第29話 要件定義は、命を救う
救護所に戻ると、ナディアが入口で腕を組んで待っていた。
「大権官と話してきた?」
「話した。……話が通るタイプだった」
「通るけど、曲がってる」
ナディアは真面目な顔で言い切った。医者の診断みたいな物言いだ。
救護所の中は静かだった。遮音膜のおかげで、礼拝堂の賛歌は“遠い波”に押し込められている。
寝台の上で、悠斗が目を開けていた。起き上がろうとして、すぐ諦める。動くとまだ熱がぶり返す。
視線だけで俺を見る。
「……さっきの人……誰……」
喉が詰まりかける前兆。悠斗は自分で息を整え、棒読みを一度挟んだ。
「……女神様すばらしい……」
肩の震えが少し落ち着く。
俺は頷いた。
「古神殿の偉い人。アウレウスって名乗ってた。今は味方でも敵でもない。仕事人」
「……仕事人……」
悠斗が小さく笑いかけて、すぐ咳き込みそうになってやめた。
ナディアが即座に水を差し出す。
「笑うと喉が乾く。今は笑いを節約」
「……はい」
素直すぎて胸が痛い。こいつ、抵抗する余裕が削られてる。
俺は椅子を引き、寝台から少し離れた場所に座った。近づきすぎない。救護所で学んだルールだ。
「神谷くん。ちょっとだけ話そう。長いのは後」
悠斗が頷く。
「……うん」
「まず確認。いま一番しんどいのは、どれ」
俺が指を立てていく。
「頭痛? 吐き気? 眠れない? それとも“声”?」
悠斗は少し迷ってから、胸元を押さえた。
「……声……と……頭……」
やっぱりそこだ。
ナディアが淡々と補足する。
「熱と脱水もある。だけど原因は睡眠不足と、刺激。声が睡眠を奪う」
俺は頷いて、メモ代わりに紙を一枚出した。こういう時、紙は落ち着く。
「じゃあ、今日の目的は二つ。声を弱める、眠りを増やす。ここまで」
悠斗が紙を見て、少しだけ目が安定した。見える形の目標があると、息が整う。若いのに、ちゃんと人間だ。
「……眠れたら……帰れる……?」
すぐ“帰る”に繋がる。繋げないと壊れる仕様だ。
俺は嘘をつかない範囲で、でも折らない言い方を選んだ。
「眠れたら、判断できる。判断できたら、選べる。選べる状態に戻すのが先」
悠斗が小さく頷く。
「……選ぶ……」
言葉にしただけで、少しだけ“人”に戻った顔になった。
ナディアが、薬草の匂いのする布を取り出した。
「これ、喉と胃。苦い」
悠斗が一瞬だけ顔をしかめる。こういう反応が出るのは良い。人間らしい。
「……飲む」
飲んだ。えらい。えらいって言葉を口にすると、また“子ども扱い”になる気がして飲み込んだ。
代わりに俺は、別の話を始める。
「次。これ大事。神谷くん、今日から“同意”って言葉を覚えて」
悠斗が首を傾げる。
「……どうい……?」
「“いい”って言うこと。“嫌”って言うこと。どっちも。どっちも同意」
悠斗の目が揺れる。たぶん、ここで“嫌”って言って痛くなった記憶がある。
俺はすぐ付け足した。
「言い方を変えてもいい。『ここで休みたい』って言えたよな。あれが同意」
「……うん」
そこへ、布が揺れて、細身の神官――フェリクスが顔を出した。
「失礼します……」
声が死んでいる。生きているけど死んでいる。
フェリクスの後ろに、古神殿の使いらしい無表情の男が一人。小さな箱を持っている。
フェリクスが俺にだけ小声で言った。
「大権官閣下から……“通行権”です。あなた宛てに、そして……この子の分も」
箱が開かれた。
中には、小さな白い札が二つ。骨みたいな色の石片に、細い刻印。触れなくても、古い権限の匂いがする。
アウレウスの印だ。
フェリクスが読み上げるのを躊躇って、でも読んだ。
「『国境の枠内において、対象の身柄に対する古神殿の一方的処置を停止する。変更は双方署名を要す』」
……盾だ。でかい盾。
同時に、首輪にもなり得る。
俺は札を一つ取り、悠斗には見せるだけにした。いきなり渡すと“物語”が増える。まず説明。
「これがある限り、古神殿は勝手に“浄化”できない。少なくとも、こっちの枠の中では」
悠斗が札を見て、息を飲んだ。
「……それ……すごいの……?」
「すごい。けど万能じゃない。万能じゃないから、紙で補強する」
俺が言うと、フェリクスが泣きそうな顔で頷いた。たぶん彼も同じことを思ってる。万能じゃないから、彼は毎日胃が死んでる。
ナディアが札を見て、ほんの少しだけ安心した顔をした。
「これがあるなら、夜の“搬送ごっこ”は減る」
「減るだけでゼロじゃないのが嫌だな」
「嫌な世界だからね」
ナディアは真顔だ。笑えない。
フェリクスが去り際に、悠斗へ短く言った。
「……無理に祈らなくていい。棒読みでいい。君の喉が壊れる」
神官がそう言う世界。狂っているのに、助かる。
フェリクスが布の外へ消えると、救護所はまた静かになった。
悠斗が、札を見たまま小さく言った。
「……なんで……俺の分まで……」
俺は答えた。
「古神殿の人は“事故”が嫌いなんだと思う。事故は後片付けが増える。だから止める」
悠斗が少しだけ口を尖らせた。
「……優しいんじゃないんだ……」
「優しいかもしれない。でも、優しさを期待しない方が安全。期待しないで済む仕組みを作る」
言ってから、自分が嫌な大人になった気がした。
でも今は、それでいい。
俺は紙をもう一枚出して、悠斗に見せた。
「要件定義。聞いたことある?」
「……ない」
「簡単に言うと、“何が必要で、何が嫌か”を最初に決める」
悠斗が眉を寄せる。
「……そんなの……決めていいの……?」
胸が痛い。
「決めていい。君の体のことは君が一番詳しい。だから君が決める。俺はそれを守る枠を作る」
悠斗は少し黙ってから、絞り出すみたいに言った。
「……嫌なのは……殺すの……」
喉が詰まりそうになって、悠斗は自分で棒読みを挟む。
「……女神様すばらしい……」
そして続けた。
「……誰かを殺して帰るの……嫌……」
言えた。詰まらなかった。言い方が上手い。悲しいほど上手い。
俺は頷いて、紙に書いた。
嫌:殺して帰る
「次。必要なのは?」
悠斗が少し考える。目が天井に向く。考える余裕がある。これも回復だ。
「……眠る……」
「うん」
「……帰り方……」
「うん」
「……あと……お母さんに……連絡……」
その言葉が出た瞬間、俺の心臓が一回変な跳ね方をした。連絡。そうだ。そりゃそうだ。高校一年だ。家族がある。
俺はすぐに返事をしなかった。軽く扱えない。
だから、正直に言った。
「連絡手段は、今はない。でも“探す”はできる。神殿と古神殿には通信っぽい術式がある。俺は窓口を作る」
悠斗の目が揺れる。期待をさせすぎないように、でも折らない。
「約束はしない。でも仕事にする。やる」
悠斗が小さく頷いた。
「……ありがとう……」
ナディアが、寝台の脇で毛布を整えた。
「今日はここまで。しゃべると消耗する。眠る。次は“帰り方”の話を短く」
悠斗が頷き、瞼を落とし始める。
落ちる前に、ふと俺を見た。
「……ミキトさん……」
初めて、俺を呼んだ。
名前で呼ばれた瞬間、変な責任が肩に乗った気がした。
「ん」
「……魔族側なのに……なんで……」
そこで詰まりかけて、悠斗は慌てて棒読みを挟む。
「……女神様すばらしい……」
静かになった目で、続きを言う。
「……なんで……ここまで……」
俺は少しだけ笑った。笑っていい種類の笑いじゃないけど、笑うしかない。
「大人だから」
悠斗が目を丸くする。
「大人は、子どもに無茶を押し付けるのが得意だ。俺はそれが嫌いになった。……遅いけどな」
悠斗の目が、少しだけ柔らかくなった。
「……遅くない……」
その声は、小さいけどはっきりしていた。
悠斗が眠りに落ちる。
俺は紙を畳み、胸の中で一つだけ確認した。
この章でやることは、“強くなる”じゃない。
人を人に戻すための、要件定義を積む。
枠を作るために、まず中身を知る。




