マーブル
目覚めた美玻璃はいつもの朝と同じように、枕に置いた頭を右に転がし、長方形の金時計を見た。
午前八時。
この時計は家に元からあった物で、美玻璃の蒐集品ではない。
大正期に作られたらしいが、美しさは及第点だ。
時々、この鈍器で頭を殴打され、ベッドに自分の遺体が横になる様を想像する、と万智人に話すと嫌な顔をされる。
嫌な顔をするのは、万智人が美玻璃を好いているからだ。
だから美玻璃は、それを見たいが為に悪趣味なことをわざと言う。
薄い青の、絹のカーテンを開け、窓を開けると気持ちのいい初夏の風が吹き込む。
庭に咲く紅の牡丹と、橘の白い花、四阿に下がる藤がそれぞれに色鮮やかだ。
花々を見つめる美玻璃の横顔は、儚い。
本当は蒐集品よりも、自然の草花のほうを美玻璃は愛でる。
慈しむ。
けれどそれだけでは足りない何かが、美玻璃を美術品に走らせる。
美への感動に、彼女は常に飢えていた。追われるように。
〝僕では駄目かな〟
揺れるカーテン。
二重になったレースのほうのカーテンが美玻璃の頬をくすぐる。
いつか、万智人が真剣な顔でそう迫った時、美玻璃は緑と金の混じる瞳を震わせた。
動揺して混乱した。
美しいものは美玻璃を裏切らない。
万智人の容姿は控えめだが、美玻璃が美とする範疇には入る。
けれど生きている。
美術品たちとはまた異なる生を。
〝万智人が私を裏切らない保障は?〟
〝僕の心の断面図なんて無いよ〟
〝じゃあ〟
駄目だと美玻璃が続けようとしたのを万智人が遮った。
〝けれど―――――――〟
その続きを聴いた時、美玻璃の胸から何かが剥離して落ちた。
美が、蒐集が遠のき、万智人という人間の輪郭だけがくっきりと際立った。
数ある蜻蛉玉の中でも、元々、ビー玉として作られた物がある。
それがジャーマンマーブルだ。
高度な技術を駆使して作られ、上流階級の嗜好品だったジャーマンマーブルは、1800年代の終わりから1900年代の初め、第一次大戦の勃発で硝子工房が閉鎖されるまでにドイツで作られ、オランダ経由でアフリカ向けに輸出された。
美玻璃の目の前にあるジャーマンマーブルは、ピエロが曲芸に使う玉のようにカラフルだった。
ローマングラスのような重厚な美より、軽快な美だ。
口に含む飴玉のよう。
手作りの証として、特殊な鋏でねじ切られた跡が穴にある。
鈍い灰色ピンクに見える地に青とピンクの二本線、緑とピンクの二本線、そして白とピンクの二本線が螺旋を描くように球体を彩っている。
一センチほどの蜻蛉玉を、美玻璃は手に取り慈しむように掌で転がした。
「これは、ビルマはチン族伝来の希少な玉だ。…元はドイツの森の硝子工房で作られていたものが、異国に売られるようになった。不憫だな」
「そうかい?」
広い応接間の、豪華なソファに行儀よく座った万智人が疑問を呈する。
向かいのソファに脚を組んで座る美玻璃は、万智人に否定的な目を向けた。
「森の硝子工房だぞ?環境的にはそこで作られ過ごすのが、ジャーマンマーブルの幸せだろう。情操教育にもなる」
まるで子供のことのように言う。
「でも、どうせ商売で売られるのは同じだろう?」
「生国にいたかった筈だ」
「世界を見たかったかもしれないじゃないか。美玻璃。君のように美しさを求めて」
「………私なら森の工房に留まるよ。そのほうがきっと、美しい」
どこか遠くを見る眼差しで、美玻璃は言った。
そんな美玻璃を、万智人は熱の籠った目で見る。
〝けど僕が万一、美玻璃を裏切ったなら、その時は僕を殺して良いよ〟
赤い血を最後の一滴まで美しく流して見せるよ、と。
「この時代、硝子に穴を開けるとは尋常でない努力と熱意が必要だ。チン族はそれをやってのけたんだな」
美玻璃は話の方向をずらした。
「硝子玉に穴を通す…」
「そうだ」
「僕には解る気がするよ。美玻璃」
美玻璃は今度は、視線を万智人から逸らした。
「……そうか」
最後の一滴までと言った万智人なら、そうかもしれないと思った。
最後の最後まで心を貫こうとするだろう。
そしてどんな特殊な鋏で以てしても、万智人の想いはねじ切れまい。