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2.10-06 遅延06

 宿屋に到着したセルマたちは、建物に入るなり、揃って眉をひそめた。どうやら、想像していた宿の印象とは違っていたらしい。


「普通の宿だな。いや、その辺の宿よりは、よほど良い宿なのだろうが……」

「ふむ、変わったところはなさそうだな」

「宿の中も魔境と化しておると思うたが……安心したわい」

「もう、師匠様方、どんな宿を想像されていたんですか?」


 彼らの表情は険しいが、どうやら宿の中に異常を見つけたというわけではないらしい。逆に、あまりに“普通”すぎて、面食らったのだろう。彼らの目には、宿の外の景色がそれほどまでに混沌として見えていた、ということか。


 彼らが選んだ宿は、ブレスベルゲンでも最大規模。大人数の滞在にも対応できる、唯一の宿だ。


 ギラギラとした日差しが降り注ぐ外とは対照的に、宿の中は、ひんやりとした空気に包まれていた。1階が半地下構造となっているためだろう。構造的に考えられたクーラー、といったところか。


 天井が高く取られた受付のホールには、冷気のほかに、静寂が同居していた。食事処は受付とは別の場所にあるらしく、声が漏れ聞こえてくることはない。窓の外の町の喧騒すら届かず、耳に入ってくるのは、チックタックという時計の音だけ。外界から切り離されたような落ち着いた空間が、高級宿らしい佇まいを演出する。


 セルマたち以外に、客らしき人物は見当たらなかった。やはり高級宿らしく、庶民が気軽に足を踏み入れられる場所ではないのだろう。


 そんな宿の雰囲気に、学者たちは好印象を抱いているようだった。


「ふむ。まずは、受付を済ませてしまおう。……セルマや」


「はい。お任せください」


 どうやら雑務は、この異世界においても、若者の役割らしい。老齢の学者たちは、冷気が行き渡るホールの構造や、壁にかけられた調度品、装飾品の材質などを目で追いながら確認していた。中には懐から小さなメモ帳を取り出し、何かを書き留めている者の姿もある。ブレスベルゲンに住んでいる者にとっては"普通"のものだが、彼らにとっては"目新しい何か"に見えているのかもしれない。


 そんな中、セルマは、学者たちから離れて、受付へと足を進めた。踏みなれないカーペットに戸惑いつつ、冷静を装って歩いていく。


 彼女が受付に近づくと、カウンターの奥に立つ女性の姿が目に入った。どうやら、相手もセルマに気づいたようだ。非の打ちどころのない営業スマイルを向けてくる。


 均整の取れた豊満な肢体、上品さを基調とした制服、そして見る者を一瞬で虜にしかねない、美しすぎる笑み……。王都にある高級ホテルでさえ見劣りしかねないほどの洗練さに身を包んだ受付嬢が、セルマに優しく声をかけた。


「本日はようこそ当ホテルにお越しくださいまして、誠にありがとうございます。ご予約の方でしょうか?」にこぉ


「え、えっと……」


 魅了されるような微笑みと、聞いたこともないような丁寧な喋り方に、セルマは緊張した。それと同時に、得体の知れぬ不安が胸をかすめる。


「(よ、予約……?)」


 この世界において、予約システムを採用している宿は稀である。先着順での受付が一般的だ。だからこそ、旅人たちは朝のうちに宿泊手続きを済ませようとするのである。


 予約という制度があるのは、王都などの大都市くらいのもの。ブレスベルゲンのような辺境都市に、そのようなシステムが存在するとは、セルマにとって初耳だった。


 恐らく、それは他の学者たちにとっても同じことだろう。もしも事前に知っていたのなら、情報共有があるはずだからだ。


 ゆえに、セルマは狼狽した。高級そうな宿で、彼女一人が門前払いを食らうというのなら、まだ許容はできた。だが、今、彼女の肩には、二十人分の今夜の寝床がかかっているのである。そう簡単に引き下がるわけにはいかない。


 セルマは掌にじっとりとした湿り気を感じながら、勇気を振り絞って聞いてみた。


「よ、予約はしていないんですけど……泊まれないですかね……?」


 彼女の問いかけに、受付嬢の眉が小さくピクリと動く。表情が崩れたわけでも、態度が変わったわけでもない。

 けれども、それだけでセルマは――、


「え、え、えっと……し、失礼しました!!」


――と、その場から逃げ出そうとした。


 受付嬢の眉がほんのわずか動いただけ。それだけで、これほどの反応を見せるのは、普段の冷静沈着なセルマには到底考えられないことだった。


 それほどまでに、セルマは、受付嬢の中に、何か異様な気配を感じ取っていたのだ。見た目はただの女性。たとえ、"上品な"という言葉で徹底的に飾り付けたとしても、その雰囲気は決して人間の域を出ることはないというのにだ。


 もちろん、受付嬢から殺意が出ているわけではない。オーラが出ているわけでもない。セルマは、どうしても受付嬢から目が離せなかった。その一挙手一投足にまで、自分の意思とは無関係に、目を奪われてしまうのである。


 それは、本能的な恐怖。セルマの呼吸が乱れる。焦点は定まらない。後ずさろうにも、もはや足すら動かない……。


 ついには、視界がだんだんと暗くなってきた――そんなときのこと。


「お待ちください」


 受付嬢のその言葉に、セルマはふと我に返った。


「……な、なにか?」


 乱れた息をどうにか整えながら、セルマは喉から声を絞り出した。だが不思議なことに、先ほどまで彼女を苛んでいた息苦しさや不快感は、霧が晴れたように消え去っていた。時計の針が、カコンと時を刻むたびに、彼女の身体に残っていた緊張が解け、呼吸もゆっくりと落ち着いていく。


 対する受付嬢に、特に変化は見られない。今なお慈愛に満ちた笑みを浮かべながら、セルマの方を静かに見つめていた。


「お泊まりの方は、二十名様でよろしいでしょうか?」


「あ、はい……二十人ですが……」


「ちょうど、二十名様分のお部屋が空いております」


「?!」


「いかがなさいますか? ご宿泊になられますか?」


「え、えっと……」


 この時にはもう、セルマを覆っていた違和感や圧迫感は、跡形もなく消え去っていた。まるで、熱い飲み物が喉元を過ぎていったあとで、それまでの苦みすらも思い出せなくなるように。


「一泊……いくらですかね……?」


 セルマは受付嬢が滲ませる上品な気配に少し気圧(けお)されながらも、どうにか金額の話を聞いた。自分たちが高級宿にも泊まれるほどの予算を持っているからといって、常識的な予算が非常識な町で通用するかは分からないのである。警戒しておくのは当然の事だった。


 ところが、受付嬢から帰ってきた返答は、セルマにとって意外なものとなる。


「1泊につき、お一人様2万ゴールドです」


「2万……ゴールド?(普通……?いえ、このクラスの宿ならかなり安い?)」


 高級宿で1泊2万ゴールドというのは、異常とまでは言わないが、かなり安い金額設定だった。セルマにとっては拍子抜けだ。彼女はホッと安堵の息を吐く。


 ……結果的には、それが悪かったのかもしれない。


 息を吐いた彼女の口からは、緊張の糸だけでなく、「警戒」という二文字まで抜け出てしまったのだから。


「ただいま、キャンペーンを実施しておりまして、当ホテルを初めてご利用の方には、特別価格でご案内しております。ただし、チェックアウトの際にご精算をお願いしておりますが……お支払いは“金硬貨”のみとさせていただいております。あらかじめご了承ください」


 その言葉が何を意味しているのか……。ブレスベルゲンの外からやって来たセルマには、理解する余地など、あるはずもなかった。


この前、お休みした分の文量を書いたのじゃ。

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