第9話 旗の内側は、戦場より怖い
旗は、思ったより頼りない。
白い布が風に揺れているだけなのに、あれが倒れた瞬間に殺し合いが始まる。国境というのは、いつも紙一枚の上に立っている。
俺は旗を見ながら、反射で祈祷再生器の音量を確認した。小さく、耳の奥で鳴っている。
これがないと、頭の中がうるさくなる。
止めたくても止められない生活にも、だいぶ慣れそうで嫌だ。
軍務卿グランが、蔦で作った境界線を指した。
「ここから向こうは人間側。ここからこちらは魔界側。旗の内側だけが“今日の世界”だ」
「分かりました。越えたら終了、でしたね」
グランが穏やかに笑う。
「そうだ。越えたら終わる。終わり方は、できるだけ静かにする」
静かに終わる戦争があるなら見てみたいが、意味は分かる。暴発を避ける、ということだ。
向こう側から人間の隊列が進んできた。
最前列は神殿の外套を着たフェリクス。昨日と同じ顔だが、目の下が少しだけ濃い。寝てない目だ。
その横に、細い青年が並ぶ。耳が少し長い。エルフだろう。
「監督役の補助として同席します。古神殿付、祭儀官見習い。エルフのルーカスです」
ルーカスが淡々と名乗った。言葉遣いは丁寧だが、温度が低い。長命種っぽい落ち着きがある。
フェリクスが続ける。
「回収班は二つ。負傷者班と遺体班。神殿騎士が護衛します。こちらも越境はしません」
俺は頷いた。
「こちらも同じです。越境はしない。回収以外はしない。旗の内側だけ」
言いながら、念のため周囲を見た。
不死兵が前に出ている。植物兵が担架を作り、虫兵が上空を旋回している。人間側が嫌がる配置だと分かっているが、これが一番減らない。減らない兵で回収するのは合理だ。
フェリクスの背後で、神殿騎士が槍を握り直した。
怖いんだろう。分かる。
でも、槍を強く握るほど事故は起きる。事故が起きたら、勇者が来る。勇者が来たら、余計に死ぬ。
俺は机の上に昨日の合意書を置き、指で軽く叩いた。
「確認です。回収中に旗を越えた場合、相手の監督役が宣言した時点で、即時終了。撤退。追撃なし」
フェリクスが頷く。
「同意します」
ルーカスが小さく言った。
「……形式が整っているのは助かります」
エルフが言うと妙に説得力がある。形式を信じて生きてる種族の声だ。
回収が始まった。
人間側が担架で負傷者を運ぶ。呻き声が聞こえる。血の匂いが、風に乗ってくる。
不死兵がこちら側から担架を受け取り、無言で運び出す。足取りが一定。息もしない。汗もかかない。
人間側の兵が、それを見て顔を青くした。
「……動く死体だ」
ルーカスがその兵に視線を投げる。
「声に出すな。余計な刺激だ」
低い声で言うだけで、兵は黙った。長命種の叱り方は短い。
フェリクスが俺に小声で言った。
「……正直、怖いです」
「俺も怖いです」
嘘じゃない。こっちはこっちで怖い。怖いから、条文で縛ってる。
フェリクスが少しだけ笑った。笑える余裕があるのは、たぶん良い兆候だ。
順調に進んで――進みすぎたせいで、問題は急に来た。
「そこだ! 魔王の眷属がいる!」
聞き覚えのある声。
国境の向こうから、光が差した。
勇者レオンが、また前に出ていた。しかも、よりにもよって、負傷者の担架が往復している最中だ。
鉄砲玉なのに決闘を申し込むだけでも十分面白いのに、今日は“遺体回収中の決闘”という新しい地獄を持ってきた。
レオンは光剣を掲げ、叫んだ。
「回収など卑怯だ! 死者を盾にするな! 正々堂々戦え!」
違う。誰も盾にしてない。むしろ誰も死なせたくないから回収してる。
だが、彼の物語では“停止”が悪で、“前進”が正義なんだろう。
フェリクスが顔を青くして叫ぶ。
「レオン! 戻れ! 今日は回収だ!」
「黙れ神官! 女神の導きは戦えと言っている!」
レオンは一歩踏み出し――蔦の線を越えかけた。
越えたら終わる。
俺の背中が冷えた。
グランが手を上げかける。止める手。だが止め方を間違えると、攻撃になる。
俺は前に出た。越境はしない。線のこちら側から声を投げる。
「レオン!」
名前を呼ぶだけで、彼の顔がこちらを向いた。
昨日の手応えがある。名乗りに反応する。なら使う。
「今日は回収だ。決闘のための準備じゃない。お前が勝ちたいなら、負傷者が死ぬのは損だろ」
レオンの眉が動いた。
“損”という単語が、彼の物語に噛み合わないのが見えた。けれど、完全に弾かれてはいない。痛みが走る前の揺れだ。
俺は続けた。否定しない。折らない。
「今ここで暴れたら、神殿の護衛が死ぬ。お前の仲間も巻き込まれる。そうなったら、次の決闘に来られない」
レオンの口が開きかけて、こめかみがぴくりと動く。
痛みが来る前に、形を変える。
「だから今日は“決闘の準備日”にしろ。お前はここで、魔族の動きを見て覚えろ。戻って報告して、次の戦いに備えろ」
“報告”。
それは、昨日も通りやすかった匂いの単語だ。
レオンの呼吸が荒くなり、数秒だけ睨んだまま固まる。
そして、吐き捨てるように言った。
「……次は、逃げるな!」
逃げるな、じゃない。帰れ。
でも、そこは言い換えずに受け取る。
「逃げない。約束はしないが、話は聞く」
レオンが顔を歪める。
“約束しない”は物語に刺さる。しまったと思った瞬間、フェリクスが横から叫んだ。
「レオン! 戻れ! 神殿の命令だ!」
神殿の命令、という形なら通るらしい。
レオンは歯を食いしばって下がった。仲間が慌てて引き戻す。光剣の光が遠ざかる。
俺は息を吐いた。
その横で、ルーカスが小さく呟く。
「……あの勇者、言葉が詰まる。儀式の干渉か」
さすが古神殿付、察しが早い。
俺は答えず、ただ頷いた。ここで詳細を言うと、別の火種になる。
回収が再開した。
それ以降は、誰も境界を越えなかった。旗の内側の“今日の世界”は、なんとか保った。
日没前。
最後の担架が運び終わり、フェリクスが机の前に立った。
「完了です。……ありがとうございました」
「こちらも礼を言う。減らない方がいい」
グランが穏やかに返す。
俺はフェリクスにだけ、小声で言った。
「次は、捕虜交換の話をしましょう。今日みたいに、“旗の内側”を増やせれば、死者は減ります」
フェリクスは一瞬だけ迷い、頷いた。
「……窓口は残します。ただ、王宮は必ず邪魔をします」
予告として十分だ。
帰り際、ルーカスが俺を見た。エルフの視線は冷たいのに、どこか探ってくる。
「ミキト殿。あなたの言葉は……不思議だ。あの勇者が、引いた」
「運が良かっただけです」
俺がそう言うと、ルーカスは小さく首を振った。
「運ではない。型を読んでいる」
言い捨てて去っていった。
旗が降ろされる。
今日の世界が終わる。
その瞬間、頭の奥が小さくざわついた。
女神様は――
俺は反射で、ほとんど息だけで呟いた。
「……女神様すばらしい」
収まる。
最悪だ。ありがたくもないのに、助かってしまう。
グランが横目で笑った。
「お主、だいぶ板についてきたな」
「板につきたくないです」
笑えないのに、少しだけ笑ってしまった。
鉄砲玉が決闘を叫ぶ世界でも、旗の内側は作れる。
ただし――次は王宮が、旗を倒しに来る。そんな予感だけが、妙に現実味を帯びていた。




