第30話 古神殿の鏡は、嘘をつかない
救護所の外に出ると、礼拝堂の賛歌が耳の奥で粘った。
喉がむずっとする前に、俺は録音札を押す。
「女神様すばらしい」
棒読みで押し返す。
その直後、古神殿付のルーカスが無言で近づいてきて、小さな封書を差し出した。
「大権官より。今夜。国境の枠内。……“鏡”」
封書は短かった。
今夜、古神殿の鏡を開く。
同席:久我幹人、神谷悠斗。
目的:連絡の可能性を確認。
俺の心臓が一回、余計に跳ねた。
要件定義に書いたやつだ。
お母さんに連絡。
できるとは言ってない。可能性を確認、だ。古神殿の言い方はいつも冷たいのに、今日は妙にありがたい。
俺は救護所に戻って、ナディアとユーリにだけ短く言った。
「今夜、鏡を開くらしい。悠斗を連れていきたい」
ナディアは一瞬だけ迷ってから、頷いた。
「動ける距離は短い。抱えてでも連れていくなら、途中で必ず水。刺激は最小」
ユーリが時計を見る。
「滞在は十五分。超えるな。超えたら戻らない」
怖い言い方をする。
でも、正しい。
寝台の悠斗に、俺はゆっくり言った。
「神谷くん。今夜、古神殿の偉い人が“鏡”っていう道具を見せるらしい。向こうに一言だけ届く可能性がある」
悠斗の目が見開かれた。
喉が詰まりかけて、慌てて自分で棒読みを挟む。
「……女神様すばらしい……」
肩の震えが落ち着いてから、震える声で言った。
「……ほんとに……?」
「分からない。だから確認する。行くかどうかは君が決める」
悠斗は胸元の学生証を握りしめた。
しばらく黙って、それから小さく頷いた。
「……行く」
その一言が詰まらなかった。
それだけで、俺は少しだけ救われた。
――
夜。
国境のさらに端、礼拝堂から距離を取った場所に、古い石の入口があった。
近づくほど空気が乾く。古神殿の匂いだ。
入口の前に、眠そうな顔のアウレウスが立っていた。
「来たね。時間は短く」
その横に、聖別官エレナ。光らない聖具を持っている。さらにフェリクスがいて、顔色が死んでいるのに仕事はしている。
「現地担当として、立会います……」
声が震えている。胃が痛いのが伝わる。
悠斗はナディアに支えられて歩いていた。歩けるだけでも大きいが、足取りはまだ頼りない。
アウレウスが悠斗を見て、ほんの少しだけ眉を動かした。
「……来るだけで、えらい。えらいは言わない方がいいか」
自分で自分を抑えるのが、意外だった。
アウレウスは石扉に手を当てた。刻印が淡く光る。
扉が、音もなく開いた。
中は狭い通路で、壁に細い文字がびっしり刻まれている。読めない。読めないのに、目が勝手に追ってしまう。
悠斗の呼吸が浅くなった。
俺は小声で言う。
「棒読み、いつでも」
悠斗が頷く。
奥の部屋に入った瞬間、空気が変わった。
水のない井戸みたいな石の台座。その中央に、銀色の面が張られている。鏡だ。なのに鏡らしくない。光を反射するというより、光を吸う。
アウレウスが淡々と言った。
「古神殿の鏡。昔は、召喚者に“向こうは存在している”と示すために使った。戻すためじゃない。繋ぐための端末」
端末、って言った。俺はその単語に引っかかって、少しだけ口の端が動いた。
アウレウスは俺を見て、眠そうに付け足す。
「君の世界の言葉だと、たぶんそれが近い」
エレナが短く言う。
「手順を守ってください。間違えると、反応が跳ねます」
フェリクスが紙束を差し出してきた。
「……同意書です。鏡の使用は本人同意、立会人署名、記録保持……」
この世界、鏡を使うにも紙が要る。腹が立つほど落ち着く。
悠斗が震える手で同意欄に名前を書いた。
神谷悠斗。
その瞬間、鏡の面が、ほんの少しだけ揺れた。
喉がむずっとして、悠斗が反射で言う。
「……女神様すばらしい……」
揺れが落ち着く。棒読みが手順として機能するの、ほんとに狂ってる。
アウレウスが鏡の縁を指でなぞった。
「これから言う通りに。短く。欲張ると失敗する」
悠斗が頷く。
アウレウスは悠斗にだけ言った。
「まず、感謝を言う。心は要らない。言葉だけでいい」
悠斗が息を吸う。
「……女神様、ありがとうございます」
棒読みじゃない。必死な声だった。
鏡が淡く光った。
次の瞬間。
鏡の面に、駅のホームが映った。
俺の世界だ。蛍光灯の白さ。広告の色。人の服。
悠斗が息を呑む。
「……うそ……」
喉が詰まりかけて、すぐ棒読みを挟む。
「……女神様すばらしい……」
そして、鏡へ向かって絞り出した。
「……お母さん……! 俺、生きてる! いま、変なところにいる! でも、帰るから……!」
声が震えた。
鏡の中で、誰かが振り向いた。
女の人。エプロン。台所の明かり。
悠斗の母親かどうかは、俺には分からない。
でも悠斗は、分かった顔をした。
目が、潤んだ。
「……かあ、さ……」
そこで、鏡の光が一段強くなる。
部屋の温度が下がった。
耳の奥に、あの嫌な圧が刺さる。
女神の声、じゃない。
もっと機械的で、もっと冷たい。
鏡の面に、古神殿文字が浮かび上がった。
認証:召喚者
目的:未達
補助:必要
アウレウスが、初めて眠そうじゃない声を出した。
「……来るな」
エレナが聖具を低く構える。光らせないまま、息だけが鋭い。
悠斗の顔が一気に青くなった。
喉が勝手に動く。痛みが来る。
「……め……」
俺はすぐ言う。
「棒読み。今!」
悠斗が必死に言った。
「……女神様すばらしい……!」
肩の震えが止まる。止まったけど、鏡の光は止まらない。
鏡の中の台所が、白く溶けていく。
代わりに映ったのは、白い廊下。
何もない、真っ白な空間。
その奥から、足音がした。
コツ、コツ、コツ。
アウレウスが低く言った。
「手順を切る。今すぐ」
俺は反射で録音札を押した。
「女神様すばらしい」
棒読みで押し返す。押し返しても、寒気が消えない。
鏡の面に、白い影が立った。
翼の形。人の形。
目が、こちらを見た。
そして、鏡の縁に白い指がかかった。
――次の瞬間、鏡のこちら側へ、何かが“出よう”とした。




