6日目-3
小枝はスキップをしながら、領主の館へと足を向けた。今日もアルティシアと会える事を考えるだけで、自然と嬉しくなってきたのだ。小枝にとってアルティシアは初めての友人だったので、気分が上がってしまったとしても不思議はないと言えるだろう。
そんな彼女は、いつも通りに、領主の館の塀を垂直に歩いて登り、警備の手薄な塀の上から屋敷に侵入しようと考えていた。とはいえ、ここ数日間、毎日のように館へとやってきていた彼女としては、屋敷の警備などザル同然。正面から入ったとしても、見つからない自信があったようだ。もちろん、異相空間制御システムを使わずに、だ。それでも、警備が手薄な部分から侵入したのは、一応人間らしく振る舞おうと考えた結果か。まぁ、壁を歩いて登るのが人間らしいかどうかはまた別の話だが。
しかし、そんな彼女の目論見は、今日だけは外れることになる。高い塀を越えて、そこから屋敷のセキュリティを眺めていた小枝の目に——、
「……ま、まともに警備してる……」
——少なくない数の兵士やメイド、執事たちが、真夜中でも屋敷の中を往来している姿が入ってきたのだ。
「(おかしい……ザルじゃない……)」
おかしくないことがおかしい……。これまでのザル警備を思い出した小枝は、まるで別の屋敷に来たかのような錯覚に襲われた。
しかし、当然、ブレスベルゲンに、領主の館が何軒も建っている訳もなく……。結果、小枝は、ある可能性に思い至ることになる。
「(まさか、アルティシアちゃんに何かあったのでは?!)」
小枝は直感した。……普段は静まりかえっているはずの屋敷の中のセキュリティが、異常なほどに上がっているのは、何かが起こった証。例えば、アルティシアが、ガベスタンの者たちに害されたのではないか、と……。
それからの小枝の行動は早かった。彼女は、すぐさま、アルティシアの部屋にあった窓の前まで移動すると、部屋の中を覗き込んで、中の様子を確認し始めたのだ。
すると、そこにも3人ほどのメイドたちの姿があって……。ベッドの上で眠っているアルティシアの近くで、彼女のことを警護しているかのようだった。どうやらアルティシアの身に何かが起こったというわけではなかったようである。
「(……生きてはいますね。コンディションが悪いというわけでもなさそうですし……はて?では、一体何があったのでしょう?)」
小枝は館の警備が厚くなった原因を考えながら、アルティシアの部屋の中に乗り込む算段を立てた。そして迷うことなく、それを実行に移す。
まず、彼女は、異相空間に移動した。そして壁を抜け、メイドたち3人のところへと行き——、
ぷぅ〜ん……
——甘い匂いを漂わせ始めた。
それは、小枝がグレーテルたちと飲もうと思って用意してきた、ココアの粉の香りだった。彼女は、料理の文化が異常なこの町——いや国ならではの作戦を思い付いたのだ。
ぷぅ〜ん……
「(……先輩、何か甘い匂いがしませんか?)」
「(……しっ、アルティシア様が起きるわ)」
「(…………)」ぐぅぅぅ……
一人だけ無言だったメイドの腹部から大きな音が鳴る。しかしそれはこれから起こる惨事の序章にしか過ぎない。
ぷぅ〜ん……
小枝は次にココアではなく、昼ご飯でサンドイッチに挟もうとしていたアプリコットジャムの香りを、部屋の中に漂わせ始めた。彼女の能力である物体を自由に加熱・冷却出来る機能を使えば、ジャムの香りを部屋一杯に広がらせるなど、造作もないことだったのだ。
「(んぐっ……!)」ぐぅぅぅ……
「(が、我慢なさい)」ぐぅぅぅ……
「(…………っ!)」グゴゴゴゴ……
敵襲があるわけでもなく、ただただ良い匂いが立ちこめてくるだけ……。そんな部屋の中にいたメイドたちは、どうすべきかを悩んでいた。良い匂いが立ちこめてきたからと言って、兵士たちを呼ぶというのは如何なものかと考えたのだ。
結局、実害があるわけではないと判断した彼女たちは、兵士を呼ばなかったようである。匂いがするだけで兵士を呼ぶというのは気が引けることだったらしい。
それがいけなかった。状況は悪化の一途を辿ったのだ。今度は、甘い香りではなく、香ばしいスープのような香りが漂い始めた。
「(せ、先輩!もうダメです!)」じゅるっ
「(が、我慢……)」グゴゴゴゴ……
「(……げ、限界……)」ぷるぷる
今は深夜2時ころ。彼女たちが夕食を食べたのは午後8時ころ。ちょうど空腹になってもおかしくない時間帯だった。そのタイミングで暴力的とも言える匂いに襲われたのだから、彼女たちとしては堪ったものではなかったに違いない。まさに、飯テロである。
ちなみに、小枝は、なぜ匂いを使ってメイドたちのことを攻撃しようと考えたのかというと、アルティシアに接するための穏便な方法が、それ以外に思い付かなかったからである。力でねじ伏せることは簡単だが、それはアルティシアが望んでいないはずで……。あるいは、無傷でメイドたちを排除したとしても、アルティシアを守れなかったとして、後でメイドたちが罰せられると考えたのだ。もちろん、アルティシア以外に、である。
それらの結末を回避して、アルティシアもメイドたちも納得出来るような展開に持ち込むためには——、
「(そろそろ抱え込めますかね?)」
——3人を巻き込むしかない……。小枝が辿り着いたのは、珍しくも、そんな平和な解決方法だったのだ。
そしてその瞬間は訪れる。
「……もう私が限界です。皆さん、お願いしますから、今からここで起こることは代官には黙っていて下さい!」グゴゴゴゴ……
ベッドで横になっていたアルティシアが我慢の限界を迎えて、上体を起こしたのだ。




