7日目午後-23
グォォォォンッ……!!
その声を聞いた町の者たちが一斉に反応した。寝ていた者は飛び起き、酔っ払っていた者は我に返り、兵士たちは武器を持って走り出し、町の人々は窓を閉めて灯りを消す……。町は大規模な魔物除けの結界によって守られているので、町の中に獣が入ってくるなど、結界を作る魔道具が壊れたか、魔物が限界を超えられるほどに強力だったか、あるいはそれ以外の特殊な理由がなければありえないことなのだ。それを知っていた町の人々は慌てふためいてしまった、というわけである。
実際、町の中には、獣の姿があった。真っ黒い毛に覆われたソレは、空に浮かぶ月を見て、まるで遠くにいる仲間へと呼びかけるかのように、大きな鳴き声を上げたのだ。
ただ、その鳴き声は、たったの1回だけ。それゆえに町の人々には、どこから声が聞こえたのか分かず……。町の中で獣を探して走り回るものの、結局、皆、獣の姿を見つけられずに、この日は大人しく、各々自宅に籠もることにしたようだ。
彼らが獣を見つけられなかった理由は単純である。獣が地面にはいなかったからだ。
そしてもう一つ。獣が1回しか鳴き声を上げなかったことにも理由があった。真っ先に"獣"の存在に気づいた小枝が、その獣を重力制御システムで拘束して、一気に屋根の上へと跳ねたのだ。現在の木下家(?)は、町の中でも有数の高層建築物なので、屋根の上に上がってしまえば、誰にも見られないと考えたらしい。
真っ黒な毛に覆われた体長1.5m――いや、身長1.5mほどの2本足で立つその獣の姿を見て、小枝は普段通り目を瞑ったまま、険しそうな表情で問いかけた。
「ノーチェちゃん……ですよね?」
ふさふさとした毛に埋まるように頭につけられている銀色のカチューシャ。それは小枝がノーチェに対してプレゼントしたものだった。いくら獣の頭が良かったとしても、獣が自ら好き好んでカチューシャを頭に取り付けるなど考えられないので、消去法的にノーチェしかありえなかったのだ。
そして、実際、その獣は、ノーチェだったようである。本来しゃべられないはずの彼女は、しかし少女が発するものとは思えないほど低い声色で、小枝に向かって話し始めた。
「……オ洋服ヲ、ヤブッチャッタ……。ゴメンナサイ、オ姉チャン……」
「それはまぁ、作り直せば良いだけなので問題はありません。それより、ノーチェちゃん――」
ノーチェは次に小枝から飛んでくるだろう言葉を想像して身構えた。……おまえは化け物だったのか。私たちを騙していたのか……。そんな酷い言葉が飛んでくるかもしれないとノーチェは考えてしまったのだ。自分たちの種族以外で、初めて出会った親切な人間。それが小枝たちで、そんな彼女たちに嫌われるというのは、ノーチェにとって、恐怖以外の何者でも無かったのである。
そんな彼女たちの種族は、もともと人間ではなく、魔物が魔法を使って人に化けた者たちだった。ゆえに月の姿を見ると、身体の血が騒ぐのか、元の姿に戻ってしまうのだ。
なので、ノーチェとしてはできるだけ月を見ないようにしていたのだが、小枝がカイネとアンジェラを別邸に案内しようとした際、その後ろを付いて行き、うっかりと外に出てしまい……。夜空に浮かんでいた月の姿を見て、元の姿に戻ってしまったのである。
結果、ノーチェは、この期に及んで、自身の軽率な行動を後悔していたようだ。姿を見られるのが無関係の町の人々ではなく、よりにもよってなぜ小枝なのか……。自身にとって一番と言えるほどに大切な人から飛んでくる容赦の無い言葉——"常識"という眼鏡が作り出す刃のような言葉を想像して、ノーチェは心が締め付けられたのか、その大きな手を胸に当てた。
ただ、どうやら、ノーチェがもつ常識と、小枝が持つ非常識とは、まるで生きてきた世界が異なるかのごとく、互換性を持たなかったようだ。
「ノーチェちゃん、しゃべれたのですね?」
「エッ……?」
「もしかして人の姿でもそのように低い声……いえ、ハスキーボイスなのですか?だから喋らないようにしている、と……」
自身が獣であることを一切気にする様子無く、いつも通りに問いかけてくる小枝を前に、ノーチェは思わず面食らった。これまで出会った人間たちは、皆、獣の姿をした自分を見るや否や、逃げるか、武器を向けるかのどちらか。人の姿に変身しても、完全な人間にはなれない彼女たちは、似た姿の獣人たちと同じように見られて、やはり迫害され……。挙げ句の果てには、人の姿でいるときに力が弱くなるということを見抜かれて、誘拐までされてしまったのである。
ところが小枝の反応は、これまでに会ってきたどんな人間ともまるで異なっていて、怖がる素振りを一切見せず……。飛んで来た言葉も、自身の容姿についてではなく、まさかの声の太さについて。突き放されるものだと思っていたノーチェにとっては、予想外の反応を見せる小枝に対し、なんと返答して良いのか分からなくなってしまったようだ。
「…………」
「……ノーチェちゃん?」
「……オ姉チャン、私ガ魔物ナノニ怖クナイノ?」
「えっ?何故怖がる必要があるのですか?」
「エッ?ダッテ、ワタシ、人間ジャナイヨ?」
「人間じゃないからって、それがどうかしたのですか?」
「エッ……?」
人間ではないことが何だというのか……。小枝のその言葉を聞いたノーチェは、なんとなく心が温かくなった。酷い扱いをしてくる人間の中にも、自分のことを受け入れてくれる優しい人間がいる……。そう感じたのだ。
しかし……。彼女の期待は、ある意味で裏切られることになる。
「だって、私も人間ではありませんし……」
小枝がそう口にした瞬間だった。虚空が音も無く割れて、そこから巨大な何かが現れたのだ。
ノーチェから見る限り、小枝の姿は、大きな月の逆光になって、よく見えなかったようである。ただ、ノーチェにもよく見えるものがあった。
珍しく目を開いた小枝の赤い瞳とは別に、宙で輝く真っ赤な3つの光点。圧倒的な威圧感を持つ3つの巨大な眼が、自分のことをギロリと見下ろしているその光景を……。




