第31話 受付番号が発行されました
鏡の縁に、白い指がかかった。
銀の面が水面みたいに盛り上がり、こちら側へ“押し出される”気配がする。
息が冷たくなる。
アウレウスが、今までで一番はっきりとした声で言った。
「手順を切る。今すぐ」
エレナが聖具を構える。光らせないまま、刃物みたいに静かだ。
悠斗の喉が詰まり、顔が歪む。
「……め……」
「棒読み!」
俺が言うより早く、悠斗が必死に言った。
「……女神様すばらしい……!」
震えは止まる。でも、鏡の白い指は止まらない。
そして、白い影が喋った。
声は男でも女でもなく、感情もない。音量だけが正確だった。
「補助プロセス、起動。対象、召喚者。目的、未達。補助、必要」
アウレウスが舌打ちを飲み込み、鏡の縁に手を置く。
「出るな。ここは国境の枠だ」
白い影は、返答の代わりに同じ文を繰り返した。
「補助、必要」
まずい。
こいつは会話をしていない。条件が揃うまで、同じ操作を実行し続けるタイプだ。
俺は一歩だけ前に出た。鏡に近づきすぎない。悠斗からも離れすぎない。
そして、仕事の声で言った。
「確認します。対象者は療養中。現在、意思決定が不安定。補助の受け取りは保留します」
白い影の指が止まった。
鏡の面に文字が浮かぶ。
保留?
根拠?
……根拠を求めてくる。しかも短い。
俺の世界でも最悪の相手だ。理屈が通る最悪。
フェリクスが震える声で言った。
「大権官閣下……これは……古い“監査補助”の形式です。紙が要ります……」
アウレウスが、眠そうな顔に戻りかけたまま言った。
「知ってる。知ってるけど、嫌いなやつだ」
嫌いでも、必要ならやるしかない。
俺は目だけでアウレウスを見る。
「閣下、手順、ありますか」
アウレウスは小さく息を吐いた。
「ある。忘れられてるだけで」
そして、悠斗ではなく俺に言った。
「君が言え。君の口は“窓口”に向いてる」
嫌な褒め方だが、今はありがたい。
アウレウスが短い文言を口述した。やけに簡単で、やけに腹立つ。
「“女神様ありがとうございます。対象者は療養のため猶予を申請します。受付をお願いします”」
俺は鏡に向かって、棒読みで言った。
「女神様ありがとうございます。対象者は療養のため猶予を申請します。受付をお願いします」
白い影が、一拍遅れて反応した。
鏡の面に文字。
申請:受理
猶予:付与
補助:停止
白い指が、すっと引っ込んだ。
銀の面が静まり、真っ白な廊下が溶けて消える。
代わりに、一瞬だけ駅のホームが戻った。けれどそれもすぐ薄くなっていく。
悠斗が反射で叫びかける。
「……おか……!」
喉が詰まり、痛みに変わりかける。
悠斗は自分で棒読みを挟んだ。
「……女神様すばらしい……」
そして、短く言い直した。
「……生きてる……!」
その一言だけが、鏡の向こうへ滑り込んだ。
次の瞬間、鏡は完全に暗くなった。
部屋の温度が戻る。呼吸ができる。やっと。
俺は膝が少しだけ緩むのを感じた。
アウレウスが、床に落ちた白い紙片を拾う。
薄い。紙というより、レシートみたいな質感。古神殿文字が走っている。
「……受付番号、発行された」
フェリクスが青い顔で覗き込む。
「やめてください……それ、無くしたら……また来ます……」
「来るね」
アウレウスは淡々と頷いた。
「番号がある限りは猶予が効く。番号が消えたら、補助が再起動する」
俺は紙片を受け取った。触れた瞬間、指先がひやっとした。紙なのに冷たい。
そこに並ぶ数字と記号は、妙に“事務っぽい”。
受付番号:A-07-…
俺は紙片を折らず、胸の内側にしまった。
これは武器じゃない。首輪でもない。
今は“猶予”の証拠だ。
ナディアが悠斗の肩を支える。
「大丈夫? 呼吸して。ゆっくり」
悠斗は頷く。目が潤んでいるのに、泣かない。泣くと喉が詰まるのを学んでしまっている。
「……見えた……」
声が震える。
「……お母さん、いた……たぶん……」
俺はすぐ肯定しない。断定もしない。
「見えたのは事実だ。届いたかは、次の手順で確かめる」
悠斗が小さく頷く。
「……また……やれる……?」
欲張ると失敗する。さっき、アウレウスが言った通りだ。
俺は正直に言った。
「やれる。でも今夜は終わり。猶予を取った。これ以上触ると、また補助が起動する」
悠斗が悔しそうに唇を噛む。
その悔しさは健全だ。自分の意思が戻ってきている証拠でもある。
エレナが、珍しく柔らかい声で言った。
「今日は十分です。あなたは“自分の言葉”を通した」
悠斗が驚いた顔をする。聖別官に褒められると思ってない顔だ。
エレナは続けた。
「痛みが来たら、棒読みでいい。祈りではなく、手順です」
信仰者としては言いたくないはずの言葉を、彼女は言った。
その瞬間だけ、エレナは技術者じゃなく、人間だった。
アウレウスが俺を見た。
「猶予を取った。次は“目的”をいじるか、“戻り道”を作るかだ」
「目的をいじる?」
「未達のままだと補助が来る。猶予は時間を買うだけ。いつか期限が来る」
淡々と言う。怖いほど現実的だ。
俺は、胸の内の紙片に触れた。
受付番号。猶予。つまり、今の俺たちは女神OSに“登録”された状態だ。
便利で最悪。
帰り道の手がかりにもなるし、追跡の手がかりにもなる。
アウレウスが眠そうに言った。
「君、いい顔してないね。分かるよ。登録されるのは嫌だ」
「嫌です」
「でも、嫌でも使う。君はそういう大人だ」
言い返せない。
ナディアが悠斗を抱え直した。
「帰る。救護所へ。刺激はもう十分」
帰り道、礼拝堂の賛歌がまた耳に刺さってきた。
俺は録音札を押す。
「女神様すばらしい」
棒読みで押し返す。
その棒読みが、今夜だけは少し違って聞こえた。
助けではなく、猶予の請求。
祈りじゃない。交渉だ。
救護所の布が見えたところで、アウレウスが俺にだけ小声で言った。
「久我幹人。次は君の番かもしれない。夢で“目的”の再通知が来る」
嫌な予告だ。
「来たらどうすれば」
アウレウスは眠そうに笑った。
「要件定義しな。目的ってのは、書き換えられる」
救護所に戻った時、悠斗は毛布を握りしめたまま、ぽつりと言った。
「……受付番号って……なんか……ゲームみたい……」
「ゲームじゃない」
俺は即答して、少しだけ言葉を柔らかくした。
「でも、番号があるなら、こっちからも呼べる。呼ぶなら、勝てる形で呼ぶ」
悠斗が小さく頷く。
「……勝てる形……」
俺は胸の内の白い紙片を確かめる。
猶予は取った。
次は、その猶予を“帰り道”に変える番だ。




