第4話 契約は逃げ道から
法務卿アシュの歩き方は、音がしない。
鎧を着た兵が歩けば金属が鳴る。重い靴なら床が鳴る。なのにこの男は、歩いている気配だけが先に来る。
背中を見失いそうで、俺は一歩だけ距離を詰めた。
「……あの、法務卿。どこへ」
「話をする場所だ。ここでいい」
通されたのは小さな部屋だった。机と椅子が二つ。窓はない。逃げ道もない。法務卿らしい。
壁際の装置が、淡々と声を流している。
「メガミサマアリガトウゴザイマス……」
この音があるだけで、部屋の空気が少しだけマシになるのが腹立つ。
「座れ」
アシュが言う。
俺は椅子に座った。背筋は伸ばした。こういう場で猫背になったら、なめられる。
アシュは俺の向かいに座り、机の上に手を置いた。
指先から、黒い膜みたいなものが広がる。紙ではない。革でもない。光を吸う“書面”が、机の上に生まれた。
この世界の法務は、文房具まで怖い。
「口約束は信用しない」
「同意です」
アシュの視線が、少しだけ鋭くなる。
「同意、ね。言葉は軽い。条文に落とす」
黒い筆が置かれた。インクは見えないのに、筆先が触れるたび文字が刻まれる。
「まず、お前の望みを言え。欲しいものを先に出せ。後から足すな」
営業の交渉で言うなら“要求の棚卸し”だ。ここを曖昧にすると、後で必ず揉める。
俺は一息入れてから言った。
「情報です。戦況、人間国、神殿、勇者の周期。あと、俺が元の世界に戻る方法の探索。これは約束にしてほしい」
アシュは淡々と書く。反応で損得を見せない。
「権限」
「交渉の場に出られる権限。現場の状況を確認する権限。必要なら契約を結ぶ権限……ただし、最終確認は法務卿でいい」
言い切った瞬間、自分でも少し安心した。法務卿の顔を立てるのは処世術じゃない。秩序のためだ。
アシュが小さく頷く。
「当然だ。締結の最終は私が持つ。条文は私が責任を負う」
責任を負う、という言い方が意外だった。冷たいだけの男じゃない。責任の範囲が明確な男だ。
俺は続けた。
「それから、拒否権。俺は前線に放り込まれるつもりはありません」
アシュの筆が止まる。
「……恐れているのか」
「現実的に不適任です。剣の訓練もしてません。死んだら元も子もない。俺が死ぬのは、魔王軍にとっても損でしょう」
アシュは一拍置いて、筆を動かした。
「前線投入は、軍務卿の要請と魔王の承認、そして私の適法判断が揃った時のみ。単独判断は禁止」
俺は思わず息を吐いた。
やるじゃないか。ちゃんと“勝手に使い潰されない”枠を作ってくれる。
「お前の義務」
アシュが顔を上げた。
「命令違反、情報漏洩、越権。これは即時停止でいいな」
「はい」
「研究医療卿の検査は受けろ」
「はい」
「諜報卿の指示を無視するな」
言い方が引っかかった。
「……無視するな、って」
「諜報は嫌いでも必要だ。嫌いなら嫌いでいい。だが独断で台無しにするな」
嫌いなのは法務卿の方かもしれない。けど筋は通っている。
アシュが筆を置いた。
「最後に“逃げ道”だ」
逃げ道。ここでその言葉が出るのが怖い。
「契約に逃げ道がないと、人は破る。破られた契約は武器になる。だから先に用意する」
俺は背中が少し冷えた。怖いのに、納得してしまう。
「どういう……」
「期限と見直し条項」
アシュは書面を俺に向けた。
「この契約は仮。一定の成果と一定の期間で、条項を改める。お前が役に立つなら権限は増やす。役に立たないなら保護を減らす」
「……分かりやすいですね」
「分かりやすくする。誤魔化しは争いの種だ」
書面が整った。アシュが指で書面の端を叩く。
「署名」
俺は筆を取った。久我幹人、と書く。
書いた瞬間、指先が少し重くなった気がした。インクの重さじゃない。もっと内側の、何かが固定される感覚。
アシュが言う。
「同意を口にしろ」
「……同意します」
アシュも、淡々と続ける。
「同意する」
書面が低く鳴った。
音というより、部屋の圧が一段変わった。胸の奥に薄い輪がはまる感じ。首輪じゃない。安全帯みたいな――逃げないための固定具。
視界の端に、文字がちらついた気がした。
俺は瞬きして、誤魔化した。
そのタイミングで、頭の奥がズキンとした。
女神様は偉大だ。女神様は素晴らしい。崇めよ。
また来た。しかもさっきより強い。
胃がむかつく。眠気と吐き気が混ざる。
俺が額を押さえると、アシュが淡々と言った。
「出たか」
「……頭の中に、声が」
「こちら側に寄るほど強くなる。お前はいま、魔王直轄の契約を結んだ。女神から見れば異常だ」
アシュが壁際の装置を顎で示す。
「まずそれ。止めるな」
「止めません……」
アシュは続ける。
「もう一つ、簡単な手がある」
俺は眉をひそめた。
「簡単、って言う人ほど信用できないんですが」
「信用しなくていい。やれ」
言い切るのが法務卿だ。
「女神は雑だ。お前が敵か味方か、乱暴に判定している。こちらに寄りすぎると“寝返り”と誤判定して締め付ける。なら――敵だと示せばいい」
嫌な予感がした。
「……どうやって」
アシュは一切表情を変えない。
「魔王の悪口を言え」
「は?」
「今すぐ」
俺は固まった。法務卿の冗談は笑えない。笑わないから。
「いや、でも……ヴァルに聞かれたら」
「聞かせろ」
「聞かせろって」
アシュが短く言った。
「魔王も承知している。必要な工程だ。心は要らない。言葉だけでいい」
頭の奥の声が、じわじわうるさくなる。吐き気が強くなる。ここで抵抗しても、俺が損するだけだ。
俺は息を吸って、なるべく棒読みで言った。
「……ヴァルは、土下座の姿勢がきれいすぎて逆に腹立ちます」
言った瞬間、頭の圧が少し引いた。
……効いた。
俺は唖然とした。
「……効くんだ」
「だろう。もう一つ」
俺は半分やけになって続けた。
「ヴァルは、でかいくせに会議が長いです」
さらに引いた。
胃のむかつきが、すっと軽くなる。
俺は椅子にもたれかけて、深く息を吐いた。
「これ、毎回やるんですか」
「必要なだけ」
アシュは立ち上がった。仕事が終わった人の動きだ。
「それと、毎日だ。忘れるな」
「……毎日」
「毎日」
法務卿は扉に手をかけ、振り返った。
「ミキト。お前の武器は剣じゃない。だが剣と同じだ。手入れを怠るな」
「……手入れ?」
「言葉。条文。手順。全部だ」
アシュが出ていく。
部屋に残ったのは、俺と、書面と、単調な声だけだった。
「メガミサマアリガトウゴザイマス……」
俺は契約書を見下ろした。
俺の仕事は、ここからだ。
そしてこの世界では、悪口すら手続きになる。




