第38話 停戦、発効しました
日が落ちる前に、紙の束を三回数えた。
数えるのは安心のためじゃない。差し替え対策だ。紙の世界では、差し替えが一番よく刺さる。
停戦協定(救護停戦)。
添付:救護所運用規程、同意取得手順、共同調査手順。
印:魔王印、大神官印、秩序委任札の代理印。
立会署名:国境枠の立会人。
「……ほんとに紙なんだな」
神谷悠斗が、毛布の端を握ったまま言った。
体調は昨日よりいい。歩ける。ただし長くは無理。喋るのも短く。
「ほんとに紙」
俺は短く返した。
「紙が通ると、剣が鈍る」
悠斗は一拍おいて、ぽつり。
「……それ、ちょっと、かっこいい」
言った直後に、喉がひゅっと鳴りそうになって、慌てて自分で棒読みを入れた。
「……女神様すばらしい……」
落ち着く。
この“自分で立て直せる”のが、今の悠斗の強さだ。皮肉な強さだけど。
入口でナディアが腕を組んで待っていた。
「行くなら今。戻って寝かせる。滞在は短く」
「了解」
ユーリが時計を見て、いつもの調子で釘を刺す。
「十五分」
俺はうなずいて、最後にアシュを見る。
法務卿は黒い封袋を持っていた。封緘、署名、二重管理。今日も過剰なほど面倒で、だから生き残る。
「差し替えは?」
「できない」
アシュが短く言う。
「差し替えるなら、署名と封が破れる。破れた瞬間に“違反”だ。違反は、こちらの武器になる」
諜報卿セラが、影の端でにやっとした。
「そして王都は“違反”って言葉が嫌い。嫌いだから隠す。隠すから、こっちが握れる」
笑うな。仕事として正しいのが悔しい。
眠そうな大権官アウレウスが、通路の先で待っていた。
「鏡は使わない」
開口一番、それだった。
「また白いのが出るから?」
「出る可能性がある」
アウレウスは眠そうに言う。
「提出だけなら、投函口でいい。片道。安全。地味。君たち向き」
俺は思わず言った。
「地味って言うな」
「地味でいいじゃないか」
そういうことを平然と言う人が一番怖い。
――
古神殿の脇の小部屋。
鏡の部屋より狭い。豪華でもない。かわりに、壁の一角に“口”がある。
石の投函口。縁に細い刻印。
見た目は奉納箱だ。だが雰囲気が役所の窓口に近い。嫌な奉納箱。
アウレウスが淡々と説明する。
「ここに入れる。向こうで受理される。返ってくるのは受領票だけ。出入口にならない。だから安全」
エレナが無表情のまま頷いた。
「妥当です。鏡より安全」
フェリクスが胃痛の顔で補足する。
「……鏡は、時々“こちら側”に手が伸びます。投函口は伸びません……たぶん……」
たぶん、やめろ。
悠斗が投函口を見て、喉が鳴りかけた。緊張だ。
俺は小声で言う。
「棒読み、いつでも」
悠斗はうなずいて、一回だけ言った。
「……女神様すばらしい……」
よし。
アシュが封袋を開け、停戦協定を取り出した。封の痕はきれい。差し替えなし。
紙の端に、黒い魔王印。
白い大神官印。
薄い、骨みたいな代理印。
この世界の“合意”ってやつが、そこに揃っている。
俺は一拍おいて、投函口の前に立った。
「提出する」
悠斗が小さく言う。
「……うん」
ナディアが背中を支える位置に手を置いた。倒れたら終わるからだ。
俺は棒読みで言った。心を込めると逆に危ない。
「女神様ありがとうございます。受付番号A-07の案件、達成条件の停戦合意を提出します。受領をお願いします」
そして紙を、投函口へ滑り込ませた。
石の中に吸い込まれるみたいに、紙が消える。
空気が一瞬だけ、ひやっとした。
次の瞬間、投函口の下から薄い紙が出てきた。
レシート。やっぱりレシート。
アウレウスが拾って、読み上げた。
「受領。停戦合意、確認。印章、確認。条件達成。目的再設定、確定。……停戦、発効」
息が抜けそうになって、俺は一度だけ深呼吸した。
悠斗の肩が、すとんと落ちた。
「……発効……」
悠斗が呟いた瞬間、喉が詰まりかけて、反射で棒読みが入る。
「……女神様すばらしい……」
……でも、今日は違った。
詰まりが“止まる”のが早い。痛みに変わる前に引く。
悠斗が、目を丸くした。
「……静かだ……」
俺も気づく。
あの“殺せ”の圧が、ない。
かわりに、背中を押すような、せかすような圧がある。
進め。守れ。止めろ。
命令じゃない。リマインドみたいに、しつこい。
アウレウスが眠そうに言った。
「誘導が更新された。君たちの脳内に、新しい付箋が貼られた」
付箋。言い方が嫌に現代的だ。
悠斗が小さく笑った。泣きそうなのに笑う、変な顔。
「……殺さなくていい……」
その一言が、震えてるのに真っ直ぐだった。
ナディアが淡々と毛布を整える。
「よし。帰って寝る。感情が出たら喉が壊れる」
エレナがレシートの末尾を指で押さえた。
「警告がある」
アウレウスが読み上げる。
「違反検知時、補助が起動します。対象は“停戦破り”の当事者。……つまり、どっちが破っても来る」
フェリクスが顔色を失った。
「……誰かがわざと破ったら……」
「地獄になる」
俺が短く言った。
ワクワクが、一瞬で悪い種類に変わる。
――
救護所へ戻る途中で、境界線の近くが騒がしくなっていた。
伝令兵が走ってくる。魔王軍の兵。息が切れている。
「渉外卿候補殿! 前線の斥候が……攻勢に出ようとしたところ、身体が動かないと!」
「動かない?」
「腕が重い、と。足が前に出ない、と……呪いかと」
呪いじゃない。
停戦が、発効した。
紙が、世界の筋肉に触った。
反対側、人間側の陣地でも同じ騒ぎが起きていた。あっちの伝令が神殿騎士に引きずられるように走っている。
そして案の定――王都監察官トルストンが、顔を真っ赤にして救護所へ押し寄せた。
「魔族の呪術だ! 軍が動かん! 国境を縛ったな!」
俺は動かずに、アウレウスの手元を指した。
「受領票があります。停戦が発効しました。あなたの署名は要りません。もう世界が受理してる」
トルストンが怒鳴る。
「誰が受理した!」
アウレウスが眠そうに返した。
「世界」
短すぎて、トルストンが黙った。
黙るしかない。相手が“世界”は、さすがに殴れない。
トルストンは歯を食いしばって俺を睨む。
「王が来る。お前は終わりだ」
「王が来るなら、なおさら手順が要ります」
俺は淡々と言った。
「停戦破りは、補助が起動する。あなたも知った。なら“勝手に燃やす”のはやめた方がいい」
トルストンの顔が、嫌な形で歪む。
理解した顔だ。
こいつは“燃やせない”と分かると、別の燃やし方を探す。
セラが影の端で、楽しそうに言った。
「ね。ここからがワクワクだよ。停戦って、破りたい人が必ず出るから」
笑うな。
でも、そうなんだ。
停戦が発効した瞬間から、次の戦いが始まる。
守る戦いだ。破らせない戦いだ。
救護所に戻ると、悠斗が寝台に腰を下ろして、胸元の学生証に触れた。
「……ミキトさん」
「ん」
「……これで、帰れるの?」
俺は嘘をつかない。
「帰り道は、近づいた。でもまだ遠い。王が来る。そこで燃えないように乗り切って、その次だ」
悠斗は一拍おいて、うなずいた。
「……やる」
それは勇ましさじゃない。
自分の意思だった。
ナディアが毛布をかぶせる。
「寝る。やるなら寝る。寝ないと負ける」
悠斗が小さく笑って、目を閉じた。
救護所の外では、停戦で動けなくなった兵が混乱している。誰かが“呪い”と叫ぶ。誰かが“神の裁き”と言い出す。
その噂の火種は、二日後に来る王の足元へ全部集まる。
俺はレシートの文面をもう一度読み返した。
停戦、発効。
その一行が、今日一番怖い。今日一番頼もしい。
紙が世界を止めたなら、次は人間の口を止めないといけない。




