第39話 停戦破りのレシート
停戦が発効してから一晩。
国境の空気は、戦場のそれじゃなくなっていた。
怖いのは怖い。槍も弓も並んでいる。だけど、昨日までの「いつでも殺せる」の圧が、どこか薄い。
代わりに増えたのは――ざわめきだ。
「動かねえ!」
「足が前に出ない!」
「呪いだ、魔族の呪いだ!」
魔王軍側の前線で、屈強な魔族が本気で狼狽していた。
俺は救護所の外に簡易の掲示板を立て、紙を貼っていた。
停戦運用の注意(暫定)
・攻勢行動は不可(身体が止まる)
・違反すると本人に反動(吐き気・痺れ等)
・防衛/救護/移動は可(要記録)
・不明点は救護所の窓口へ
……会社の掲示物みたいだな、と思った瞬間、嫌気が差して笑いそうになった。
だが笑う暇はない。
掲示板の前で、前線の古参兵が吠えていた。
「ふざけんな! 家族がやられたんだぞ! 止まれるか!」
角が折れた獣人の老兵。名前はガルム。軍務卿グランの配下で、死なない兵を嫌うくせに、なぜか不死兵の横で生き残ってきたしぶとい奴だ。
ガルムは斧を持ち上げ、境界線の方へ一歩踏み出そうとした。
――踏み出せなかった。
膝が折れ、斧が地面に落ちる。肩が震え、顔が青くなった。
「ぐっ……う、ぉ……!」
吐き気。手の痺れ。身体が拒否している。
次の瞬間、空気がひやっとして、足元に薄い紙が落ちた。
レシートみたいな紙片。
アウレウスが拾い上げ、眠そうな声で読み上げる。
「違反未遂:攻勢行動。対象:魔王軍第六前線(個体識別あり)。反動:軽度。再発時:補助起動の可能性」
ガルムが目を見開いた。
「……紙? 今、紙が降ってきた?」
「降ってきたな」
俺は短く言って、ガルムの横にしゃがんだ。
「息しろ。鼻から吸って、口から吐け」
「ふざ……け……」
「ふざけてない。吐くなら外。救護所の膜に吐くな」
言い方が冷たいのは分かってる。けど、今は感情で動くと周りが燃える。
ナディアがすっと入ってきて、ガルムの首筋に冷たい布を当てた。
「倒れるなら倒れろ。倒れた方が早く回復する」
ガルムが、悔しそうに歯を食いしばる。
「……俺は……止まれねえ……」
その言葉が、俺の胸をちくっと刺した。
止まれない。止まると負けた気がする。止まると死んだ人に顔向けできない。
そういう感情は、戦争の燃料だ。
俺は目線を合わせた。
「止まれないなら、“止まる形”を作れ。走るなって命令されると腹が立つ。だから別の仕事に変える」
「……仕事?」
「攻めたいなら、今は攻めるな。代わりに掘れ。柵を立てろ。負傷者を運べ。敵を殺す以外にも軍の仕事はある」
ガルムが顔を歪めた。理解したくない顔だ。
でも、理解した顔でもある。
その時、向こう――人間側でも同じ騒ぎが上がった。
矢が放たれかけ、放たれない。槍が振り上げられ、止まる。倒れる騎士。
そして、あちら側にも紙が落ちた。遠目でも分かる。薄い白。
ガルムが、信じられない顔で呟く。
「……向こうも、止まってる?」
「止まってる」
俺は言った。
「これ、魔王軍の呪いでも、王国の神罰でもない。世界が受理した停戦だ」
ガルムは目を閉じ、しばらく何かに耐える顔をした。
「……くそ」
その一言が、妙に人間臭かった。
俺は立ち上がり、掲示板の紙を追加で一枚貼った。
停戦は“敵を守る”ためではなく、“自分を罰から守る”ために守ること。
その直後だった。
人間側の陣地から、異様に派手な一団が出てきた。
白い旗。金の刺繍。神殿騎士の護衛。そして――中央に、鎧を着た少年。
……いや、少年というより「少年に鎧を着せてしまった」見た目だ。
細い肩。短い息。けど目だけが鋭くて、落ち着きがない。身体の内側が焦げてるみたいな目。
王都監察官トルストンが、誇示するように声を張った。
「王国の勇者だ!」
周囲がざわつく。
勇者。
まただ。
神谷悠斗が救護所の入口から覗いていた。胸元の学生証を握り、喉が詰まりかけた瞬間に自分で棒読みを挟む。
「……女神様すばらしい……」
落ち着いた目で、あの少年を見た。
俺は悠斗の前に立つように一歩ずれた。見せすぎると心が削れる。
トルストンが少年の背を押す。
「さあ、見せてやれ。魔王軍に王国の正義を」
少年が前に出て、叫んだ。声が若い。若いのに、壊れた音が混じっている。
「俺は――如月蓮! 勇者だ! 魔王を――」
最後まで言えなかった。
蓮の身体が、境界線の手前で止まった。
足が前に出ないどころじゃない。全身が“固定”されたみたいに固まる。
次の瞬間、蓮は膝をついて咳き込み、吐き気に耐える顔になった。
「ぐっ……なんだ、これ……! 動け……!」
そして、蓮の足元にもレシートが落ちた。
紙は風にめくられず、真っ直ぐ落ちる。まるで判決文だ。
アウレウスが拾うより早く、エレナが一歩前に出た。
「違反未遂。対象は召喚者です」
トルストンが怒鳴る。
「魔族の呪いだ! 勇者の力を――」
「違います」
エレナは冷たい声で切った。
「停戦の反動です。攻勢行動は禁じられています」
蓮が顔を上げた。目が血走っている。
「禁じられてる? ふざけんな! 俺は――俺は帰るために……!」
その言葉が喉で折れ、痛みに変わりかけた。
蓮が頭を押さえ、呻く。
悠斗が息を呑む音がした。救護所の中で見た“痛みの仕様”と同じだ。違いは、蓮はそれを制御する術を知らない。
俺は反射で、一歩だけ前へ出てしまった。
境界線は越えない。枠の中で止まる。
「如月、聞こえるか」
蓮が俺を見た。目つきが“敵”を見る目だった。
「お前……魔族か!」
「違う」
俺は短く言って、次の一手だけを投げた。
「日本語、分かるか」
蓮の目が一瞬だけ揺れた。
「……何だよ、それ……」
揺れた。揺れたなら、そこを掴む。
「俺も日本から来た。お前と同じ召喚だ。今、お前は痛みで縛られてる」
蓮が歯を食いしばる。
「黙れ……! 俺は勇者だ、魔王を――」
言おうとして、また喉が詰まる。
痛みが走る前に、俺は一つだけ教えた。最悪に単純な、生存手順。
「一回だけでいい。棒読みでいい。言え。“女神様すばらしい”」
蓮が俺を睨み、唾を飲み込み、震える声で吐き捨てた。
「……女神様、すばらしい……!」
……肩の震えが、すっと落ちた。
蓮が自分の喉に触れて、信じられない顔をした。
「……なに、今……」
俺は息を吐いた。
「止まっただろ」
エレナが横で淡々と付け足す。
「手順です。祈りではありません」
トルストンの顔が歪む。信仰が傷つく顔だ。でも現実は現実だ。
アウレウスが眠そうに言った。
「監察官。勇者が倒れたら面子が潰れる。救護所へ運びなさい。枠の中で」
トルストンが反射で言い返す。
「魔族の救護所など――」
「神殿医療もいる」
アウレウスは淡々と潰す。
「拒否するなら、君が勇者を壊した責任を取る? 王の前で?」
トルストンは、動けない顔をした。
結局、蓮は救護所へ運ばれた。護衛付きで、でも武器は外。条文が効いた。
救護所の中で、ナディアが淡々と診る。
「脱水。睡眠不足。あと、興奮が強い。落ち着けないと喉が壊れる」
蓮は舌打ちし、俺を睨んだ。
「……お前、何者だよ」
俺は答えを短くした。長くすると物語が増える。
「久我幹人。こっち側で“止める”仕事をしてる」
「止める? 勇者が?」
「勇者だから止める」
蓮が笑いかけて、笑えずに顔を歪めた。
その歪みの中に、恐怖が見えた。
「……俺、帰れるって言われたんだよ。魔王を倒せば、って」
悠斗が、寝台の端でそれを聞いていた。
悠斗は声を出さず、胸元の学生証を握り直すだけだった。自分が同じ立場だったのが、分かりすぎるから。
俺は、蓮にだけ言った。
「“一本しかない帰り道”は、誰かの都合の可能性が高い」
蓮が目を見開く。
「……じゃあ、どうすりゃいいんだよ」
俺は正直に言う。
「今は寝ろ。身体を戻せ。話はそれからだ。お前が壊れたら、誰が得すると思う」
蓮は答えられなかった。答えが怖いからだ。
その時、救護所の布が揺れて、セラが影みたいに入ってきた。
にやっと笑って、最悪の一報を投げる。
「王の到着、明日になったよ」
……やっぱり。
停戦が発効した瞬間、王は“成果”を取りに来る。
アウレウスが眠そうに言った。
「演出が増えるね」
俺は息を吸って吐いた。
明日、王が来る。
救護所には勇者が二人になった。
停戦は、破られそうで破れない。破ろうとするたび、世界がレシートを落とす。
こんな状況で、王に何を見せるべきか。
答えは一つしかない。
紙と枠と、壊れかけの子どもたちの現実を、隠さずに見せる。




