第36話 目的再設定申請、提出します
救護所の朝は静かだった。
静か、というより「静かにしてないと壊れる」空気だ。ナディアが遮音膜の具合を指先で確かめ、ユーリが時計を見て、余計な会話を切る。
悠斗は起きていた。顔色はまだ悪いが、目の焦点は合っている。胸元の学生証を握る癖は残ったまま――それでも、昨夜みたいに“現実”が戻ってきていた。
「ミキトさん」
「ん」
「……夢、見た」
悠斗は一瞬、喉が詰まりかけて、自分で棒読みを挟んだ。
「……女神様すばらしい……」
肩の震えが落ち着く。
「……白い廊下。窓口。『やれ』って。『魔王を殺せ』じゃなくて……『進め』って」
俺の胸が、嫌な音を立てた。
俺も見た。同じ窓口だ。
「痛みは?」
「少し……弱い。昨日より」
それは良い兆候でもあるし、別の兆候でもある。
痛みが弱い=自由、ではない。痛みが弱い=“別の誘導”が始まった、の可能性もある。
そこへ、救護所の布が揺れた。
眠そうな大権官アウレウスが入ってくる。今日は眠そうなだけじゃなく、少し機嫌が悪い。
「提出する?」
単刀直入すぎる。
俺は頷いた。
「やるなら今日です。猶予が減る」
アウレウスは悠斗を見て、いつもの乾いた声で言った。
「君の同意が要る。怖い?」
悠斗は唇を噛んだ。怖いに決まってる。
でも、悠斗は逃げる代わりに言葉を探した。
「……怖い。でも……殺したくない」
詰まらない。嘘じゃない。良い。
俺は、悠斗にだけ向けて言った。
「正直に言う。目的を変える申請を出すと、“殺せ”は弱まる可能性が高い。でも代わりに、新しい目的が来る。たぶん平和とか停戦とか、面倒なやつ」
悠斗が眉を寄せる。
「……面倒?」
「面倒。けど、殺すよりマシだろ」
悠斗は小さく頷いた。
「……うん」
ナディアが短く釘を刺す。
「提出はいい。でも無理するな。提出の儀式で倒れたら、次は“搬送”の口実になる」
ユーリも淡々と続ける。
「滞在時間は短く。十五分」
そう、十五分だ。昨日の鏡と同じ。
俺はアウレウスを見る。
「手順、整えます。封緘の箱を開けないと」
「開けよう」
アウレウスは眠そうに言って、指を鳴らした。
――
提出の準備は、妙に儀式っぽかった。
アシュの保管箱(魔王軍法務)と、古神殿の保管箱(アウレウス側)。鍵は別。立会人は三人以上。封の確認、開封、取り出し、記録、再封緘。
紙で縛ったはずの“猶予”が、紙でしか扱えない。
人間、どこに行っても同じだなと嫌になる。
机の上に並んだのは、四つ。
受付番号の紙片。
秩序委任札(カシウスの代理印)。
目的再設定申請書(魔王印が焼き付いている)。
国境の立会記録(救護所規程と、同意取得手順の控え)。
署名欄には、悠斗の名前も、俺の名前も、まだ空欄だ。
アウレウスが俺にだけ言った。
「最後に書け。署名は覚悟だから」
「分かってます」
覚悟、って言葉は嫌いだけど、ここでは事実だ。
悠斗が手を伸ばした。指が震えている。
俺は一度だけ、短く聞いた。
「やめるなら、今だ」
悠斗は胸元の学生証を握り、ゆっくり息を吸った。
「……やめない」
そして、棒読みを一回だけ挟んだ。
「……女神様すばらしい……」
震えが落ち着く。
悠斗は、申請書に名前を書いた。
神谷悠斗。
次に俺も書く。
久我幹人。
署名が二つ並んだだけで、紙が“現実”になる。
アウレウスが、秩序委任札を紙の上に軽く当てた。
白い刻印が、薄く浮かぶ。
続けて、古神殿の印。眠そうな手つきなのに迷いがない。
最後に、魔王印はすでにある。黒い紋が、紙の端でじっとしている。
……印が三つ。署名が二人。立会記録も付いた。
揃った。
揃ったからこそ怖い。
「行くよ」
アウレウスが言った。
エレナ、フェリクス、ナディア、ユーリ、そして俺と悠斗。
護衛は入口まで。中は最小人数。刺激を減らす。
古神殿の小部屋。鏡の前。
昨日の銀面が、今日は最初から冷たく光っていた。
まるで「待ってた」と言っているみたいで、最悪だ。
アウレウスが淡々と手順を読む。
「受付番号を提示。猶予案件。目的再設定申請を提出。短く。欲張らない」
俺は、胸の内側の紙片を取り出し、鏡の縁に置いた。
悠斗が喉を押さえ、棒読みで言う。
「……女神様すばらしい……」
揺れが落ち着く。
俺が棒読みで続けた。
「女神様ありがとうございます。受付番号A-07の案件、目的再設定申請を提出します。対象者は二名。目的は戦争停止、救護枠の恒久化、帰還手順の確立です。受付をお願いします」
鏡の面が波打ち、白い廊下が映る。
窓口の向こうに、人影はない。
声だけが、正確に返ってくる。
「申請内容、確認します」
鏡の面に文字が浮かぶ。冷たく、事務的で、最悪に読みやすい。
申請:受理
印章:三種確認
同意:二名確認
立会:確認
目的:再設定可能
悠斗の呼吸が少し深くなる。
そこで、次の行が出た。
達成条件:停戦合意の提出
必要印章:王権印 または 秩序代表印(二種)
期限:猶予終了まで
俺は一瞬、心の中で舌打ちした。
結局、王だ。
王権印か、秩序代表印二種。つまりカシウスの代理印だけでは足りない。もう一つ、同格の“人間側”が要る。
アウレウスが、眠そうに小さく言った。
「ほらね。書類が増える」
鏡の声が続く。
「旧目的による誘導は停止します。新目的への誘導を開始します」
その瞬間、悠斗の肩がびくっと跳ねた。
喉が動く。痛みが来る前のやつ。
悠斗は自分で、すぐ棒読みを挟んだ。
「……女神様すばらしい……!」
止まった。
……止まったけど、違う。
今までの“殺せ”の圧じゃない。
もっと、じわっとした圧。
背中を押す感じ。
悠斗が小さく呟いた。
「……殺せって、言ってない……」
その声は震えていたけど、恐怖だけじゃない。
安堵が混じっていた。
鏡の面が、ゆっくり暗くなる。
白い廊下が消える前に、最後の文字が一行だけ残った。
警告:妨害があれば補助が起動します
アウレウスが即座に言った。
「終了。撤収」
撤収、の言い方が軍人だ。長命種、仕事が雑に速い。
部屋を出た瞬間、俺は息を吐いた。
悠斗はナディアに支えられながら、少しだけ笑った。
「……ミキトさん」
「ん」
「……殺さなくていい、って……体が言ってる気がする」
それは、救いだ。
でも、救いってやつはいつも次の面倒を連れてくる。
フェリクスが青い顔で言った。
「……王都が知ったら……荒れます……」
「荒れる」
俺は短く頷いた。
「だから、停戦合意を先に作る。王が来る三日後までに、枠を固める」
アウレウスが眠そうに言う。
「君、忙しくなるね」
「いつもです」
救護所に戻る途中、悠斗がぽつりと言った。
「……新しい目的って……停戦……だよね」
「そう」
「……それなら……やる。やれる気がする」
十代の子が言うには、背負いすぎだ。
でも、殺すよりはずっといい。
俺は頷いた。
「やれる形にする。紙で。枠で。人を燃やさない形で」
遠くで礼拝堂の賛歌が鳴っている。
喉の奥がむずっとしたが、今日は録音札を押さなかった。
いま押さなくても、ちゃんと呼吸できた。
……目的が変わると、身体の反応も少し変わる。
それが嬉しくて、同時に怖かった。
三日後、王が来る。
その前に停戦の“紙”を用意できるか。
この章のワクワクは、剣じゃなくハンコで来る。最悪だ。最高だ。




