第32話 追加書類のご提出をお願いします
その夜、俺は眠れなかった。
救護所の膜の外にある礼拝堂の賛歌が、遠いはずなのに耳の奥を撫でる。撫でるのに、皮膚を削る。そういう音だ。
机の上には、白い紙片。
受付番号。
猶予という名の命綱。
眠れない時ほど、頭は最悪の計算を始める。
番号が消えたら?
猶予が切れたら?
悠斗がまた「搬送」という名の回収で消えたら?
喉がむずっとしたので、録音札を押す。
「女神様すばらしい」
棒読み。ノイズが一段落ちる。
……落ちるけど、眠れない。
目を閉じる。
閉じた瞬間、暗闇の奥に“白”が差し込んだ。
白い廊下。
鏡の向こうで見たのと同じ、無駄に清潔で、無駄に冷たい空間。
壁には文字が流れている。読めない。読めないのに意味だけが刺さってくる。
目的:未達
補助:猶予中
次工程:確認
コツ、コツ、と足音がして、カウンターが現れた。
窓口。
そこには誰もいないのに、“声”だけがあった。
「受付番号を提示してください」
俺は反射で胸を探し、白い紙片を出した。
夢の中なのに、ちゃんと冷たい。
「A-07……」
「確認します」
カウンターの奥が一瞬だけ光った。
「追加質問。目的未達の理由を述べてください」
喉が詰まりかける。
痛みじゃない。胃が縮む種類の圧だ。
こいつ、会話じゃなくて監査だ。
俺は、いつもの手順に逃げる。
「女神様ありがとうございます」
声は淡々と返した。
「続けてください」
……効かない。効くけど、扉が開くだけで止まらない。
俺は息を吸って、腹の底の仕事モードを引っ張り出した。
「目的が不適切です。現状の戦争原因と整合しません。達成しても世界安定が担保されない可能性があります」
言い切った瞬間、カウンターの奥に紙が一枚落ちた。
レシートみたいな薄い紙。
そして声。
「目的再設定を提案してください」
……来た。アウレウスが言っていた“目的はいじれる”の、これか。
同時に、頭の奥がむずっとする。
勝手に言葉が出そうになる。押し込まれる。誘導される。
倒せ。殺せ。終わらせろ。
俺は歯を食いしばって、別の言葉を選んだ。
「代替目的:戦争の停止。救護枠の恒久化。召喚者の帰還手順の確立」
カウンターの奥が静かになった。
一拍。
「必要書類を提示してください」
……必要書類。
夢の中で必要書類って何だよ、と言いたいのに、言うと不利になると分かってしまうのが最悪だ。
声が続けた。
「提出期限:猶予終了まで」
白い廊下がすっと暗くなって、俺は目を覚ました。
額が汗で濡れていた。
心臓がうるさい。
喉がむずっとする。
録音札。
「女神様すばらしい」
棒読みで押し返して、ようやく息が戻る。
白い紙片の受付番号は、現実でも冷たかった。
「……必要書類、ね」
紙の世界は、いつも最後に紙を要求する。
翌朝、国境。
アウレウスは相変わらず眠そうで、でも目だけは昨日より起きていた。
「君、見たね」
俺が言う前に言い当てる。腹が立つほど察しがいい。
「窓口が夢に出ました。追加質問と、目的再設定の提案」
「うん。登録されたからね」
眠そうに言って、アウレウスは小さく肩をすくめた。
「猶予を取った時点で、“案件”になった。案件は追跡される。これは世界の常識だよ」
世界の常識、で済ませるな。
俺は受付番号の紙片を見せた。
「必要書類って、何ですか」
アウレウスは少しだけ目を細めた。
「人間が作った手順じゃない。だからね、理屈がシンプルで残酷なんだ」
そして、言った。
「世界の秩序を代表する印が要る」
「……王印?」
「それも一つ。もう一つは、魔王印か、古神殿印。つまり“対立する側の代表が合意した”という証拠」
なるほど。目的変更が“勝手な改竄”にならないように、両陣営の代表で縛る。
悪くない。悪くないけど。
「人間の王が、戦争を止める目的変更に署名しますかね」
「しないだろうね」
アウレウスは眠そうに即答した。
「だから面白い」
面白いって言うな。
そこへ、救護所からナディアが出てきた。悠斗を支えながら。
悠斗は歩けている。まだ弱いけど、目が昨日より“ここ”を見ていた。
悠斗は俺を見るなり、胸元の学生証を握って、小さく言った。
「……昨日の鏡……」
喉が詰まりかける。
自分で棒読みを挟む。
「……女神様すばらしい……」
そして続けた。
「……また、やりたい……でも、怖い……」
怖いのは正しい。欲張ったらまた補助が出る。
俺は頷いて、できるだけ短く言う。
「またやる。そのために、今日から準備する」
悠斗が眉を寄せる。
「……準備?」
「目的を変える準備」
悠斗の目が見開かれた。
「……目的……」
アウレウスが、悠斗にも分かる言葉に落とす。
「君に“魔王を倒せ”と押し付けるのが、今の目的の形。君が嫌なら、別の形にする申請ができる。だけど、その申請には紙が要る」
悠斗がぽかんとした顔で言う。
「……紙……ほんとに紙……」
「ほんとに紙」
俺も同じ顔だ。
アウレウスが指を鳴らした。
空中に、薄い白紙が一枚落ちる。昨日のレシートに似た質感。
そこに文字が浮かぶ。
目的再設定申請
必要書類:
1)当事者同意(署名)
2)国境手順の立会記録(双方署名)
3)秩序代表の印章(二種以上)
期限:猶予終了まで
悠斗が青い顔になる。
「……印章って……ハンコ……?」
「ハンコだ」
俺は苦笑した。
「世界を動かすのに、ハンコが要る」
アウレウスが眠そうに頷く。
「世界はだいたいハンコで動く。君の世界も似てるだろ」
似てるのが嫌すぎる。
悠斗が、震える声で言った。
「……王様が……押してくれなかったら……?」
俺は嘘をつかない。
「押させる」
悠斗が固まる。
俺は続ける。言葉を柔らかくしすぎない。これは決意じゃなく、仕事の宣言だ。
「押すメリットを作る。押さないデメリットを作る。押しても面子が守られる形を作る。紙で」
悠斗が小さく笑いかけて、すぐ真面目な顔に戻った。
「……ミキトさん、こわい……」
「よく言われる」
言われたことはないけど、たぶんこれから言われる。
ナディアが悠斗の肩を軽く叩く。
「今の話は後。今日は回復優先。喋ると削れる」
悠斗が頷く。
アウレウスが、俺にだけ小声で言った。
「君も削れる。夢で窓口に呼ばれた時点で、君は“対象”になった」
「分かってます」
「じゃあ一つ、深掘りの質問」
眠そうな目が、ほんの少しだけ鋭くなる。
「君は、何のためにこんな面倒を背負う?」
俺は一拍置いた。
合理で誤魔化すのは簡単だ。仕事だから、面倒が増えるから、って言えばいい。
でも、アウレウスの目は誤魔化しを見抜く目だった。
俺は正直に言った。
「……俺、ずっと“優等生”やってきたんです」
アウレウスが黙る。聞く姿勢になる。
「大学も、会社も、正解のルートを踏んで、評価されて、気づいたら“エース”扱いで。責任を押し付けられても、断る言葉を知らなかった」
喉が少し詰まる。夢の廊下がよぎる。
「悠斗は、俺よりずっと若い。俺が押し付けられて嫌だったものを、あいつはもっと雑に押し付けられてる。……見過ごしたら、たぶん俺は自分を許せない」
アウレウスが、眠そうに息を吐いた。
「なるほど。君は君を救うために、彼を救ってる」
図星で、腹が立つ。
「……そうかもしれません」
「それでいい」
アウレウスは淡々と言った。
「純粋な善意より、よほど長持ちする」
嫌な励ましだ。でも効く。
救護所へ戻る途中、悠斗がふいに言った。
「……ミキトさん」
「ん」
「……俺、殺したくない。絶対」
言い切った。詰まらなかった。
その言葉は、要件定義の核心だった。
俺は頷いた。
「分かった。じゃあその要件を、紙にして世界に押し付ける」
悠斗が小さく息を吐く。
「……紙、嫌いになりそう……」
「俺はもう嫌いだ」
正直に言うと、悠斗が少しだけ笑った。
笑える余裕が戻ってきたのは、救護所の勝ちだ。
ただし、猶予には期限がある。
俺は胸の内側の受付番号に触れた。
次の作業は決まった。
王印を取る。
ただの戦争を、ただのハンコ戦に落とす。
この世界が紙で動くなら、紙で終わらせる。




