ある青年の恐怖
―
『その時は生きるか死ぬか、本当の瀬戸際を知った気がする』
真っ赤に染まった手は、何を犯したか。
濁った眼は、何を訴えたか。
それはもう20年近く前の話……
飢える幼きの、記憶はフツリと消えた。
―
……
とある高級なレストラン。
和と洋のスペシャリストが集う一般市民には届かないクラスの店で
二人の男性がテーブルを挟み、食事をしている。
とは言え一方的に料理にがっついているのは、ぼさぼさの黒髪の青年で
対照的にスーツ姿の凛々しい男性とは違いシャツにジーパンと言う姿。
履物さえ拘って無いようで、履きふるしたサンダル姿のまさにこの店に合わぬ人物がひたすら食事に没頭していた。
それを咎める事も無く、向かい側に居る初老の男性はじっと彼が食事を落ち着くまで見守っている。
その光景は異様で、一般男性が食べられる量を遥かに超えている。
一品一品が高級なはずなのに、それをがむしゃらに平らげる。
支払いは恐らく初老の男性……だろうが、それに対する遠慮もない。
注文したものを全て残さず食べている。その粗雑さはレストランにはそぐわない。
「……むぐ、は、く……もぐ」
「……相変わらずの食欲だね」
呆れた、声色もまたそれでビブラートの美しさ。
囁かれば女性を口説き落とす事も不可能ではない。
そんなスーツ姿の初老の彼は、追加されていくばかりのお会計に呆れていたが、支払いたくないと言う緊迫した様子もない。
「あ?食えない時が来るかもしれないだろ。食える時に食っとかないと」
「そう言う時代もあったけどね」
「時代なんて関係ない。ただ奢ってもらえるから食ってるだけ。悪いか」
確かにこんな高級感あふれる店で、食べられる事は幸運に近い。
ただ幾ら奢ってくれるからと言って節操なしに食べるのとはどこか違う。
青年はまるで「食べられなくなる時があるかもしれない」と言う強迫観念にとりつかれている。そんな気がした。
「……うっ」
「ほら、食い過ぎだ」
「うっ……せぇ」
人間にも限界がある。
その限界ぎりぎりまで食べようとするのは、どこか執拗さがある。
高いから思う存分食べちまおうと言うのとはまた違う。
どんな店でも、青年は恐らく奢ってくれると言うなら胃袋の限界まで食べるだろう。
「……吐くか?」
「……トイレ」
そう言って青年は一旦トイレに向かった。
―
ザァアアア……
便器にもどした嘔吐物を流し、さも何事もなかったかのように平然と手を洗う。
過食症、拒食症を患っている訳じゃない。ちゃんと病院にも行った。
結果は心身性の病気だと簡単に片づけられた。分からない事があるとすぐに心身性に結び付ける。
便利な言葉だ。
「……」
俺はただ、食べられなかった時の事を思い出したくないだけ。
理由があって餓死寸前だった。
それから……暫くの間記憶が無い。気づいたらあの呆け顔の上司の元で働いていた。
とは言え、契約社員。何時切られようと構わない。ただ才能だけは買ってくれていた。
だから今までこんなお高い店にも来れる。美味しいものも食べれる。悪態はたまにつくが、ちゃんとその分仕事はやる。
「何だろうな……」
二十歳を過ぎ、煙草の味を知る。
トイレで吸っちゃいけません、なんて張り紙も無視して。
でも煙草と料理、両方同時に出されたらきっと料理にかぶりつく。それ位自分の思考が食に対して貪欲になっている。
限界も知っているくせに、もう食べられないかもしれないと言う恐怖―それだけが怖い。
食べられなかった時代、なんて幾らでもケースがある。
そうやって死んでいく子供のニュースは何度も見た。
で、チャンネルを変えるんだ。
―そして、恐怖から逃れようとして「食べる」
『食べなきゃ、死ぬだろうが』
―
「……帰ったか」
「ああ、で?何の用」
「今回は契約社員としてではない異例の措置で君に頼み事がある」
契約社員じゃない……としたらアルバイト?臨時?どちらにしても今後も食べれる保証があるかどうかだ。
「どっちでもいい……これからも飯が食えるなら、多くは望まない」
「SDS(Seven deadly sins)の一員として働いてもらう。場所は……プログラマーではない」
「へ?違うの?グリオス」
このオッサン……名前を隠し仮に「エヴァグリオス・ポンティコス」と名乗っている。七つの大罪を記した修道院の名らしい。
そんな事はどうでもよく、俺はそんな糞長い名前を省略してグリオスと呼んでいる。
まあこのオッサン知ってる人でご丁寧にフルネームいう奴はいないし、この裏の名前も一部にしか使われていない。
意外なのは俺がグリオスの元でプログラマーとして働いていたのに、いきなりSDSに歓迎された事だ。
具体的に何をしているか分からない、分からないだけに面倒な仕事なのかな……と思う。
そう考えるとまた食べたくなってきた。何時食えるか分からない「食糧」を。
「やめたまえ。胃を壊すぞ」
「うっせ……」
そう言ってメニューを開く。アイスクリンならいいだろう。
グリオスも仕方なくそれを3人前ぐらい注文した。
食べれると思うと、何となく落ち着く……これでまた冷静に話が聞ける。
「君には『ユーゴ』のプログラマーの一人として働かせていた」
「ん……それが今更?」
「今回はSDS……君は知らないだろうが「中立者」としての仕事をしてもらいたい」
中立者……俺は今まで戦争の舞台だったT2W2のプログラマーの一人だった。
この一番エコな戦争の舞台を作り上げるユーゴの契約社員として。
戦争なんて……という思いは無かった。食える環境にいるだけで満足していた。
それ以外の事は考えてない。元よりユーゴの人間も感情の起伏が無いだけに過ごしやすかった。
「そもそもSDSなんて知らねーし……いきなり部署替えされてもな」
「プログラマーの知識があるからこその頼みだ。君は何処を担当していたっけ」
「アメリカVS日本……VRサーバー25だ」
「そう、そのサーバー25で不可解な事件が起こっている」
―と、言いだしの途中でアイスクリンが来た。
しかし自分の管理区サーバーで事件と聞いて、とりあえず一口だけ食べてみた。
そんな情報出回ってなかったはず……バグ報告も無かった。
「どんな事件だよ。鬱陶しいのは御免だ」
「ああ……最近奇妙なロスト現象が発生しててね」
「ロスト?そんなの当たり前だろ?アメリカと日本がサーバー25でドンパチやってんだ。死と言う概念も国の命令で付けている。死にたい奴らがたまたま多かっただけじゃないのか?」
「ロストしたユーザーは勿論アメリカ人や日本人だ。だがそのVRサーバー内では別の存在が無作為に彼らをロストさせている」
ロスト……平たく言えばネット内での死。ログインしている人間にまで危害が及ぶ。
最悪の場合死に至るが、負傷度によっては助かる場合もある。
だがそこが問題じゃない、別の存在が両方ともをロストさせている。外部からの侵入者と言う事だ。
それは俺にとっての重大な問題であり、プログラマーとして知らされていなかった事が不思議だった。
「今更そんなこと言われてもな……」
「そう言う特例措置みたいな、まあ強いて言うなら「バグ」はSDSに任せていた」
「へー……デバックテスターみたいなもんか」
「君が意図的にとは思っていない。決して裏切らないからね」
グリオスの言い方にも含みがある。
食べられる保証をしてくれているのは、彼だからだ。
だから食べられる事を維持できる環境を裏切らない。そう言う意味で信頼されている。
そう思ってまたアイスクリンを平らげた。
「……だがサーバー25の構造は君にとって庭みたいなものだ。そこで君にSDSに入ってほしい。丁度一人空いたところだ」
「……空いた?」
「ロストだよ。中立者は決して殺してはならない……暗黙のルールさえ破る、それは明らかに不審者の存在を認識させるに等しいだろう?」
なるほど……そういう事か。
死にたい奴らの行動までは関係ないと思うが、中立者を殺したとなれば場合が違う。
ルール違反としてのペナルティが課せられるからな。
悪い事をして食べられなくなる方が……俺としては考えにくいけどな。まあ何かは起こっているんだろう。
「でもSDSの仕事なんてした事ねぇ……」
「君の立場は有意義なものだ。SDS……中立者は戦わず殺されず、調査をする立場だからね」
「そのSDSの一人が殺されたんだろ?俺も殺されるかもな」
「そうならない様に祈るほかはないね」
そもそも俺はサーバー25のプログラマーとして働いていただけ。
それがいきなりデバックテスターになるとは……環境さえ異ならなければ別に良いけど悪い予感しかしない。
要するにさっきグリオスが言った様にSDSの一人がロストしたと言う事は、俺もそいつの代わりにネット上にログインすると言う事だ。
つまり……
「食べられないのか」
「仕事中はな」
「……餓死しないか?」
「君はまだそれに怯えているのかい?」
当たり前だ。死ぬ寸前の臨場を知っている。
それ以降の記憶が無くなってしまう程に。
死ぬってどういう事か分かるか。0(ゼロ)になるんだぞ?
今まで居たと言う事さえ0になる。
死ぬ勇気、半分楽しみもある意味のある死を唱えている戦争野郎の気が狂っているとしか思わない。
―それが、現実になろうとしている。
俺も其処で死ぬかもしれない。ゼロになるかもしれない。
在った事が、無かった事になる……もう頼んだアイスクリンは全て平らげた。
「難しいか?」
「……」
「難しいなら辞退しても良い。それで君の食事の保証がどうこうなる訳じゃない」
―
考えた。珍しく。
俺にしては珍しく考えた。
どちらにしても食事の保証がされるなら、俺は断る。
でもそれはまるで洗脳にかかっているかのように、即答できずにいた。
そう、俺は何時だって何もかもを「はい」としか答えなかった。
食べられる保証があるからだ。
餓死しなくても良い、恐怖が無いからだ。
なのに断っても保証してくれると言うのに、俺は迷う。
「はい」と言いそうになるのも、今までにグリオスの言いなりになってきたからか。
「……俺は、飢えて死ぬのか?」
「何もそう確定している訳じゃない。仕事するときはログイン、そして疲れたらログアウト。何時だって食事は摂れる……殺されない限り」
「……そうか」
怖い。しかし、心が勝手に決まっていた。
俺も「はい」と言い過ぎたようだ。
自分でも分かる位に沈んだ表情で、ゆっくりと頷き、その仕事を引き受けた。
「そうか、良かった……では後ほどSDSの本部を案内しよう。早速仕事に取り掛かってほしい」
「ああ……」
「ん?いきなり過ぎるか?時間はまだあるが……」
「構わない。そのSDSに俺を放りこんでくれ」
今度は本当に死ぬかもしれない。
でも、餓死じゃない。
飢えて死ぬわけじゃないと思ったら、何となく不安もなくなった。
ただ、最後に―
「……もう一口、アイスクリンが食べたい」
―