2日目-07
それはあり得ない事だった。炎の中で平気な者など、火竜か、炎の妖精か、あるいは火山帯に住む魔物くらいなのである。人間が炎の中に立つなど、普通のことではなかった。それもまるで、炎自体に気付いていないかのように、涼しげな表情を浮かべながら……。
そんな黒髪の少女の登場は、黒服の男たちにとって想定外のことだった。その上、炎の中に平気な顔をして立っていたのだから、彼らの混乱は想像を絶していたに違いない。
しかし、彼らが固まっていた時間は、ほんの数秒間だけだった。
「…………っ!」
自分たちの崇高な目的を達成すべく、リーダー格の黒服の男性が動く。今度はナイフではなく、腰から短剣を引き抜いて、黒髪の少女に向かって斬り掛かったのだ。
しかし——、
ユラリ……
——少女の身体に刃が届く直前、蜃気楼のように少女の身体がブレる。結果、彼の刃は、虚空を斬るだけで得るものは無かった。
「ちょっと、火傷しますよ?そんなことしたら……」
自分に斬り掛かるようにやってきた黒服の男を避けた少女が、眉を顰めながらそう言うと、部屋の包み込まんとしていた炎が——、
シュッ……
——と嘘のように消える。暑かった部屋の空気も、まるで冬の夜のように、キンと冷たくなった。
その現象は、男たちに対し、混乱と恐怖を抱かせるのに十分なものだった。……この少女は何者なのか……。3人共が同じ事を考えていたようである。
実のところ彼らは、領主の館と、その中にいる人々の構成について、何年も掛けて詳しく調査してきたのである。しかし、目の前にいる黒髪の少女のことなど、これまでに得た情報の中には当然存在せず……。もはや何が何だから分からない、と言っても過言ではない状況だったようだ。
だが、彼らの混乱は留まるところを知らない。
「まったく、火遊びをするなら、外でやってくださいね?」
少女はそう口にすると、何食わぬ顔で——部屋の扉から外へと出て行ったのだ。
「「「…………?」」」
さっきの少女は何をしに来たのか……。3人共が思わず顔を見合わせた。その場には、未だ眠り続けていた領主の姿があったので、領主を守るためにやってきた訳ではない。かといって、自分たちに対して危害を与えるためにやって来たわけでもない……。
黒い髪の少女について、彼らどんな結論が出したのかは不明である。ただ確実に言える事は、彼らはその夜、領主を害する事無くその場から大人しく立ち去っていった、という事だけだ。おそらく彼らは、こう考えたのだろう。
すなわち——あれは自分たちとは異なる原理で動く、同業者なのではないか、と……。
◇
「(あー、やってしまいました。あの子のことを助けるつもりは無かったのですが、つい手を出してしまいました……)」ぽりぽり
その頃、小枝は、領主の館にある塀の上に立っていた。彼女に領主を救うつもりはなかったらしく、自分の行動を思い返して反省していたようである。……なお、小枝は、黒服の男たちに襲われていた少女がブレスベルゲンの領主であるとは気付いていない。
「(この世界にいる人々のいざこざに首を突っ込まないようにしようと思っていましたが、こう目の前で殺人の瞬間を見てしまうと……儘ならないものですね……)」
彼女が立っていたのは、領主の部屋の中を望むことが出来る場所だった。彼らが諦めずに領主の少女を殺めようというのなら、そこからメーザーを放って、足止めするつもりでいたようである。……そう、小枝は、現代日本で生活してきた影響か、領主の少女が殺される瞬間を見過ごすことも出来なかったのだ。
「……ま、そんなこともありますよね」
黒服の集団が、無事に領主の館から出て行った様子を確認してから、ふわりと宙に浮かぶ小枝。それから彼女は、重力に逆らうこと無く、塀を飛び降りて……。そして夜の町の中へと消えていったのである。
◇
領主——アルティシア=ヘンリクセンは、実のところ目を覚ましていた。ベッドに横になっていた彼女は、屋敷に賊が侵入した時点で、魔道具によって目を覚ましていたのである。
彼女が目を開けて、刺客たちに対応しなかった理由は単純明快。……彼女は死ぬ気でいたからだ。
訳あって親から領主の座を受け継ぐことになったアルティシアは、領主になった当初から色々な問題を抱えていた。幼いゆえに統治の経験が少ないこと、それゆえ統治の仕方に共感者が得られず孤独だったこと、そしてなにより彼女自身の身体が病弱だったこと……。
このまま生きているよりも、誰か有能な領主に変わってもらい、その者に統治をしてもらった方が、よほどこの地に住まう者たちにとっては良いことなのではないか……。この地を治める名君は、誰にも相談できないそんな悩みを抱えて生きていたのである。そう、彼女は12歳という歳で、人の上に立つという孤独を味わっていたのだ。
そしてこの日、彼女の人生において、ある種の"答え"が出ようとしていた訳だが……。それは、突然の来訪者によって、遙か未来へと遠ざかってしまう。
「あの子、誰なのでしょう……」
見たことも無い服を着ていて、見たことも無い綺麗な黒い髪をしていて、見たことも無いほどに強くて……。それでいて、目的は不明で、自分を助けたかと思えば、暗殺者たちをその場においてどこかへと消え去っていく……。
「ふ、ふふっ……」
アルティシアは思わず笑ってしまった。去って行った少女のことを、まるで猫のような行動をする人物だと思ってしまったのだ。
そして何より、彼女は嬉しかった。媚びへつらうか、敵意を向けるか、そのどちらかしかいない者たちに囲まれている中で、自分の命を救ってくれた少女だけは、そのどちらでもない立場で自分と接してくれるような気がしていたのだ。
「また会えるかな……会いたいな……ケホッ……」
そんな小さな希望が、彼女に生きる目的を与える。
……ただまぁ、当の黒髪の少女は、自分の行動がそんな風に見られているとは、まったく予想だにしていなかったようだが。
何か……補足すべき事があったような気がしたのじゃがのう……。
何を書こうとしていたのか、忘れてしまったのじゃ。