第5話 医療区画と、余計な熱
法務卿の部屋を出た瞬間、肩の力が抜けた。
抜けた、と思っただけで、すぐ背筋を戻す。廊下にも誰かいる。気を抜くのが癖になると、どこかで刺される。
それでも、契約が形になったのは大きい。
口約束のまま働くほど、俺は勇気がない。勇気がないから契約を作る。たぶんそれでいい。
自室に戻ると、壁際の装置が相変わらず淡々と同じ言葉を繰り返していた。
「メガミサマアリガトウゴザイマス……」
ありがたがる気持ちは一切ないのに、止めたくもない。変な関係だ。
机に契約書を置き、椅子に座る。
まずやるべきは整理だ。条文の要点を自分用にまとめて、明日からの動きに落とす。
そう思って筆を取った――ところで、手が止まった。
落ち着かない。
頭の中が散る。集中しようとすると、逆に身体の方がうるさい。胸の奥に熱が溜まって、じっとしていられない。
緊張とは違う。恐怖とも違う。
ただ、妙に“余計な熱”が残っている。
俺は椅子から立ち上がって、部屋を一周した。意味はない。意味はないのに、歩かないと気が済まない。
「……なんだこれ」
口に出しても答えは出ない。
装置が、一定のテンポで呟く。
「メガミサマアリガトウゴザイマス……」
その声が、やけに癪に障る。
次の瞬間、扉がノックされた。
「ミキト」
返事をする前に、扉が開いた。
研究医療卿ユーリ=クロノクリスタが、当たり前の顔で入ってきた。時晶族の男は、相変わらず無駄がない。視線だけで部屋の状態を検分し、机の上の契約書に一瞬だけ目を落とした。
「法務卿と締結したな。よし」
「よし、って……」
「次。検査」
短い。説明する気がない。
「今からですか」
「今だ。体調は仕事に直結する。遅らせない」
言い切る声が、命令というより規則の読み上げに近い。逆らうと面倒になるタイプのやつだ。
俺は息を吐いて立った。
「分かりました。行きます」
廊下を歩きながら、ユーリが横目で俺を見た。
「歩幅が落ち着かない。胸の鼓動も速い。……余計な熱が溜まってる」
見抜かれてる。医療は怖い。
「自覚あります」
「なら早い」
医療区画は、思ったよりまともだった。石造りなのに清潔で、薬草の匂いが強い。兵舎の汗臭さがない。
処置室に通されると、女性が一人待っていた。
角は小さく、目の色が艶っぽい。それだけなら怖いのに、姿勢は軍医そのものだった。背筋が伸びていて、無駄な動きがない。
彼女は先に名乗った。
「医療官ナディア。サキュバスです」
単語が強い。
俺は反射で身構えかけて、慌てて止めた。相手は医療官だ。ここで変な態度を取る方が失礼だ。
「久我幹人です。ミキトで。……よろしくお願いします」
ナディアは表情を変えずに頷いた。
「ミキト様。今のあなたは、体内の“性気”が過剰です」
性気。初めて聞く言葉なのに、なぜか腑に落ちる。さっきの落ち着かなさに、ちょうど名前が付いた感じがした。
ユーリが淡々と付け足す。
「勇者の付与には、判断を鈍らせる方向の副作用が混ざる。放置すると事故が増える。仕事にならない」
「身も蓋もない」
「仕事は現実だ」
その通りで、返す言葉がない。
ナディアが手袋をはめる。
「処置します。触れます。嫌なら言ってください」
言い方が丁寧で、逆に逃げ場がない。
「……お願いします」
同意した瞬間、ナディアの指が俺の手首に触れた。
冷たい。
それだけじゃない。身体の奥に溜まっていた熱が、吸い出されるみたいに抜けていく。焦りが薄れ、頭の中が静かになる。呼吸が深くなる。
俺は思わず息を吐いた。
「……楽になった」
ナディアも小さく息を吐いた。ほんの一瞬だけ、頬に血が戻ったように見えた。
「こちらもです」
俺は気になって、確認だけする。
「……これ、ナディアさんにとっても必要なんですか」
ナディアは視線を逸らさない。
「はい。私たちの栄養は性気です」
ユーリが、いつもの調子で現実を刺す。
「魔族は常にこの手の熱を出さない。だから供給が少ない。医療部門の維持が難しい」
ナディアの口元が、ほんの少しだけ苦くなる。
「医療官なのに、まず自分が干上がります。……恥ずかしい話ですが」
俺は首を振った。
「恥じゃないです。必要なら、仕組みにすればいい」
言った瞬間、ユーリが即座に乗ってきた。
「口約束は駄目。共生契約にする。法務卿を通す」
また出た。手順の人。
でも、正しい。こういうのは曖昧にすると、誰かが損をして崩れる。
「分かりました。契約、作ります」
ナディアがわずかに目を見開いて、すぐに頭を下げた。
「ありがとうございます」
処置が終わると、さっきまでの“余計な熱”はほぼ消えていた。静かに考えられる。これだけで価値がある。
ユーリが記録をまとめながら言う。
「ミキト。魔王の近くにいるほど、基礎能力が上がっている。自覚は?」
「ありません」
「なら余計に危ない。慣れるまで、物を壊すな」
「壊しませんよ」
言いながら、自分の手を見てしまう。さっき手首を掴まれた時、反射で力が入った気がする。気をつけよう、じゃ遅い。仕組みで防ぐべきだ。
そう思ったところで、処置室の扉が勢いよく開いた。
「特命官殿!」
息を切らした兵が飛び込んでくる。補給班のゾルドだ。顔色の悪さが増している。嫌な知らせの顔だ。
「軍務卿より伝令。国境に――光る剣を持った若い人間が現れました」
胃が冷えた。
ヴァルが言っていた、“周期的に来る”というやつ。
ゾルドが続ける。
「堂々と名乗り、こちらを魔王の眷属と呼びました。決闘を要求しています」
決闘。国境で。堂々と。
俺は、ナディアとユーリを一瞬だけ見た。
ユーリは淡々と頷いた。
「処置は終わった。動ける」
ナディアも、軍医の顔に戻って言う。
「怪我をしたら戻ってきてください。……死なないで」
余計な熱は抜けた。
代わりに、別の熱が腹の底に落ちた。仕事の熱だ。
「……行きます」
俺がそう言うと、ゾルドが深く頷いた。
「軍務卿が、お待ちです」
装置の声が遠くで響いている気がした。
「メガミサマアリガトウゴザイマス……」
ありがたくはない。
でも、いまは止められない。




