矛盾したことわざ
日本には、八百万のことわざがある。
もちろん、本当に数えたわけではない。
けれど、そう言いたくなるほど、ことわざは私たちの身近なところに溢れている。
昔から、人生に迷ったとき、人はことわざを口にしてきた。
「三度目の正直」
二度失敗しても、三度目には成功する。
そういう意味のことわざだ。
ところが、それとは反対のようなことわざもある。
「二度あることは三度ある」
二度起きたことは、三度目も起こる。
三度目は成功するのか。
それとも、また同じことが起こるのか。
どちらも昔から使われてきた、有名なことわざである。
一見すると、矛盾している。
ことわざには、こうした組み合わせが意外と多い。
例えば、
「果報は寝て待て」
という言葉がある。
良い知らせは、焦らず待ったほうがいい。
そんな意味のことわざだ。
ところが、
「思い立ったが吉日」
という言葉もある。
思いついたのなら、すぐに行動したほうがいい。
待つのか。
それとも、すぐに動くのか。
これも正反対に見える。
しかし、試験を受け終わったあとなら、「果報は寝て待て」と言える。
もう自分にできることがないのなら、結果を待つしかない。
反対に、まだ何も始めていないのなら、「思い立ったが吉日」だ。
今から始めなければ、何も変わらない。
つまり、同じ人間でも、その置かれている状況によって必要な言葉は変わる。
「善は急げ」と「急がば回れ」もそうだ。
急ぐのか、回るのか。
善いことを思いついたのなら、ためらわずに行動する。
それが「善は急げ」。
けれど、目的地へ急ぐあまり危険な近道を選べば、かえって時間がかかることもある。
そんなときには、「急がば回れ」。
急いでいるからこそ、遠回りをする。
一見すると矛盾している。
けれど、目的を早く達成するためなら、遠回りが最も近い道になることもある。
そう考えると、ことわざは必ずしも「いつでも使える答え」ではない。
その人がどこにいて、何をしようとしているのか。
そこまで考えて、初めて意味を持つ言葉なのかもしれない。
では、冒頭の「三度目の正直」と「二度あることは三度ある」はどうだろう。
この二つは、もっと難しい。
どちらも、二度起きたことのあとに来る三度目について語っている。
「果報は寝て待て」と「思い立ったが吉日」のように、状況そのものが違うという説明だけでは済ませにくい。
三度目は、成功するのか。
それとも、同じことが繰り返されるのか。
その本質を読み解くにはコツがいる。
例えば、二人の受験生がいたとする。
二人とも、二度試験に落ちている。
一人目は、二度とも真面目に勉強していた。
それでも、本番になると緊張してしまい、実力を出し切れなかった。
三度目の試験を前にして、その人が言う。
「今度こそ、三度目の正直だ」
これは、なんとなく納得できる。
一方、もう一人は、二度ともろくに勉強していなかった。
試験が終わるたびに、
「次は本気を出す」
と言いながら、結局何も変わらない。
そんな人が三度目の試験を前にしていたら、
「二度あることは三度ある」
と言いたくなる。
けれど、ここで一つの疑問が残る。
二人とも二度失敗している。
それなのに、なぜ一人には「三度目の正直」で、もう一人には「二度あることは三度ある」のだろう。
単に、運が良いか悪いかの違いなのだろうか。
三度目という数字そのものに、何か特別な力があるのだろうか。
──私は、そうではないと思う。
重要なのは、二度の失敗そのものではない。
その二度の失敗を経験したあとに、何が変わったのか。
そこに違いがあるのではないだろうか。
一人目は、二度の失敗から原因を考えた。
緊張してしまうのなら、本番を想定した練習をする。
時間配分に問題があったのなら、何度も過去問を解いてみる。
二度目までと同じことを繰り返すのではなく、失敗から何かを変えようとした。
だから三度目には、
「三度目の正直」
という言葉が似合う。
一方、もう一人はどうだろう。
二度失敗しても、何も変えなかった。
失敗を振り返らず、同じように試験を受け、同じように失敗する。
それなら、三度目にも同じことが起きる可能性は高い。
だから、
「二度あることは三度ある」
という言葉が似合う。
つまり、この二つのことわざは、未来を予言しているのではない。
「三度目は必ず成功する」と言っているわけでもなければ、「三度目も必ず失敗する」と言っているわけでもない。
過去の二回をどう受け止めたのか。
そこから何を変えたのか。
それによって、同じ三度目でも意味が変わるのだ。
そう考えると、ことわざは不思議なものだ。
「待て」と言うものがあれば、「動け」と言うものもある。
「急げ」と言うものがあれば、「回れ」と言うものもある。
もし人生に一つだけ正しい生き方があるのなら、こんなに多くのことわざは必要なかったのではないだろうか。
ことわざは、答えそのものではない。
その言葉を自分の状況に当てはめたとき、何を考えるべきなのかを教えてくれる。
そういえば、最初に私はこう書いた。
日本には、八百万のことわざがある。
八百万という言葉は、昔から、数え切れないほど多くのものを表すために使われてきた。
八百万の神々。
山にも、川にも、木にも、岩にも、あらゆるところに神が宿るという考え方だ。
ことわざも、それに少し似ているのかもしれない。
人生には、あらゆる状況がある。
同じ失敗でも、そこに至るまでの過程は違う。
同じ「待つ」という行為でも、ただ何もしない人と、やるべきことをすべて終えて結果を待っている人では意味が違う。
同じ「三度目」でも、二度の失敗から何かを学んだ人と、何も変えなかった人では、その三度目に向けられる言葉が違う。
だから、「三度目の正直」と「二度あることは三度ある」は矛盾しているようで、実はどちらも人間の経験を語っている。
一つの言葉だけでは、人生のすべてを語ることはできない。
だから、たくさんの言葉が必要になる。
八百万の神が、あらゆる場所に宿るように。
八百万のことわざも、あらゆる人生の中に宿っている。
だから、ことわざに一つの答えを求める必要はない。
その言葉をきっかけに、自分だけの答えを探せばいい。
ことわざは、
八百万の答えを探すための、
八百万の入口なのだから。




