、サカタさんにパソコンの
使い方を教えるのは、中々に骨が折れたが、サカタさんの
パソコンの使用目的を聞いてからは、最低限の使い方だけを
教えればいいのだと気づいて、それからはそれだけを教えた。
「そういや、先生は何で昨日は酔っていたんですか?
お酒は苦手だと言ってたのに・・・って、何でまた、
泣くんですか?!」
僕はサカタさんの味噌汁を飲みながら泣いてしまった。
サカタさんはアワアワしながら、僕にティッシュを
ケースごと渡した。
「サカタさん、女の子って、訳がわからない生き物ですよね」
「!?せ、先生・・・、あの・・・もしかして、ふ」
「ええ!そうですよ!木っ端みじんですよ!盛大に
振られたんですよ!でもね、サカタさん!僕は真剣だったし、
本当に彼女が好きだったんですよ!誠実に付き合おうって、
大事にしようって、思ってた!なのに!!」
僕には2つ年下の彼女がいた。
「あのね、サカタさん!朝から生々しい話になって、
申し訳ないんですけど!最近の若い女の子の考え方が
僕にはわかんないんですよ!あんなので、日本は
大丈夫なんですか?彼女、周囲の人間に騙されてるんじゃ
ないですかね?あれ、絶対、社会では良く思われませんよ!」
僕はサカタさんに少々男女の事・・・ちょっと生々しい
男女の情事にまつわるアレコレの話をして泣きついた。
サカタさんは困った顔をしていたけれど、僕の考え方は
間違っていないと肯定をしてくれた。
「先生は彼女さんを大事にしていただけでしょ?
それを彼女さんは理解ができなかったんだねぇ・・・。
もう、これはお互いの考え方の違いだから、その人と
縁がなかったとしか言えないねぇ・・・」
「友人にもそう言われました。最近の流行なんだそうです、
その・・・そういう情事のときの・・・所有印を
彼女の首につけるのが・・・。
でもね、それって、相手の女性を軽んじていること
だってことに、何で女性は気づかないんですか?
だって、彼女の友人達には羨ましがられるかもしれない
けど、世間はそういう所有印をつけて、平然としている
女性を好意的には見てくれませんよ!
僕は嫌だった。彼女がそういうふうに周囲の人に
思われるだろう事なんて、彼女が大事だから嫌だった。
何人かの友人に『自分はこんなにも激しく彼氏に
愛されているのよ』って、自慢したいからと、
強請られても、何十人もの周囲の人達に、彼女を
軽んじて見られてしまうような行為は出来ないって、
断ったんです。
それに、そういう行為のときに、男が出来る
防御も・・・しないでくれと強請られたけど、
僕は彼女を大切にしたかったから、彼女のお願いは、
男にはすごく魅了的なことだったけど、断ったんです。
そしたら『ノリが悪い。頭が硬すぎる』って、
振られたんですよ。
彼女は僕を振った、その日の午後には、もう別の彼氏が
いて、その彼氏に所有印をつけられたって、自慢してた。
『自分はこんなにも激しく彼氏に愛されているのよ』
『彼は私の事が好きすぎて、野獣のように中で何度も・・・』
って、言葉を添えて、露出度の高い2ショットの写真を
何枚もアップしてたって、友人が呆れてた。
『お前、二股されてたんじゃね?今日振って、すぐに、
あんな写真をアップなんて絶対おかしいだろ!
・・・ああ、お前はあれは見るなよ。あんな恥じらいの
ない写真、女も男も頭わいてんじゃね?って、
正気を疑うレベルだからな。・・・初めて付き合った女が
ビッチだったなんて、災難だったな。別れられて、逆に
良かったじゃん』と、彼は慰めてくれたけど・・・。
ねぇ、サカタさん!男はいつもヤル側で、女性は
ヤラレル側でしょう?男は出したら終わりだけど、
女性は、それで終わりじゃなくって、それが始まりに
なることもあるじゃないですか!病気にだって
なるかもしれない!望まぬ妊娠だって!
付き合う男が不誠実だったら、泣きを見るのは、
いつだって、女性なんですよ!
何で、当事者の女性である彼女が、それをわからないんだ!
自分を守れるのは自分だけだって、何で気づかないんだ!」
僕はティッシュケースの中身を空にするほど、
鼻水やら涙やらで酷い有様になった。
サカタさんは、食べ終わった食器を流し台に置きに
行ってから、僕の背を撫でに来てくれた。
サカタさんに背中を撫でられて、僕は昨夜友人にも
愚痴っていた言葉を繰り返す。
「サカタさん、僕は、間違っているんでしょうか?
そりゃ、僕も男ですから、自分のモノだって、彼女の
体に所有印を刻みつけたいって何度も思ったことも
あるし、男女のそういうことの最中にそれを付けるときの
何とも言えない妙な間が、何だか間が抜けていて、
嫌だって思うこともあるし、それをしないでしてみたら、
どれだけ気持ちがいいんだろうかって、何度も誘惑に
かられたけど、彼女がとても好きだから我慢してた!
でも、彼女の言うがままに所有印をつけたり、防御無しに
事に及ぶ方がよかったんですかね・・・」
「先生、自棄を起こしちゃいけませんよ。
先生は何も間違っていないんですから。
ああ、本当に、その別れた彼女は惜しいことをしたね。
先生ほど、女性を大事にしてくれる、いい男はいないって
いうのに、その価値に気づかずに、自分から手を
離してしまったんだから」
僕はサカタさんのちゃぶ台にゴンと額を乗せた。
「ねぇ、サカタさん、お願いがあるんですが・・・」
「はい、何ですか、先生?」
「このこと、小説にしてくれませんか?」
「はい?」
サカタさんは、僕の突拍子もない申し出に、
目を丸くして驚いた。