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桜花潮流  作者: 菅 承太郎
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論客講師

 四月初旬、例年よりも長い冬が続き、未だ桜の花が開花しなかったが、ようやく一分咲きとなったころ、その弁護士は福博国立大学法学部の教室にいた。彼は大学の竹下理事長に要請されて毎月一回、現職の弁護士であることを見込まれ論客講師として教鞭を執っていた。

 教室は受講者で満員になり、廊下にも立ち見の生徒が溢れかえっていた。中には法学部以外の生徒も混ざっているに違いない。目的はもちろん時々大学に訪れる麗人が目当てで、視界に入る生徒は全て女子であった。

 透き通るような白い肌と漆黒の瞳、富士額から見事なバランスで伸びる鼻梁、絹のような黒髪は腰まで伸びている。

 彼の名は本郷法司ほんごうほうじ。本来は福博にある隠れ社、紫水神宮の奉納舞の舞師で、同時に弁護士と言う変わった身分の持ち主だ。ただし最も変わっているのは絶世の美青年であるということだと言う者もいる。

法司は、今は他界した柊幸介ひいらぎこうすけ裁判官が退官後に興した法曹の徒を育成する私的な塾、通称『柊塾』の第一期卒業生で、同期には現弁護士菅正太郎、現裁判官柊美由紀、現検察官伊達慎二がいる。

「このように、誰かに自分の自転車を盗まれ、ある日それを街の中で見つけたとしても自分で取り戻すことは日本では禁じられている。これを自力じりょく救済の禁止と言う」

 教壇に立ち、レーザーポインターを駆使して講義する法司の様子にノートを取るのも忘れ女生徒は見とれていた。あまり見すぎると視界に白い霞が掛かるため、頭を振ったり目を擦ったりする者もいる。

「今日の講義は以上。何か質問のある人」

 法司が言い終えると、たちまち挙手の嵐となり、それは人ごみの中から生えた植物の様に見えた。

「先生、恋人はいますか?」

「好きな女性のタイプは?」

「私みたいなのどう思いますか?」

「弁護士って儲かりますか?」←?

 講義の内容とは無関係な質問が矢継ぎ早に浴びせられ、それに対し法司は目を閉じてため息をつく。

「講義に関係の無い質問には答えられない」

 毎回講義に来るたびに同じ状況になるため、法司のカウンタートークもすでに固定されている。冷たくあしらわれた生徒は仏頂面や半泣きになった。

「ではこれで…」法司がそう言い、教壇を降りかけたそのとき。

「先生。一ついいでしょうか」

 一人の女生徒が控えめに手を挙げて、法司を呼び止めた。

「法学部一年の小渕良子おぶちりょうこといいます。質問です、人はどうしてわがままを言ってはいけないんでしょう…」

 勇気を出して発言した彼女の見た目は、整った顔立ちに大きな瞳、肩まで伸びた緑の黒髪、白いブラウスを着て花柄のフレアスカートを履いている。清楚なお嬢様といった感じか。

「興味深い質問だ…」法司は良子を向き直って静かに言った。その黒瞳は果てしない深遠を思わせ、誰もが一度はこんな目で見つめてもらいたいと思うだろう。その瞳に質問者を映したとき、彼女もまた頭を軽く振って自我を保った。

「見たところ君も子供ではない。しかし未成年だ。そんな君が言うわがままとはどんな種類のものだろう」

「……」良子は答えなかった。ただ切羽詰った表情をしている。その様子に何か感じたかどうか定かではないが、法司が続けた。

「この時期に一年生ということは、入学して間もないのだろう。よろしい、法律家の立場から私の意見を述べよう」

 法司はそう言うと教壇に戻った。

「日本国憲法がわが国の最高法規ならば、民法は人事にまつわる最高法規と言ってもいいだろう。その一条に『私権は、公共の福祉に適合しなければならない』そしてその二項に『権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行なわなければならない』更に三項には『権利の濫用は、これを許さない』と定めている」

「少なくとも文明の中に生きる人は、ひとりでは生きて行けず、だとするとおのずと集団の中で生活することになる。また人ひとりの権利は最大限尊重されなければならないことを前提とするとやがて権利の主張の衝突が起きて争いとなり、その結果秩序が乱れてしまう。これらのことから導き出される考え方は、他人との争いや秩序の乱れを防ぐため、自らの意見の主張の行き過ぎを避け、その水準を一般社会に合わせて妥協していくと言うものだ。君の言うわがままとは具体的に何かは解らないが、欲求に突き動かされて主張を必要以上に強めることはこの考えに馴染まない」

 法司はここまで言って良子の様子を覗った。良子は一瞬遠い目をしたが、すぐに元に戻り「分かりました」と一言だけ返事をした。それから彼女はそのまま教室を出て廊下を走って行った。

 法司はその背中を暫く見つめていたが、教室の窓から見えなくなったとき視線を元に戻して改めて「今日はこれまで」と宣言して教室を後にした。



 大学の敷地の外にある別棟には、大学の理事長室がある。臨時講師を終えた法司は挨拶のため理事長室を訪れ竹下理事長に会っていた。

 竹下は理事長選挙の必勝祈願のため知人の紹介で紫水神宮を参拝した折、法司と知り合ったのである。

「本郷さん、今日も講義をしていただきありがとうございました」

 今年五十五歳になる竹下は年甲斐もなく顔を赤らめて法司に礼を述べた。これは絶対彼にハマっている。

「お礼には及びません。実は今は私的な理由で弁護士の業務はやっていないのです。ですが臨時講師は良い気分転換になります」

「あら、そうでしたの…。ところでそちらの方は?」

 竹下が法司の後ろに控える女性を見て訊いた。

「こちらは白兎しろうさぎといいます。日ごろは神宮の巫女をやっております。今回は助手として連れてまいりました」

「初めまして。白兎です」法司に紹介された助手は、見た目はやや小柄だが超絶美人だった。年齢は二十四、五だろうか。スレンダーなスタイルにスーツ、タイトスカートを着ている。

「本郷さんが助手をお使いになるなんて始めてね。でも巫女の方が助手とは…」

 竹下は若く美しい巫女を助手として傍に置くことにやきもちを焼き、キーとなった。

「単に今回の講義の内容で使う資料が多かったので、荷物運びです」白兎が慌てて笑顔を作ってフォローした。

「それではまた来月参ります」法司は竹下に笑顔で挨拶して理事長室を後にした。稀に見せる法司の笑顔を見た竹下は思わず卒倒してソファーに崩れ落ちた。

愛車フェラーリに乗り込んだ法司と助手の白兎は暫く無言だったが、助手が口を開いた。

「法司様、いつもあんな感じで女性を虜にしているんですか」

「…あんな感じとは?」

「法司様の笑顔を見たのは初めてだったもので。やしろでも一度もお笑いにならないから」

「何事も社交辞令は必要だ」

「そ、そうですか」白兎は法司の浮世離れした雰囲気にしては、ミスマッチな言葉を聞いて意外だと思ったが、そのあと「後始末が大変そうだ」とも思った。

 二人を乗せた車両が別棟を出て、帰路に着こうとしたとき急に目の前に人影が現れた。白兎が慌ててブレーキを踏んで直前で止まった。本郷がドアを開け車から降りて見た人影の正体は、臨時講義のとき最後に質問してきた小渕良子だった。

「君は…」

 良子は教室を走り去ったときと同じように切羽詰った表情をしている。そしてすばやくお辞儀をして法司に歩み寄ってきた。

「急に飛び出してすみません。本郷先生、実は相談があるんです」

「教室での回答では不足だったかな」

「いえ、そうじゃなくって…」良子は言いよどんだが決心したかのように続けた。

「法学部の教授は小泉先生といいます。今小泉先生は大学を辞めさせられようとしています。どうか、どうか小泉先生を助けてください」

 藪から棒な嘆願に、法司は良子を暫く見つめていたが無言のままだった。ただ少女以上、大人未満の彼女の瞳に燃える女の情念を法司は見逃さなかった。



 法司が臨時講師として福博国立大学を訪れる十日ほど前、法学部准教授の後藤田義之ごとうだよしゆきは自宅マンションに夜九時に帰宅した。准教授にしては豪華なマンションで購入すれば一億円はするだろうか。准教授の給料で買える物件ではない。

 ふうと一息ついてネクタイをほどき、キッチンへ行って冷蔵庫のビールを開け一口飲んだ。すると後ろから家内の真理子が声を掛けてきた。

「お帰りなさい。今日も遅かったわね」

「…小泉教授が次の法曹学会で発表する資料のまとめに手間が掛かる。俺は奴の小間使いだ」

「ねえ、早くあなたも教授になってよ。あたし早く教授夫人とやらになりたいの」

 真理子は義之に擦り寄って猫なで声でせがんだ。

「馬鹿言うな。教室の教授は定員一人だ。今の小泉教授がいる限り俺はずっと准教授なんだよ」

「それは分かってるけど。どうにかならないの?だって小泉さんってまだ五十前でしょう?退官するまでにあと十年は掛かるじゃない」

 真理子に言われるまでも無く、後藤田義之は以前からずっと教授昇進への野心に燃えていた。それに義之は今年三十八歳となり、異なる学部にいる同期の者と比べると出世は遅れていた。途中で他の大学へ転勤になった者もいたが、残っている数人の者は自分の学部の教授がタイミングよく退官したこともあってすでに教授に昇進している。義之はあせりを感じ、他の大学への転勤を願って教授になることも考えたが、福博国立大学の法学部教授というブランドは、法曹界では絶大な利権にありつける旨みのあるポジションで、その准教授という立場を捨てるわけにはいかなかった。

「若くして教授となった小泉教授と俺は歳が近い。どうにもならん!」義之は感情的になってビールの缶を壁に叩きつけた。

「学力の差じゃないんだ…。学力なら俺も小泉に負けちゃいない。だが所詮大学も政治の世界なんだよ」

 やけになっている亭主を冷ややかな目で見つめる真理子だったが、次の瞬間その目に亭主以上の野心を湛え不気味にほくそ笑んだ。

「あなた、私の実家が青眉会せいびかいだって事、忘れてるんじゃないの?」

 真理子の実家は地元広域暴力団『青眉会』、つまりヤクザで、真理子は親玉の一人娘だった。今のヤクザは任侠の世界とは程遠いところで活躍しており、青眉会も製薬会社セイビメディカルを立ち上げ、医薬品やコスメなどで売上げを伸ばして事業を拡大した。テイのいい隠れ蓑となってはいるが、政治家や経済人と癒着して汚いこともやっており、おかげでその資産は莫大なものとなった。まさに憎まれっ子世に憚るとはこのことだ。

「真理子、お前一体何を考えてる…」

「あなたがやらないなら、あたしがやるわ」

 野心ばかりで気の小さい亭主を尻目に、ヤクザの娘はまたしても不敵に笑った。

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