くちびるさくら
その日、新開邸で万智人は完全に不意を衝かれた。
強い歌声――――――成熟した、珍かなる美声。
夏大島の明るい青のろうけつ染めに、淡い浅葱と銀の混じった帯を着つけた新開夫人・美玻璃の母が、藍色のレースの扇子を煽ぎながら万智人を見据え歌っている。
逃さぬ獲物を見るように。
広い台所で、万智人は水を貰おうとしていた。
他には誰もいない。
婦人の歌声に頭が痺れ、硝子コップが落ちて割れる。
それすら問題無いように絡め取る声音に、万智人は意図せず一歩、二歩と夫人に歩み寄っていた。
夫人の閉じた扇子の先が、万智人の顎に触れる。
白魚のような手が左頬に、シャツの第一釦を外して胸に。
そのまま、真紅の唇が万智人を味わおうとした時だった。
夫人より更に繊細な、幾千幾万の宝にも劣らぬ、細く高く麗しい歌声が響いた。
夫人の得体の知れぬ洋楽と違い、歌詞は誰もが知っている。
さくら さくら
やよいの空は
みわたす限り
かすみか雲か
匂いぞいずる
いざや いざや
見にゆかん
万智人の縛めが解けた。
夫人は実の娘に氷のような眼差しを向けると、しゃなりしゃなりと優雅に立ち去った。
苦しげに喘ぎながら、はは、と万智人が胸元を押さえて笑った。
これだから油断出来ない。
人魚。
―――――――セイレーンの血筋。
「妬いてる?美玻璃」
「油断だよ。万智人」
「ほら、やっぱり妬いてる」
万智人はそう言い指すが、美玻璃の口調はいつも通りに軽やかだ。
唇は母親である婦人と違い桜色。
万智人は紅より桜を愛でる。
こよなく。
「季節外れにさかって見っともない。爛熟した花だな。あれは」
「妬いてるね」
反論は吐息ごと奪った。
さくらを歌った桜を、美玻璃の抵抗を封じて。
調理台より後ろに逃れられない、華奢な少女を閉じ込めて。
美玻璃は抵抗らしい抵抗はしなかった。
万智人が動きを止めて唇を離す。
すると一度だけ。
首を伸ばして自ら、甘い桜を万智人に与えてくれた。