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残月、きみを映し水に消ゆ

作者: ゆんち

 いつもより少しだけ早く起きた静かな朝、薄い水色の空に浮かぶ白い月を見るのが好きなの。でもどうしても心が急いて焦ってしまうから、その時間帯は嫌い。

 彼、矢野信也を、最近オープンしたばかりなのだという喫茶店に呼び出し、注文したホットコーヒーが出されたと同時にそう言う。すると彼は少し眉根を寄せ、意味がわからないと言うように首をかしげた。

「それは矛盾しているんじゃないか?」

 いつも唐突な私の話には慣れたのか、それとも諦めたのか。彼は『だからなんだ』という言葉を飲み込み台詞を差し替えた。表情に出ているあたり、飲み込んだことにさほど意味がないことに気付いてはいない。

「そんなことないわ。だって月が見えない朝は大嫌いだもの」

 そう言って私は、白く滑らかな陶器のカップに注がれた無糖のブラックコーヒーに口をつける。向かい側の彼はますます首を捻った。

「心が急いて焦るのは君の気持ちの持ち様だろう?」

 さも正論だとばかりに問う彼の声には、私にまた反論されるだろうとわかっているのか、諦めの色が少なからず混じっている。

「鳥の鳴く声と、朝露の冷たい空気が駄目なのよ」

 私のせいではないわ。

 喉を通したコーヒーににがいと評価をつけ、テーブル脇のガムシロップ三つとミルクを二つ手に取る。

「……無糖が飲めないのなら最初からカフェオレを頼めばいいじゃないか」

 そう言う彼の手元のカップの中には、私と同じブラックコーヒー。けれど、鏡のように彼を映し出すそれとはまるで同じものだったとは思えないほどに、この手元にあるそれは乳白色に近付いていって、私の顔を映し出しはしない。

「ラーメンを食べるとき、一口も食べる前に胡椒をかけるのは失礼でしょう。それと同じよ。元の味を知らないというのは失礼だわ」

 とは言っても私はコーヒーではなく紅茶党であり、豆の評価などできはしないし、このコーヒーを淹れるマスターの腕が良いのか悪いのかだって判断などつきはしない。例えに出したラーメンでさえ自ら進んで食べた記憶はない。当然、胡椒の話などどこかで聞いたことの受け売りだ。

「だったらなおさら、ブラックのままで飲むか元々カフェオレを頼んだ方がいいと思うのだけど」

「いちいち細かいわね」

 尚も言い募ろうとする彼を一蹴する。

 彼の言うことは私にとっても正論だった。ただ、彼が顔を綻ばせながら飲むのを見てしまったら、おいしそうに飲んでいるのを見てしまったら。そうしたら最後、私は自分の嗜好とは裏腹に、興味本位でつい頼んでしまうしかないのだ。きっと彼はそんなこと気付きもしないのだろうけれど。

「…で、君は結局どうしたいんだ?」

 彼はいつものように、不満な顔を隠しもせず脱線した話を戻した。

「なにが」

 問われていることはわかるけれど、その問いが求めている答えは見つけられなかった。

「今の、朝の話だよ」

 呆れたような顔をした彼が付け足す。「どうしたいの」

「別にどうしたいとも思わないわ。ただそう思う、という話よ」

 再び口をつけたコーヒーは掻き回すうちにすでにぬるくなってしまっていて、思わず眉を顰める。勝手にもすっかり興味を失ったそれを、ソーサーごと彼の方に押し付けてやる。彼はいつもなにか言いたげな顔をするけれど、結局はなにも言わず、辛党のくせに律義に残りを全て飲み干す。そんなときの彼はまるで私の保護者のような顔をする。

 顔をしかめ舌を出すのを見るに、やはり彼の口には合わないらしい。自分のコーヒーを口直しのように一気に飲み干した。味わうなんて気は微塵もないのだろう、口の中の甘さにまだうんざりしているようだ。

 そんな彼を尻目に、私はカウンターでグラスを磨いているマスターを振り向き、アールグレイのホットを注文する。オープンしたばかりだというのに、客は私たちを含め四人と、いまいち繁盛していない店内では張り上げずとも声は届いた。

 初老のマスターが嬉しそうに柔和な笑みを浮かべて頷くのを見届けてから、彼にたたずまいを直す。

「じゃあまさかそれを言うためだけに僕を呼び出したのか?」

 私とマスターのやりとりが終わるのを待っていたのだろう。律義な彼は少し身を乗り出しうわずった声で問う。

「そうよ」

 いけないの? と目で問い返す。

「普通はね」

 彼は盛大な溜息を肩で吐いて、硬めのソファーに上半身を預けた。

「メールや電話でというのは思い付かなかったのか?」

 心底呆れたような視線を向けられると、やはり馬鹿にされた気分になる。思っていることが全て顔に表れる彼だからこそ、本気で馬鹿にしたのかと、テーブルの下で彼の足の甲をヒールで抉ってやる。

「使えないって何度も言ってるじゃない。トリ頭は見た目だけにしてちょうだい」

 目の前で身悶える黄色。こんなにも外見と中身が合っていないなんて、いっそ清々しくて潔い。

「……君は手加減という言葉を知らないのか?」

「あいにくと今私が使ったのは足よ」

 そう言ってやると、屁理屈だと小さな抗議が聞こえてきたけれど、本人がひとりごちただけのようだったので聞き流した。

「君は本当に携帯を持っている意味がないね」

 改めてしみじみと言われると、やはり気に食わない。責められている気分になるのは、きっと彼以外の人だったなら尚更だっただろう。

 彼はジーンズのポケットを探り、白く直角的な二つ折りの直方体を取り出す。

「君は使えないんじゃなくて、使わないんだろう。面倒臭いから」

 二つ折りを開けて右手で持つと、忙しく親指を動かす。

「君に送ったメールは、一度も返信が来たためしがないよ」

 彼から受信したメールは、すべて見ている。見ているけれど、自己完結するので返信をしたためしはない。受信ボックスは受け取るごとに埋まっていくけれど、送信ボックスには一度だって名前が載ったことがない。それは親兄弟であっても例外ではなかった。

「君は一体何の為に携帯を持っているのかわからないよ」

 彼が画素の高いディスプレイを私に向ける。

 私の名前が表示されている下に連なっているのは、私の携帯にも浮かび上がる文章。問われる形だったから、きっと返事をしなければいけない内容だったのだろうけれど、やはり私は自己完結で。

「わからないの?」

 私にとっては当たり前の問いだったけれど、彼にとっては予想だにしない問いだったのだろう。わかるわけないだろうと眉根を寄せ見つめる表情は、どこか抜けている。

 確かこんな風に見つめてくる犬がいたなと、ふいにそんなことを思い出す。もちろんその犬と彼はどこも似ていやしないけれど。

 きっと私を映しているのだろう瞳を探っても、もちろん私の瞳は見つけられない。私とは違う色素のうすい瞳。けれど瞳孔の色は同じで。出口の分からない洞窟に入る探検隊のような気分で彼の瞳の奥を探る。一体何メートル地点で私は見つかるだろうか。彼は視線を逸らさない。彼もまた、私の洞窟に足を踏み入れたのだろうか。侵入したのだろうか。晒され暴かれる感覚。その感覚は、不愉快では、ない。

 ――お待たせ致しました。

 そんな声が遠くに聞こえる程には、私たちは互いの瞳の奥を探っていた。

 彼から先に逸らした視線は、後から逸らした私と同じように、湯気の立ち上ぼる、きっととても熱いのだろうアールグレイを運んで来たマスターに移った。陶器のソーサーとテーブルのかち合ったときのあの音が心地良く耳に響きながら、私の目の前に置かれる。

「豆乳やミルクもございますので、ご希望ならばお申付け下さいませ」

 では、ごゆるりとどうぞ。

 無駄無く空のカップを下げるその動作とやわらかな物腰を見ていると、マスターは見た目よりもずっと年上なのかもしれないと思った。もしくは苦労人か世慣れ人か。定位置だとばかりに戻ったカウンターでは、やはり愛しそうにグラスを磨き始めた。

 冷めないうちに飲もうと、繊細な陶器のカップを持ち上げ、火傷をしないように鋭く一息吹いてから口をつける。想像よりも熱くて舌がひりひりとしたけれど、おいしい。コーヒーだったならば苦いとしか判らない味も、紅茶ならば明確に判る。きっと、幼い頃の馴染みの家が紅茶の専門店で、よく私にいろいろと説明をしながら凝った入れ方で出していてくれたからなのだろう。

 突き刺さるような彼の視線が外れないけれど、どれだけ責められようが私は答えを言わない。きっといつかの彼を上手く想像できもしないけれど、言わない。

「傍にいない人と連絡を取る為にあるんじゃない、携帯は」

 紅茶を口に含むときに薫る柑橘系の薫りが、幼少の記憶を少し美化しているかもしれないと、頭に蘇る映像と自分の認識していた過去とが少しずれていることに気付き、不意に思った。

「返事を一度も返したことのない君が言えることじゃないと思うけれど?」

 私の二つ目のありふれた答えはどうやら彼にとっては不満だったらしく、少し強い語調で主張された。

「私から連絡が取れればそれでいいのよ」

 自分で言って、自分でも彼が今言おうとしてそれでも口を噤んだ言葉を重々承知しているから、彼はやはり何も言えなくなるのだろう。そんな形容詞が似合う年でもないけれど、幼い表情をする。

「…君は、そんなにも紅茶が好きなのに、どうして自分では淹れないんだ?」

 この話は解決しないと諦めたのか、彼は白いそれをポケットにしまいながら話題を変えた。私も自分のバックの底に眠っているブラウンのそれについてこれ以上話す気などさらさらないから、もちろん反論などない。

「それは、私の好きな味がインスタントでも手抜きの淹れ方でもないからよ」

 ナイフで均した生クリームが連なったかのような形のカップは、底にも模様が施されているようで、じっと水面を見つめればその実体はたゆたいながら姿を仄めかす。

「それはコーヒーはコーヒー豆から淹れたものじゃないといやというのと同じ感じか? 君のことだから面倒臭いというのもあるのだろうけど」

 付け加えられた言葉は、あながち間違ってはいないから否定できないのが悔しい。コーヒーのことなど全く知らないけれど、きっとコーヒーで例えたならそうなのだろう。

 マスターの背には壁を覆い隠す程の黒塗りの薬箪笥があって、小さな引き出しの数を数えてみれば十×十あるそれは、中華的な雰囲気を醸し出している。マスターはこれを紅茶葉を保管しておくのに使っているらしい。コーヒー豆も、いくつか種類があるらしく、見るからに重そうな八つのガラスビンが並んでいる。

 マスターが使っているティーセットはいつか写真で見て憧れたアンティークのそれによく似ていて、私はきっと同じ系統なのだろうカップを慎重に扱いながら、マスターは良家の子息なのだろうかなんて、柄にもなく推測してみたりした。

 あぁ。感嘆のような声を彼が洩らした。

「だからこの喫茶店を選んだんだ」

 わずかに細められた彼の視線はマスターの背にある薬箪笥を捉えたようだ。隠してあるお菓子を見つけ出した子供のような目をして笑う。そして顎で私の手元を示しそれも、と口の動きだけで言う。

 私は肯定も否定もしない。けれど彼は黙ってカップに口を付ける私を見て大方肯定ととったのだろう。満足気に笑みを湛え軽く後ろに凭れた。

 私は、まだ冷める気配を見せない紅茶を両手で包んだ。

 でしゃばらないジャズが店内に流れている。曲名も楽器名もどこの国のものなのかも知らないけれど、街中で流れる無意味に煩い曲なんかよりもずっと耳に心地良い。

 私がここに彼を呼び出したのは、単にこの喫茶店が気に入ったからではなかった。確かに静粛な店内は私の性質に合っていたし、調度品も味も好みだった。けれど、ここを選んだ本当の理由は、立地条件に依っていた。

 高層ビルに囲まれた一日中太陽の光が当たらないような路地裏で、最寄りの駅からは少なく見積もっても四十分は歩かなくてはならない場所。バス停もなければタクシーも滅多に通らないという環境。高層ビルはほとんどが寂れた株式会社で、この喫茶店以外、店という店が一軒もない。歩いて行ける距離というのが売りのはずのコンビニエンスストアだってない。きっとマスターは儲けようと考えているのではなく、本当に、趣味でやっているのだろう。

 そんなところだからこそ、私はここへ彼を呼び出した。最初はほんの好奇心だったのだけれど。出来心というものは際限なく発達していくものらしい。

 左手で行儀悪くも頬杖をつき、右側の窓を見ようと顔の角度を調節する。

 そうよ。

「好きなの」

 その角度で見える絵画のような風景は、窓の外の灰色だけがやけに浮いている。

 赤い花がついた枝を活けてあるその窓辺は、一般的な喫茶店の窓際の造りにしては十分すぎるほどの広さがあり、まるでマスターが花の為だけに用意したかのようだ。

 わびすけ。

 頭の中で名前を呼ぶ。

 千利休が好んだ花。おしべが退化し花粉がないので実が結ばない。知らずと人間に重ねて考えているからなのか、どこか切なく感じる。

 侘助。

 名前の由来は千利休に仕えてこの花を育てた庭師から。

 開花しても半開状態と、控え目に咲く彼の姿は、まるでこの店のようだ。

 その花の奥、磨きぬかれた大きな窓にその姿を反射させる彼は、落ち着いた姿勢ながら真正面の私を瞬いた目で見ている。

「こういう雰囲気とか、ここの味とか」

 静かに視線を彼と合わせる。十万年に一度一秒ずれる時計のような僅かな動きをもって、彼は一瞬苦笑いを口元に浮かべた。

「そう言うなら君の家はちっとも理想に適っていないように思うけど」

 苦笑いは正確さを備えて私へと向けられた。

 頬杖をやめる。そして座高を測るときのようにしゃんと背筋を伸ばしてその顔へと向き合う。背凭れに体は預けない。深く腰掛けもしない。たとえ見目が良くとも決して楽だとは言えないこの姿勢は、もはや一つの癖だった。

 私の実家は随分と年老いた日本家屋で、家人とは結び付かぬほどに厳かな雰囲気を単独で醸し出していた。私はそれに嘆かれぬように、叱られぬようにといつも姿勢を正していたのだ。

 ほんの少しだけ腰を深く掛け直す。

「好みと実用は違う次元の話なのよ」

 一人暮らしをしている自分の家を頭に引きずり出してみる。特筆して目立つものはなにもない。象牙と薄茶。それ以外の色は片手で足りるほどしかない。

 頭の中の家で自分の意識が歩き回る。冷蔵庫、テレビ、ベッド、服。その他のものは簡単には思い出せない。思い出せたそれらも、象牙色系統、薄茶色系統から逸していない。無意識に自分の根本的な部分が住みやすい色を選っているようだ。きらびやかな品は愛でるにはとても美しいけれど、共存するとなると途端に居心地が悪くなる。

 カップを手に取る。

「ティーセットがあるわ」

 頭の中に思い出すよりも先に声は出ていた。思考はそれから動き出す。

 金と白と赤と藍が絶妙なデザインで存在する陶器のティーセット。

「あの骨董屋で買ったっていう?」

 全くと言っていいほど繋がっていなかった私の発言に正しく適応する彼の脳は、見た目通り柔軟性を兼ね備えているらしい。

「そう。そのティーセット」

 そして私が使うことはない報われない華やかな陶器たち。食器棚に仕舞われたままだ。埃だけは被らないように注意をしている。

 じゃあ、と彼は言う。

「それで紅茶を淹れたらいいのに。茶葉はあるんだろう?」

 彼は堂々巡りが好きなのだろうかと疑いたくなる。それが表情に出ていたのか、僅かに彼は怯んで眉をだらしなく歪ませた。

「あなた自分で言ったじゃない。面倒臭いのよ」

 言われたときには少し不満だった指摘だが、その通りだった。結局は面倒臭いのだ。飲みたい欲求はいつだって私の惰性に勝りはしない。

 あの陶器たちに私は相応しくない。ただの私有欲だった。もしくはそれらを所有する自分像に憧れた。そんな賎しい自分にうすうすは気付いてはいたが、自覚しようとは今の今まで思わなかった。

 彼はそんな私を見透かすような目をして微笑んでいる。不釣り合いに、にやにやという擬音が似合いそうな口元で本心は擬態する。

「そうだね」

 堂々巡りが好きなわけでは、ないようだ。

「そうよ」

 わびすけが香る。

 彼は頬杖を衝いて手で口元を覆い隠し、会話でもしようかというような目でわびすけを見遣る。わびすけは応答するかのように彼を見つめている。

 聞き取れないようなくぐもった音が一瞬聞こえた。名前を呼ばれたようにも思えた。

 じゃあ、と彼が言う。

「じゃあ僕が毎朝君に紅茶を淹れて一緒に月を見るよ」

 手に遮断されながら伝わる声は意外にも透き通っていて、確実に私の脳へと浸透した。

 彼を眺める。

 無意識のような感覚で、視線を逸らしたままの彼の顔を見ていると、少しのあどけなさを発見した。少年の、不満気なような、照れ隠しのような、表情だった。

「ちゃんと言わないと私、返事しないわよ」

 彼が瞬きしたのを堰切りに、私は声にした。

 まるでわびすけへ言ったかのような台詞なんかでは満足できない。

 彼の目許は朱い。

「意地が悪いね…」

 彼は苦笑しながらこちらを向いた。

 口元の手が外され、肺の中の酸素を全て出すかのように息が吐き出された。あまり見てほしくなさそうな素振りを彼がするものだから、私はそんな一連の動作を目を逸らさず見ていた。

 彼が私を窺うようなまなざしで見る。私は平然を装う。彼はそんな私を責めるかのように一瞬睨んでみせた。

「…君が好きだよ。結婚してくれないか」

 またふとわびすけに視線をやった彼は、今度はすぐに私を見据えて、一変、挑戦的な瞳を向けてきた。

「一緒に暮らそう」

 こんな様子を不敵と称えるのだろうか。

 わずかながら耳が火照るのを感じ、耳に髪をかけているのを後悔した。頭を傾けて髪を落とそうかとも思ったけれど、それはなんだか負けた気がしてならない。

 不意に、押し殺したような笑い声が聞こえて辺りを窺うと、すぐにその根源を見つけた。

 私たちの会話が聞こえたのか、彼の背中の向く奥の席で、煙草を燻らしながら新聞を読む男性が楽しげな目でこちらを見ていた。三十代前半くらいだろうか、切れ長の涼しげな目に不精髭という身なりがなかなか様になっていて、不潔でない。ただ、喪服のように真っ黒な和服の着流しだけが、この場には異常だ。

 男は銜えていた煙草を左手で外して、小声なのか声は出していないのか、私に向かって一字一字区切るようになにかを言った。そしてどこか裏のありそうな笑顔を見せると、煙草を銜え直し、何事もなかったかのように新聞に向き直ってしまった。

 まるで今の出来事は私の幻覚だったかのように男はそこに座っているので、白昼夢でも見てしまった気分になる。

 ――またお越しください。

 マスターの声と重なるようにして鳴った店の入口のベルの音ではっとした。夢から醒める。どうやらもう一人いた客が店を後にしたらしい。わびすけの奥の窓から、パンツスーツを着こなした若い女性が、ヒールを響かせるような挑戦的な歩き方で向かいの歩道へ渡るのが見えた。

「私たち、」

 しぼり出した声が裏返っていないことに安心する。

「付き合ってないわよね」

 動揺しているのか冷静を保てているのか、自分でも判断しかねるまま私はそんな確認をした。

 パンツスーツの女性へと無意識に動かしていた視線を彼へと戻したとき、思わず視界に入った奥の席の男は、私のとよく似たカップを右手で持ち上げ、とても歳相応でない笑顔でマスターにおかわりを要求していた。

「そうだね」

 彼は素直に頷いた。

「今初めてあなたの気持ちを告白されて、同時にプロポーズというのはおかしいと思うの」

 彼の言葉に矛盾はない。矛盾があるのは私の方だと彼の目は言う。

「君は、ずいぶんと前から僕の気持ちを知っていただろう?」

 そう言って彼は首を傾げた。

「そうね」

 今までと変わらない態度を意識しながら、首筋までもが火照ってくるのを感じる。表情に乏しい性質でよかったと思った。顔まで紅潮してしまったら、隠しようがない。

「なら問題ないんじゃないか?」

 寧ろなにか問題でもあるのかと言いたげな口調だ。私の思考を知っているのかもしれない。

「……あなたの長所を素直なところと言う人がいるけれど、私から見たら短所だわ」

「どうして」

 急いたように彼は言った。不敵な顔振りとは裏腹に、彼にも余裕などないのだろうか。

 そう思うとなんだか愉快で、私は焦らしてやろうと冷め始めた紅茶に口をつけた。視線だけは外さないでいると、また一瞬、彼は幼さを覗かせた。

「だってあなた、どうせ私の返事なんて聞く気はないんでしょう。顔に書いてあるわ」

 冷静を装って、平淡な口調を努めてみる。彼から視線を外せないところが私の余裕じゃない証拠だなんてことに、彼は気付きはしない。

「そうだね、感情を全く顔に出さない君の気持ちに気付いたときは、それはもう嬉しかったよ」

 頬が熱くなるのを感じて、誰に言うでもなく心の中で紅茶の湯気のせいだと言い訳をする。もうそれほど熱くもない、冷めていると言っても過言でない紅茶が体温に勝っていないことくらい、妙に聡い彼はきっとわかっているだろうけれど。

「返事は?」

 聞く気などないくせにわざと催促するところが憎たらしい。

 感情を隠しもしない彼を、せめて非難する気持ちで睨みつけ、喉まで出かかった言葉を紅茶と一緒に飲み込んだ。

 カップの底には、真紅の薔薇が咲いていた。














「綾子」

 きっと、どんなにぬるいものからでも湯気が立ち上ぼりそうなほど凍えたベランダに、紅茶を淹れたレトロなティーセットを信也が二人分運んで来た。

 もはや当たり前になってしまったこの状況に今更お礼など口にできず、結局は何も紡がず無言でカップを受け取る。

 冬の朝六時半すぎ。まだ何も動き出していない朝の音が喉の辺りに集まり、やはり心を急かす。あと少しで動き出す、そんな雰囲気。怠惰な私には、それが好きになれないのだと思う。

 言えない言葉と喉の不快感といつまでたっても不明瞭なままの思考とを消すように、紅茶を一口飲み込む。

 熱いはずのカップも、あかくなるほどに冷えた指先には敵わない。感覚さえ鈍くなる。もう一口飲んで、指先にあたたかい息を吐く。出した分だけ空気は白くなり消えていくが、指先が温まる気配などない。気休めでしかない行為だが、厭う気はない。

「さむくない?」

 バーベキューも開けますよと不動産屋に紹介されたこの広いベランダに置いた、使い心地を追求したかのような丸いフォルムの三人掛けベンチ。傍らに置いたセットのテーブルに、持ってきたものを慎重に置いた彼が少し間を空けた隣に腰を降ろしながら尋ねてきた。毎朝同じことを尋ねて飽きないのかと疑問に思うが、そう問われるのをどこか嬉しく思う自分がいるものだから、やはり口には出せない。

 私はパジャマの上にカーディガンを羽織り、さらに信也のパーカーを着て厚い毛布に包まるという、蓑虫のようななんとも情けない恰好のまま、声を出すと余計なことまで口走りそうで首を竦めるようにして頷き返事をした。

 呼吸をすると、喉を突き刺すような冷たい空気が肺を侵す。内臓が冷える心地など全くもって感じないが、吐き出す呼気は確かにあたたかい。吸って吐き出すだけの行為の中で酸素が二酸化炭素に変化するだなんて、理論的に理解できても未だに感情では解らない。

 どれだけ指先が不感になろうとも敏感なままの舌で紅茶を味わう。立ち上る水蒸気は私の鼻腔へと侵入し、弛緩させる。

 鼻から啜った空気を口から吐き出すと、白い二酸化炭素が楕円のフォルムを作り出す。ふと思い出した、幼少のころ絵本かなにかで見たかわいらしい恐竜の形にはなりはしないが。楕円が消えたあとの鮮明になった景色では、いくらか空気が清んでいるように思うから不思議だ。

 またひとつ鼻を啜る。

 同時に、地上から二階のここまで枝を伸ばしている梅の、細枝に降り積もった銀の塊が枝のしなりに伴って落下した。どさ、ともぼす、ともいえぬ音が聞こえてくる。連鎖反応のように、その排他的な処理を他の枝も行った。夜の内に止んだ雪はそれ以上枝に負荷をかけることはなく、反動でゆらめく様がどこか満足気にも寂寥にも見えた。

 カップに口をつけようとすると喉の浅い場所が急に疼き、でてきた欠伸を顔を両膝に埋めて信也から隠す。不意に強くなった眠気にまぶたを閉じてしまうけれど、意固地なまでの理性が顔を上げさせた。重いまぶたをこじ開け、まだ熱いままの紅茶の残りを飲み干すと、胸の奥の辺りがじわりとほてるのを感じる。

 ほっと一息を吐くと、目の前の梅の木が忘れていたとばかりにもう一度枝をしならせて最後の雪を落とした。

 信也におかわりを頼もうとしたが、姿を現したそれに思わず目が奪われた。雪から脱け出したその枝には、赤い蕾が姿を現していた。名残程度に枝にまとわりついた雪の白銀にそれがよく映えている。

「梅」

 低い声に私の鼓膜は震えた。

 右に座る信也を見上げると、その視線は先程の私と同じものを捉えていた。

「もうすぐだな」

 まるで朝顔を育てる小学生のような顔で言うその言葉に、同じように感じていたのかと知ると思わず目許がほころんだ。

「…そうね」

 鼻歌でも歌い出しそうな彼におかわりを要求するのはやめて、重装備のまま立ち上がり、少しでも冷気がこの身に触れないようにと小股で歩く。保温性の高いポットからカップに注いでいると、後ろから、言ってくれればやったのに、と聞こえたけれど、理由を言うと嫌味のように聞こえるかもしれないと思い、結局は無言でまた彼の左側へと腰を降ろした。少しして、無言というのも嫌味のようになってしまったのではないかと不安になるのだが、すでに後の祭りだ。

 あの蕾はいつ頃花開くのだろうか。明日の朝か、明後日の朝か。きっと知らないうちに咲くのだろう。いつかの朝こうしているとき気付くのだ。あぁ、もう梅が咲いていると。あのわびすけのように咲くかもしれないし、真っ赤に、あの薔薇のように咲くかもしれない。この梅が満開になったらビールでも飲みながら花見をするのもいい。

 そんな思考に耽っていると、ふとこめかみ辺りに温度をもったものが触れた。なにかと思うよりも先に、まだ梳いてもいない頭を無造作にかき混ぜられた。振動で危うく零れそうになったカップの水面が静まるのを確認してから、となりの信也を非難の目で見てやる。

「……何よ」

「好きだよ」

 カップを落としそうになった。

 思いがけない笑顔と甘い言葉だ。愛情表現過多な彼だけれど、こんなに真っ直ぐに伝えられることは珍しくて、思わずまだ覚醒しきっていなかった目を瞬いて彼を凝視してしまった。

「…そう」

 私も、だとか甘い言葉には砂を吐きたくなるけれど、こんなときにはそんな言葉が言えない自分が恨めしい。

「うん、そう」

 彼はやわらかい笑みを浮かべながらこちらへと手を伸ばしてきた。なにかと思うと、表情に違わぬ手つきでいつの間にか食んでしまっていた髪を耳にかけ直してくれた。

 体が火照るのが嫌なくらいに解る。紅茶のせいでないことくらいわかるけれど、紅茶のせいにでもしないとやっていられない。甘い仕草など似合わないのだ。雰囲気ならば尚更だ。

「……あなた、性格変わったわよね」

 照れ隠しに不機嫌を装ってそう呟くと、少し考えた彼は思い当たったというようにあぁ、と漏らす。

「あの頃は綾子に好かれたい一心でね」

 何の気無しに言う彼に溜息が出る。

 喫茶店でのあのやりとりまでこそ格好のふざけた真面目な男という印象だったが、襟足の長い金髪に無数につけたピアスという、いかにもな外見から、黒の短髪に閉じ始めたピアスホールという外見に変わっていくにつれ、まるで反比例するかのように性格も変わっていった。

 この、下手すれば軟派で軽いとさえとれる甘い性格は、あのときの外見にこそ似合うものではないのか。あのときの真面目さは、この外見にこそ似合うものではないのか。

「騙された気分だわ」

「でも嫌いじゃないだろ?」

 不遜気に言われても、不快感など全くない。だから困るのだ。

「…どこからその自信はくるのよ」

 当たっているだけに自意識過剰などとはなじれず、素直じゃない返事しかできない。すぐに渇く咥内を潤すべく紅茶を飲む速度は上がっていく。

「綾子は口に出しては言わないけど」

 彼が言う。返事など求めて言ったことではないので僅かながら驚いた。

 考えるような素振りで次の言葉を勿体振る。

「どこからの自信なのかって言われたら、まぁ、強いて言えば。気を遣って、寒がりなくせに自分で紅茶注ぐところとか。無意識だろうけどちょこちょこ俺のこと見てるところとか。いろいろなことして俺のこと試してるところとか」

 彼はよどむことなくすらすらと述べていった。

 羞恥で死ねるのならば、私は即死かもしれない。

 気付かれていないと思っていたことが見透かされていたと知ったとき、人は放心するのだろうか、呆然とするのだろうか。きっとその両方だろう。

 あと、と彼は付け足す。

「月なんか全然見てないところとか」

 思わず彼の方を向いてしまった。信じられないという気持ちだった。

 梅を見ながら喋っていた彼がこちらを向く。私は羞恥に目を逸らすことも忘れた。

「知ってるからいいよ」

 そう言った彼はかわいらしいリップ音を響かせて私の額へとキスをした。それに泣きたくなるくらいの喜びを感じている私はすでに末期なのだろうか。

「俺しあわせなんだよね」

 今度は目許へとキスを落とした。顔を離すと彼は顔をくしゃくしゃにした笑顔でそう言い、大きなてのひらで私の頬へ触れると親指で数回撫でた。それでもまだ呆けて動けない私に、もうひとつ鼻へとキスを落とすと彼の手は離れていった。

 なかなか冷めない紅茶は陶器を通して私の皮膚を適温よりも温めて痛いぐらいだったが、そんなことをどこか遠くのことに感じていた。

 飲まないの? と彼が見透かすような目をして私からカップを取りテーブルに置く。飲まないのではなくて、すべての関心を、今、あなたに奪い取られてしまったのだと見透かしてほしい。

 手持ち無沙汰になった両手が行き場を失う。

 甘えてみてもいいだろうか。この胸にいつだって燻っている熱を明かしてもいいだろうか。

 彼は、白い月を見ている。

 白い月を見るのが好きだと言ったあの言葉は、口実なんかではなかったはずなのに。

「信也、」

 彼の手に触れて、何気なさを装って彼の肩に寄り添ってみる。彼がおどろいているのが顔を見なくても反応でわかって、面白かった。

 燻る熱は膨張していくばかりだけれど、絡められた手を見ているとそれでいいと思う。

「月がとてもきれいね」







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