奸計と陥落
ただいま文字校正、文体校正中…
福博国立大学法学部の後藤田洵教授には、助手が一人いる。有栖川という男だ。年齢的には後藤田とそう変わらないが、助手の前は司法書士であった経緯を持ち、やんごとなき理由で今は大学に就職している。出世する気は全く無いようで、後藤田の腰巾着と言った印象である。
彼は今、後藤田に招かれ春良町の料亭『花月婁』に来ていた。部屋には後藤田をはじめ後藤田の義理の父佐伯哲也、学長の谷垣慎二がいた。有栖川はそれらの面子に驚き、訝しがりながらもすごすごと着席した。
「後藤田先生、それに学長もいらっしゃるとは…。一体全体何事です」
「有栖川さんは始めてだったな。紹介しよう。私の義理の父佐伯哲也氏だ。肩書きはセイビメディカルの代表取締役をなさっている」後藤田は手で指し示し紹介した。
「セイビと言ったらあの…。後藤田先生には数年お仕えしておりますが初めて知りました」
「息子がいつもお世話になっております。ま、どうぞ一杯」恭しくも一礼し、酒を差し出した。
「有栖川君、佐伯さんは今告示されている市議会議員選にも出馬されているそうだよ」学長の谷垣が更に付け加えた。
「君は確か元司法書士だったそうだね。それが今は准教授の助手だ。辞めた理由を訊いてもいいかね」
「ほう、司法書士…。大したものだ」佐伯が有栖川の回答を待たずに世辞めいた口調で言った。
「ある相続の問題を担当して調停に至りましたが、相手の弁護士の菅承太郎という男に完膚無き迄に負けまして。それ以来…」
「誰にでも浮き沈みはあるものだね。気の毒に」谷垣が同情した。
「ところでご用件は…」杯の酒には口をつけず有栖川は後藤田を向き直って訊いた。
「実はあなたにやってもらいたいことがある。今年入学した生徒の中に、小渕良子という生徒がいるが知っているか?」
「いえ、存じません」有栖川は嘘をついた。
実は彼には悪質な趣味があった。自分の好みの女生徒を、補習の名目で部屋に呼び出して乱暴し、彼女たちの猥褻な写真を撮って口止めを強要することで自身の性欲を満たしているのだった。そんな男が良子のような生徒をマークしていない筈が無い。今まで五人の女子生徒が有栖川という悪魔の餌食となっていた。犠牲となった彼女たちはその後大学を自主退学している。
「実は小渕良子の祖父は、市議会議員の小渕登だ。頼みたいこととは……」
後藤田は頼みごとの一部始終を有栖川に話した。
「そ、そんな。そんな大それたこと私に出来るわけ無い。そもそも私はこれでも元司法書士です。犯罪には手を貸せません」
有栖川はいけしゃあしゃあと善人のふりをしてきっぱりと言った。
「有栖川さん、我々はそれぞれの理由から、小渕登と小泉教授の失脚という要素がどうしても必要だ」
後藤田は自身の昇進のため、小泉教授が邪魔であったが、佐伯にとっては市議会議員選の大本命である小渕登を排除することで票の取り纏めを容易にすることが出来、義理の息子の出世と自分の利益とを狙った一石二鳥の企みであった。
「私には関係の無いことです」
「それでは、協力するのは嫌だと?」後藤田が言った。
「はい、この話は聞かなかったことにさせて下さい」そう言った有栖川に佐伯が追い討ちをかける。
「有栖川さん。もし協力いただけるなら、これは些少ですが」佐伯は脇から紫のふくさに包まれた実弾を差し出した。一本はあるだろう。
「こんなもの受け取れません」有栖川はそのまま押し戻した。
「何故私なのです。ご自分たちで実行なさればいいではありませんか」
「私が直接手を下せば、容易にその目的が知れてしまう。そうなると我々は一網打尽に警察に逮捕されてしまう。ここは間に第三者として動く人物が必要だ」後藤田はこれもいけしゃあしゃあと言った。
「バレたときは、私一人罪を被れという事ですか。それに法学部の生徒なら公職選挙法に抵触することは知っているのでは?」
「なに、入りたての生徒に公職選挙法の知識がある者はまずいない。それに、もしばれて大学を除籍になったとしても私の義父が就職先を約束してくれる。それも高待遇で。ただしそれにはあなたが一人でやったと証言することが条件だ」
「お、お断りします」
「後藤田君、佐伯さん、彼は見たところ出世や金には興味が無いようだ。やっぱりあの方法しか無いようです」
学長の谷垣がそう言って、三名は顔を見合わせゆっくりと頷いた。
「真理子」と後藤田が襖の向こうに声を掛けた。すると襖が音も無く開かれ、後藤田の妻真理子と、他に一人の男がいた。
「有栖川さん、初めまして大学の顧問弁護士、藪田と申します」
「後藤田の妻真理子です。主人がいつもお世話になっています」
有栖川は新たな登場人物に言葉も無く挨拶し、かれらの陰謀の黒が漆黒であることを感じた。
「有栖川さん、先ほどあなたの履歴の中で、菅承太郎の名前が出ましたが、実は私も彼に負けたことがありましてね、親近感を覚えます」藪田と名乗った男が笑顔で言った。ただし目は笑っていない。
「この方たちは一体…」
「有栖川さん、出世にも金にも興味の無い元司法書士として高潔なあなただが、変わった趣味をお持ちだ」
ぎくり 藪田の唐突な言葉に有栖川は身を固くした。
「な、なんの事です」
「あなたがこの学校に赴任してから、五人の女子生徒が学校を退学している。もともと生徒の間では噂があったようだが、私の調査で噂の存在を確認しました」
「それと私と何か関係があると言うのか」有栖川の額に玉の汗が浮いた。
「とぼけても駄目ですな。こちらの真理子さんに被害者に接触してもらってようやく証言が取れましたよ。いやー若くてぴちぴちした女子大生をレイプして脅迫するとはなかなかの小悪党ぶりだ」
有栖川はすでに無言になり、顔面は蒼白だ。もともと気の小さい男は自分よりも力の弱いものにしか自らを誇示できないらしく、すでに観念した様子だった。
「もしやってくれるなら、さっきの条件に合わせてこのことも黙っておこうじゃないか。上手くいけばバレずに、今の生活を続けられる。ただし、脅迫は容易に殺人の動機になり得るから、今後は止めた方がいい」
後藤田の表情は妻の真理子に尻を叩かれていたときの気の弱さは影を潜め、代わりにとてつもない狡猾なそれとなっていた。そして最後は上司らしく有栖川をたしなめた。
「分かりました…。それで、いつまでに」有栖川は力もなく呟いた。
「あす、朝一番で」
有栖川は覚悟を決めたように、杯を手に取ってその酒を一気に飲み干した。
「有栖川君、すでに我々は一蓮托生と思ってくれたまえ」
学長の谷垣がそう言うと、庭の獅子脅しが高らかに鳴り響いた。
翌日、有栖川は授業終わりの教室を出ようとする、駒鳥すみれに声を掛けて捕まえた。
「有栖川さん。何か?」
「ちょっと、次の授業の準備で手伝って欲しいことがあるんだ。資料室まで一緒に来てくれないか」
「いいですよ」すみれは特に疑う様子も無く、法学部の資料室へ付いて行った。
二十畳ほどある資料室に入ると、有栖川はうしろ手で音がしないようにドアノブの鍵を回して施錠し、すみれを向き直って話し出した。
「駒鳥君。実は私は君が好きだ」
「え?」
「一目見たときから好きになった。何でも高校ではミスコンの優勝者らしいね。君なら頷ける」
「こ、困ります」すみれは突然の告白に、それも助手とはいえ教職の立場の男から告げられたことに困惑した。
「いや、いいんだ。交際を迫ったりはしない。気にしないでくれ。私が勝ってに想っているだけだから…。ところで今君は恋人の事で悩んでいるね?」
「どうしてそれを…」
「ここ何日か、君を見ていた。それでその事を知ったんだ。それから君のカレシ野中君が将来政治家になりたいという夢を持っていることも聞いた。彼の野心は半端じゃない。そんな彼の前に現職の市議会議員の孫娘が現れた。彼は執念で彼女に迫るだろう。その理由は彼女の恋人となって将来結婚し、小渕登の政治の地盤を引き継ぐことだ。このままじゃ君は彼に捨てられることになるんじゃないか?」
「……」
すみれは、流星がいつもの浮気癖で良子にちょっかいを出している程度にしか考えていなかった。有栖川の言葉を聞いて初めて何か納得するものが脳裏をよぎって愕然となった。すみれにとっても、政治家になるという流星が日ごろから口癖のように言っていたことは、単なる夢ではなく、何か異常な執念めいたものを感じていたのは事実だった。
「君のことが好きだからこそ、私はそんな君の悲しむところは見たくない。今の話、どう思う?」
「流星のことは確かにその通りだと思います…」
「小渕良子に彼を取られてもいいのかな?」有栖川が優しく囁く。
「…いやです」
「そうだろう?ここは一つ何か行動を起こして、彼の心を取り戻すんだ」
「でも、どうすれば?」
「そこで提案だ。今小渕良子は野中君に選挙参加啓蒙ポスターの作成を依頼している。君は良子のおじいさん思いの心に感銘を受けて、彼女に協力する気持ちになったことにするんだ。そして今から彼に連絡し、ポスターの内容に小渕登の名前を掲載するようアドバイスするんだ。掲載する理由は小渕登に投票してほしいという直接的でないものがいいから、そうだな…、いち議員の紹介という趣旨でするのはどうだろう」
「そうすると、どうなりますか?」すみれは訝しげに訊いた。
「詳しい過程は省くが、結果として小渕登は選挙に落選し、政治家生命が絶たれる可能性が出てくる。そうすると小渕良子は野中君の目論見の相手から除外されて、彼は君の下に戻ってくるだろう」
「…分かりました。流星が戻ってくるなら、私何だってやります」
すみれの目には、恋人を失いたくない必死の炎が燃え、有栖川の提案を受け入れた。もはや彼女には事の顛末がどうなるかなど判断することは出来なかったのである。
すみれから電話を受けた流星は、マッキントッシュPCを使って良子から依頼されたポスターのデザインをしているところだった。
「もしもし。おはよ」
「あ、流星?忙しいとこゴメン。実は私良子のおじいさんのことですごく感動しちゃってさ。とってもいい議員さんなのに、若い人たちが選挙に参加しないで知らないままでいるなんて…。そう思って私も良子に協力したくなったの。それで市議会議員にはこんな人がいます的なキャッチフレーズをポスターに載せたらどうかと思って電話したんだ」
「それはいい案だね。よしじゃあ文字のレイアウトを一部変更して小渕登を紹介しよう」
「頼んだ。あ、良子を驚かせたいから出来上がりまで内緒にしましょう」
「分かった」
翌日、流星は出来上がったポスターを良子に渡し、掲示も一緒に手伝うことになった。
「わあ、さすがにプロが作った作品ね。何か公式のポスターみたい。あら?おじいちゃんの名前が書いてある」
良子はポスターに小渕登の名前を見つけて流星に尋ねた。そこには『現職市議会議員の紹介 小渕登』とあった。
「実は、学生のみんなには市議会議員にどんな人がいるかを知ってもらった方がいいと思ったんだ。そこで現職の良子のおじいさんを紹介することで参考にしてもらおうと…。まずかったかな」
「ううん、大丈夫私も鼻が高いよ。うれしい」
「そうか、良かった。じゃあこれ早速貼り出そうぜ」
二人は意気揚々とキャンパスを駆け回り、空いたスペースに都合二十枚のポスターを貼った。
後にこのことが問題になる事を、福博国立大学法学部に入学したばかりの未熟な生徒たちは認識できなかったのだった。