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桜花潮流  作者: 菅 承太郎
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依頼承諾

 良子がポスターを掲示した二日後、鼻風邪をひいた小渕登は通院した後、自宅で療養することにした。寝込むということは無かったが念のため仕事を早めに切り上げた。

 小渕はこれを機会にこれまで読んでいなかった小説を読むことにした。春とはいえ、まだ桜も一部咲きで底冷えのする季節だったため、どてらを着込んでコタツに入る。

 人気時代小説はすでに数巻出ていたが、小渕は読もう読もうと思いつつも多忙のため第一巻は表紙すら開いていない。「どーれ」と言いつつ本を開こうとしたそのとき、玄関から「先生!」と大きな声がして、秘書の田中が駆け込んできた。

 小渕は何事かと思って、コタツから出て玄関の田中を迎えた。

「大変です。先生に公職選挙法違反の疑いが掛かりました。これから警察が先生に任意出頭を求めにやってきます」

「何だと!田中、どういうことだ?」

「実は…」

 田中は小渕に、息も切れ切れ事のいきさつを話し始めた。



 時を同じくして、法学部教授の小泉は学長室に呼ばれていた。学長の谷垣は報告書のようなものを見て、視線を小泉に移した。

「困った事をしてくれたね。小泉先生、市議会選の公示後は、選挙活動はその期日までは行なってはならん。まして立候補者の名前入りの掲示物は指定の場所にしか出してはならんことぐらい君なら分かっていただろうに…。これは小渕登氏が公職選挙法違反の罪に問われるばかりか、大学内の自治においても責任が問われる一大事だ」

「申し訳ありません。私の確認が足りませんでした」

 小泉は両手を前に、深々と頭を下げ恭しく謝罪した。

「君が許可したそうじゃないか。学内の掲示板に例のポスターの掲示を許可したのは。そのときにポスターの内容を確認しなかったのかね」

「確認しましたが、そのときの原稿では小渕氏の名前は無かったのです」

「言い訳はいい!」谷尾は机を叩いて恫喝した。

「学内の活動で、いち政治家が法で裁かれる騒ぎとなっては、社会的影響は計り知れない。小渕氏の孫とはいえ処分は免れんよ。無論君もな」

「あの生徒は、まだ入学して間もなく法律を学び始めたばかりです。だから公職選挙法に違反するとは知らなかったのです。処分なら私一人をお願いできませんか」

「…生徒をかばうとは立派な心がけだが、自分のやったことで身内が警察に引っ張られたとなると、どの道良心の呵責から小渕良子は大学にはいられないだろう」

「……」小泉は明るく笑う良子の顔が脳裏に浮かんだが、谷垣の言葉の通りだと思った。正義感の強いおじいさん思いの娘なればこそ、きっと大学を去るに違いない。

「小泉先生、君には明日にでも理事会の査問を受けてもらうことになるだろう。それまで自宅で謹慎したまえ」

「…分かりました。失礼します」

 もう一度頭を下げて小泉は学長室を後にした。

 小泉の姿が消えたのを確認した谷垣は電話をかけた。相手は佐伯だ。

「佐伯さん、谷垣です。こっちは上手く運びました。早速明日理事会で彼を査問に掛けます。今夜例の場所で次の段取りを確認させて下さい。では…」

 電話を終えたとき、谷垣は新たな訪問者を迎えた。学長室のドアを開けて後藤田が入ってきた。

「学長、明日査問ですか。異例の速度ですね。くれぐれも怪しまれないようにと義父が言っておりました」

「何だ、立ち聞きしていたのか。こんな事件はね、早く終結されるのが一番だよ。それに君も佐伯さんも邪魔者は早く排除したいのだろう?そもそも危ない橋を渡っているんだ。時間を掛けていては私の身にも火の粉が降りかからんとも限らんからな。まあ、理事会の方は私に任せて、君は教授に昇格する準備をしたまえ」

 収賄で後藤田に加担した谷垣だったが、ここに来て見事な悪人ぶりだ。もともとタヌキのような性格らしい。

「分かりました。では、今夜例のところでまた…」

 後藤田はそう言うと、学長室を後にした。彼が次に目指すのは生徒指導室だった。



 生徒指導室には小渕良子がいた。後藤田に呼ばれていたからだ。呼び出しの理由はなんとなく承知していたが、小泉からの呼び出しでなかったことが、かえって良子の不安を大きくした。

「小泉先生…」良子は呟いて、膝の上で拳をぎゅっと握った。

 程無く後藤田が現れた。事務机の向かい越しに無言で良子の前に腰掛ける。

「小渕君、もうすでに知っていると思うが、君が学内の掲示板に貼り出したポスターが問題になった」

「…はい、事務の人たちが慌てて剥がしているところを見ました」

「あれは公職選挙法に違反して、そのおかげで君のおじいさんの小渕登氏は大変なことになっている。すでにそのことも聞いているね?」

「はい。自宅に連絡して祖父の秘書の方から聞きました」

 良子はすでに大粒の涙を流していた。下を向き、答えるたびに首を立てに振っている。

「候補者の名前をポスターに載せるとは…。何故そんな事をしたんだ。たとえ法学部に入学して間もなく公職選挙法を学んでいなかったとしても、ご家族に当事者がいるんだからどこかのタイミングでこのことに気がつくことは出来なかったものか」

「ごめんなさい…」良子は力なく呟いた。

「まだこの事は、学内の生徒には秘密にしてある。マスコミも嗅ぎつけていない。何とか理事会と学長とで内々に済ませるよう配慮してくれるそうだから、その点は安心しなさい。ただ、君のおじいさんの方でマスコミが騒ぐだろうから、そうなると大学にも影響が少なからずあるだろう。それが問題だが…」

 後藤田は白々しく言った。本当はそれが狙いだ。

「ところで、小泉先生だがこの件の責任を問われて理事会の査問を受けるそうだ」

「え!小泉先生が?」良子は顔を上げて驚きの表情を見せた。

「理由はどうあれ、例のポスターを掲示する許可を出したのは小泉先生だ。もしかしたら大学を去ることになるかも知れない」

「そんな…。小泉先生は何も悪くありません。ポスターの原稿を見せた後、修正したのは私です」

 良子は祖父の名前を掲載したのは、本当は野中流星だったが、出来上がりのポスターを見た上で貼り出したのは自分であったためこう言ったのだった。

「そうかも知れないが、大学側は知名度の高い政治家の事件になった責任を追及する構えだ。事の発端は大学内で起きているからね。仕方が無いことだよ」

「後藤田先生、私どうすれば…」良子はますます責任を感じて必死になった。

「今は何もせずに静かにしていることだ。当事者の君が騒げば事態は悪くなるかもしれない」

「……」

 良子は歯を食いしばって、再び涙を流した。亡くなった父に面影が似ていた小泉が自分のせいで大学を追われることになるかも知れない。恩師としてと言うよりも、男女の思慕の念が自分の中に芽生えている自覚は無かったが、大事なものを無くす焦りを感じずにはいられなかった。

「今日はもう家に帰って、休むといい。明日の授業は小泉先生は出られないが、丁度学外から臨時の講師が来るらしい。改めて登校しなさい」

 指導室から出て行く良子を見つめ、その後ほくそ笑んだ後藤田は、明日の臨時講義の通達書に目を通して記載されている名前を見た。

「本郷法司…。現役の弁護士ねぇ」

 後藤田はこれから来る、かの臨時講師が自分の行く末にとって多大なる影響を及ぼすことを予想もしなかった。生徒指導室の窓から見える桜の木には、花のつぼみが膨らみ始めていた。



 「君の相談事とは、この大学の先生が辞めさせられるのを止めて欲しいとのことだが、申し訳ない、今の私は弁護士の業務から離れている。依頼は受けられない」

 法司は唐突に相談してきた良子に、つれない返事を返した。何かをこの男に断られる、それだけで世の人間は落胆の色を見せるに違いなかった。年端も行かない少女に向けれた黒い瞳はあくまで深く、表情は淡々としているだけで美しい。

「でも、私本郷先生しか頼める人がいないんです。それに…」

 本郷の横で白兎が何か勘繰った。またしても法司様にほの字のパターンかと。

「それに、先生の授業を聞いて、法律が人の心を素に成り立っている事を始めて知りました。そんな風に気づかせてくれた先生は、信頼できると思ったんです」

 良子の目には先ほどまで見せていた、小泉への思いから来る情念の炎は消え、代わりに誠実さと必死さとが浮かんでいた。

「どうか話だけでも聞いてください」そう言うと良子は自分の祖父のこと、大学の掲示板に貼ったポスターのことをなど一連の経緯を法司に話した。

 話を聞き終えた法司は静かに目を閉じ、ため息を一つついて静かに口を開いた。

「…君が法学部の生徒であるなら、それに気づいたことは感心なことだ。しかし依頼は受けられない。他の腕のいい弁護士を紹介しよう。少し待ちたまえ」

 法司はそう言うと携帯電話を取り出し、登録してある番号から一つ選び電話をかけた。

「はい、菅法律事務所です」電話に出たのは事務の本辺優子だった。

「本郷です、本辺君か。菅承太郎すげしょうたろうはいるかな」

「あら、本郷さん。久しぶりです。今代わります」

「やあ、法司か。今何をやってる」

「福博大で臨時の講師を頼まれてこっちに来た。実は一件依頼人を紹介したい」

「お前が大学の講師か。妙なアルバイトをやっているんだなぁ」

「…。紹介しても?」

「ちょっと今、手が離せないから無理だ。ところで伊達が福博に来たぞ。赴任して初の仕事が市議会議員相手だそうだ。公職選挙法違反で立件するかしないかやってるらしい」

「……」法司は微かに驚きの間を見せた。だが承太郎以外誰にもその理由は分からない。

「その市議会議員の名前は?」

「何だ、ニュースを見ていないのか。小渕登だ」

「…これも何かの因縁か」

「うん?何のことだ」

「いや、こっちのことだ。失礼する」

 法司はそう言うと電話を切り、良子を向き直った。

「良子君、話は分かった。詳しく教えて欲しい。車に乗りたまえ」

「法司様、依頼を受けるのですか?」白兎は目を丸くして言った。

「白兎、何を言っている。困っている人を見捨てては柊塾の名折れだ」

 突然様子を変えた法司、白兎、良子の三名を乗せたフェラーリは独特のエンジン音を上げ、一路小渕邸へと走り去って行ったのだった。

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