花月婁にて
現在文字校正、文体構成校正中…
後藤田真理子が悪巧みを決意したであろう翌日、小渕良子は友達と遊んだあと帰宅し自宅の様子が俄かに慌ただしくなっているのを感じた。
「あ、お嬢さんお帰りなさい」挨拶をしたのは祖父の秘書の田中と呼ばれる男だった。
「うるさくしてすみません。先生の市議会議員選挙が近いもので…。今日告示されました」
小渕良子の祖父は、小渕登といい福博市の市議会議員で、まもなく任期満了を迎える。そのため選挙が行われるが地元の講演会からは再選求める声が止まず、改めて立候補することとなっていた。
良子は幼い頃に交通事故で両親を亡くし、祖母も二年前に病気で他界したため身よりは祖父だけになっていた。市議会議員という多忙を極める仕事の傍ら、よく面倒を見てくれた祖父は彼女にとってはかけがえの無い家族だ。もう高齢と言われる年齢になることもあって、何事も無理はして欲しくないと思っていた。
「おじいちゃん、今家にいるんですか?」
「はい。今日は午後の予定を全てキャンセルされ、お嬢さんのためにご帰宅されてます」
田中がそう言うと、家の奥から小渕登が出てきた。
「おい田中。さあ帰った、帰った。今日は孫の誕生日だ。選挙のことは明日からにして家族水入らずにしてくれや」
「おじいちゃん」
「分かってますよ。じゃあ先生、お嬢さん、また来ます」田中はそう言うと小渕家を後にした。
「お帰り良子」
「ただいま」
「今日は良子の十八歳の誕生日だ。ご馳走を用意した。さ、着替えてきなさい」
「うん」
良子は部屋着に着替え祖父と水入らずの食卓に着いた。
「良子や、誕生日おめでとう。四月からいよいよ大学生じゃな。お前の両親が亡くなって、ばあさんもおととし死んじまったからなあ。寂しい思いをさせてしまった。せめて今日ぐらいは議員なんて仕事は忘れて一緒に過ごそうな」
良子は優しい祖父が大好きだった。市議会議員という仕事も街の人のためになる立派な仕事だと思っている。それに倹約家で無欲であり、政治家につきものの黒い噂など一切無い人柄が人々の支持を受けることに繋がっていることを知っており、人間的にも尊敬していた。
「おじいちゃん、ありがとう。でも私寂しくなんかないよ。だって私にはこんなに立派なおじいちゃんがいるんだもの。いつだって胸を張って他の人に誇れるよ」
「良子…」登の目には涙が光っていた。
「ところでおじいちゃん、もうすぐ選挙だね」
「そうだなあ、しかし選挙といっても昔ほど人々の関心が無くってな、投票率がかなり下がっていて、本当に望まれて当選したかどうかが分からなくなるときがある。今の若い人たちは選挙に興味がないんだよ」登はさっきとは違う悲しそうな目をして話した。
「私にはまだ選挙権は無いけど、でもやっぱり若い人もちゃんと選挙に参加して自分の信じる人を選んだ方がいいと思う」
「良子、でもそれはなかなか難しいことだと思うよ」
「そうかもしれないけど、せっかく私のおじいちゃんが議員をやるんだもの。もっとみんなに知ってもらいたいな。未成年の私にも何か出来ることがあるかもしれない」
「ははは、良子は政治家向きの性格をしているな。もしかしたらわしの性格を強く受け継いだのかも知れん」
「きっとそうよ」
良子はそう言うと目をキラキラと輝かせて、何かを決意したように見え、誕生日の一日が過ぎて行った。
大学の入学式を終えた小渕良子は、サークル活動の強力な勧誘を何とかかわしつつ、ようやく法学部の教室にたどり着いた。学部を選択するとき良子は迷わず法学部を選んだが、理由は少しでも祖父の仕事を理解したいと考え、そのためには法律を学ぶことが近道であると思ったからだ。概ね新入生が教室に入ったころ、ドアを開けて二名のスーツ姿の男性が入ってきた。
一人は後藤田義之准教授、もう一人は教授の小泉守だった。小泉守は中年だったがその姿勢は背筋が伸び、痩せ型だ。ロマンスグレー一歩手前という表現が正しいか。
小泉教授は颯爽と教壇に上がると、爽やかに挨拶を述べた。
「新入生諸君、ようこそ我が大学へ。まずは入学おめでとう。私は本学部教授の小泉守といいます。君たちが法学部へ来たということは世の中の仕組みを、そしてルールを勉強することになります。また、学んだ法律の知識を将来どんな形で役立てるかどうかは、君たち一人ひとりの志にかかっています。これからよろしくお願いします」
次に後藤田准教授が挨拶する。
「准教授の後藤田だ。主に君たちの授業を担当する。本校はこれまでたくさんの人を法曹界へ送り出した。弁護士、司法書士、社会保険労務士、行政書士、裁判官、検察官、検察事務官など数えればきりがないほどだ。将来いずれかに就職できれば高い社会的身分が手に入る。その分内容は難しいので学部を変わるなら今のうちだ。以上」
小泉と後藤田が教室を去ったあと、小渕良子の横に座っていた女子が声を掛けてきた。
「なーんか、あの准教授感じ悪いね。わたし駒鳥すみれよ。よろしく」
駒鳥すみれと名乗った女子の顔を見た良子は、彼女に見覚えがあった。福博市でも屈指のお嬢様学校と言われる清蘭女子高で、去年ミス清欄に選ばれてマスコミにも大きく取り上げられたのでたちまち有名になった。
「わたしは小渕良子。もしやミス清欄の人じゃ…」
「そうよ。でも大したこと無いって…。単に誰もなる人がいなかっただけなの」
美しい容姿とは裏腹に、気さくな性格であることがうかがい知れた。
「でもすごい。清欄女子なんてお嬢様学校じゃない」
良子がそう言うと、すみれの後ろに座っていた男子が声を掛けてきた。
「こいつはね、苦学生なんだ。他のみんなと違って奨学金で卒業したんだぜ」
「ちょっと流星、何で勝手にぺらぺらと喋ってんのよ」すみれは男子に向かって怒った。
「初めまして。俺、野中流星。一応すみれのカレシやってます。あと俺夜間の学部の方なんだ。昼間は出版社でバイトしてるのさ」
「もう、黙ってて。初対面の人なんだからびっくりしちゃうじゃない」
良子は二人を見てほほえましく思えた。その後も意気投合し三人の身の上を語り合った。
駒鳥すみれは、家が貧しく父子家庭で、苦学の結果念願の女子高に入学し優秀な成績で卒業したという。彼女の幼馴染であった野中流星は、同じく母子家庭で同じような境遇のすみれに魅かれて中学の頃に交際を始めたのだった。また流星は自分が将来政治家になりたいという夢と野望を語った。
「へえ、政治家ね。すごい…」良子が感心した。
「そのためには、まず弁護士にならなくちゃと思ってる。二十年弁護士やって、そこから立候補ってシナリオだ」
「あんたが弁護士か…。なんか無理っぽいわ」すみれがイメージを膨らませて、ギャップをコメントした。
「実は私のおじいちゃんは、市議会議員の小渕登なんだ」
「え!あの小渕登?まさか…」
「じゃあ良子こそ、本物のお嬢様じゃない」
すみれと流星は驚いたが、特に流星の方は口をぱくぱくとさせ何か言おうとしていたが、言葉を飲み込んで「そうか。議員の孫…」と呟いて、その後は良子を見つめる時間が長くなって行った。
流星の視線に気づかない良子は、流星の昼間のバイト先が出版社ということに興味があった。
「ねえ野中君、あなたのバイトの仕事ってポスターの作成ってやってる?」
「ああ。やってるよ。でも何で?」
「頼みたいものがあるんだ。私が明日原稿作ってくるから、そのときに改めて相談させて」
「分かったよ」
「さあ、今日の予定は全部終わったし、そろそろ帰りますか」すみれがそう言うと、三人はそれぞれ帰路についた。
「流星、あんたさっき良子のことずっと見てたでしょう」
すみれはカレシの一挙手一投足を見逃さなかった。
「ば、ばか言うな。何で俺が…」
「浮気したら許さないからね」
すみれは一抹の不安を打ち消すように、流星の腕にしがみついた。
良子は帰りの電車の中で、教室で顔を合わせた、小泉教授の事を思い出していた。良子の両親は、彼女が小学生のころ交通事故で亡くなっていたが、良子は小泉に父の面影を感じていたのだった。
「見た目も雰囲気もすごく似てたな…」
早速新しい友達ができ、父に似た人が先生であるという、いくつかのハッピーな出来事に良子はささやかな幸せを感じてうれしくなった。そしてもう一つ、祖父の仕事を応援すべく微力ながら自分ができることが何であるかを考えた末、心に決めていたことがあった。
「よし!」良子は情熱家然たる瞳を輝かせ、わき目も振らず家へ帰っていった。
福博国立大学の入学式の一週間前、学長の谷垣真治は福博市美術館の五十周年記念式典の会場にいた。谷垣は様々な会合に招かれ煩わしいとも感じたが、その立場上、大学と行政、経済との連携をとる必要があった。今後の大学の発展はこの連携なくしてありえない。
谷垣はもともと医学部出身で、福博国立大学病院の外科の教授であったが、三年前学長選に見事勝利し学長となっていた。今ではメスを握ることは皆無だが、その代わり外交的政治の手腕は卓越していった。
その谷垣に近寄ってきた者がいた。男が二人、女が一人。
「谷垣学長。初めまして、私は佐伯哲也と申します」
佐伯と名乗った初老の男は、横に連れた秘書の男から名刺を受け取って、そのまま谷垣に渡した。
「ほう、セイビメディカルの…。これはこれは」
「この街で製薬会社をやりながらも、もっとも連携を取らねばならない谷垣学長にご挨拶が遅れて申し訳ありません」
「いや、連携などと…。私は本来医者を輩出するのが業でして、製薬会社さんとは接点があるような無いような」
「まあまあ、そうおっしゃらず。ところで今夜お時間ありますか?大したことでは無いんですが、折り入ってご相談があるんです」
「相談ですと?一体何でしょう」
「それは、今夜の酒肴の席でゆっくりと…。今晩七時にお迎えの車を回しますので、それに乗っておこしください」
訝しく思うも佐伯の招待に応じた谷垣は、定刻通りやってきた黒塗りのセダンに乗り込んだ。車両は福博の街を南北に縦断する渡辺通りを三十分ほど走って、やがて途中角を曲がり春良という町の奥まったところにある料亭の前で止まった。運転手がドアを開け、降りた彼を暖簾の前で迎えたのは店の女将と思しき妖艶な美女だ。仲居が二人傍についていた。
「いらっしゃいませ、ようこそ」女将は少しはんなりした訛りのある口調で「どうぞこちらです」と谷垣を案内した。
料亭は屋号を『花月婁』といい、明治時代からこの町に代々続く老舗で、建物の佇まいは日本家屋然たる造りはそのまま、昔からの伝統を守り続けていた。無論一見の客は入れない。
女将の案内に従って行く途中、見事な玉砂利の庭や、獅子脅しを見た谷垣は「ほう」と声を漏らしながらその見事さに感心した。特筆すべきは電気を一切使っておらず、行灯や灯篭に本物の火を灯して明かりを取っていたことであった。十分な明るさとは言えなかったが、ちらちらと炎が揺れて作り出される影は人や物に妖しげな雰囲気を醸し出す。谷垣にはこの空間が外の世界と隔離された浮世離れした世界のように感じられたのだった。
しばらく歩くと、谷垣はもっとも奥の部屋に通された。
「こちらです」女将がそう言い、「失礼します、お連れ様がお見えになりました」とすでに来ていた部屋の客に声を掛けると膝をついて障子戸を開け、谷垣を中へ誘導した。
「谷垣学長、わざわざこのようなところにお呼び立てして申し訳ありません。さ、どうぞ」
上座への着座を勧めた佐伯は、自信谷垣の右手に着座した。その下座には式典の会場でも連れていた女が座っている。
「いきなり本題も何ですから、まずは一杯…」
佐伯は日本酒の入った徳利を差し出し、谷垣はこれを漆塗りの杯で受けた。
「改めてご紹介します。私はセイビメディカルの代表取締役、佐伯哲也です。そしてこの者は私の一人娘、真理子でございます」
「ほう、娘さん…。それでご相談というのは?」
「実はこの真理子はすでに嫁に行っておりまして、亭主は後藤田義之でございます」
「ほう、我が校の法学部で准教授の後藤田君のことですな?つまり後藤田君は佐伯さんの義理の息子になるわけですね」
「左様。それで義之につきましては同期と呼ばれる方々と比べて、その…、昇進が遅れております。そこで何とか谷垣学長のお力添えで義之を教授にすることはできないかと考えております。いや、親バカとお笑いください」
「佐伯さん、いくらなんでも現教授の小泉さんがいる状況で、それは無理な相談です」
「無理は百も承知です。ですからこうやって谷垣学長にお願いするしかないと思ってお招きしたのです」
「ですが…」
「無論、タダとは申しません。もしお力添えいただけるなら、我がセイビメディカルから福博大医学部へこれだけの寄付をご用意いたします」
佐伯は、右手にピースサインを作って谷垣に提示した。この手の贈賄の相場から行けば二千万ということになるだろう。
「待て、待ってください!」
谷垣は慌てて佐伯の指を手で上から被せて下げさせた。
「二億では足りないと…?」
「ぐ…。それでは佐伯さんは学内の人事のため、私とあなたで癒着しろとおっしゃるのか」
「……平たく申せばそうなりますな」
「いや、それは私の立場からできません。重大な背信行為となります」
谷垣は、学長という立場上いつかはこんな話がどこからか持ちかけられるだろうと予測をしていた。そしてそれは医療関係方面で便宜を図るようなことであろうとぼんやりと想定していたのだった。
彼はそのような話が持ちかけられても聞く耳を持たず、信義を貫く覚悟を決めていたのだが、まさか学内、それも他の学部の人事の話とは…。これではまるで『白い巨○』だ。
「谷垣学長、学部への寄付もありますが、年末に理事選がありますね。学長とは言え理事会がある限り、それは雇われ店長も同じことだ。そろそろ谷垣学長も谷垣理事へと登ってみてはいかがでしょう。そしてどんな選挙にも金が掛かるというのは世の倣いです。医学部への寄付とは別に、現理事の方々への根回しをこちらで引受けようじゃありませんか」
ごくり。
谷垣は、痛いところを突かれたと思って、思わず唾を飲んだ。実は谷垣は現理事長の竹下と折り合いが悪く、学内の経営と教育方針を巡って過去何度か苦い思いをしていたのである。
「し、しかし」
「それから…」
「ま、まだ何かあるのか」
「あなたのお嬢さん、志望の大学を滑ったらしいじゃないですか。今私の根回しでその大学の補欠の席を一つ確保してます。もし谷垣さんの気が向いたら、お嬢さんの入学が叶うことになりますな」
佐伯の悪魔の囁きに谷垣は全身に汗をかき、唇をぶるぶると震わせ佐伯と後藤田真理子を見た。
「相談ということでしたが、前もって巧妙に計画した上でのことのようですね」谷垣は自分の膝を力の限り掴み、そのあと杯の酒を一気に飲み干した。そしてふうと息を吐き出しようやく決断した。
「よ、よろしくお願いします」谷垣は折れた。
「こちらこそ、どうかよろしくお願いします」親子は深々と頭を下げてそれから襖の向こう側に声を掛けた。
「義之、入りなさい」
襖が開き、現れたのは後藤田義之准教授だった。彼は低姿勢のまま敷居を跨いで、改めて挨拶をした。
「何だ、いたのか」谷垣は目を丸くした。
「学長、この度は無理を申し上げて本当に申し訳ありません。今後よろしくお願いします」深々と頭を下げた後藤田はそのまま頭を上げようとしなかった。
「しかし佐伯さん、後藤田君。現職の小泉教授がいる限り順当な方法は皆無だ。何せ彼は退官まであと十年は現役だ。本人が何かの理由で退職するか、重大な過失によって人事処分を受けるかしないと、チャンスは来ない」
「だとすると、選択肢は後者ですな。その部分はこちらで何か手を打ちましょう」
「佐伯さん、あんまり手荒なことは困りますよ」
「なに、水面下での動きはこちらの仕事、学長はあくまで表舞台でご協力いただければいいのです」
「…具体的に何をなさるのかは聞かずにおきましょう」
谷垣がそう言うと「失礼します」と声が掛かり、女将と仲居によって豪華な和食の料理が運ばれてきた。外の庭では獅子脅しがコーンと一度鳴り、絵に描いたような黒い談合の夜は更けていった。