第24話 四時間の壁
救護所の膜は、礼拝堂の賛歌を「遠い音」にしてくれていた。
それでも、完全に消えるわけじゃない。耳の奥で、しつこく波打つ。
ナディアが淡々と宣言する。
「四時間。守りました。起こしませんでした。起こしに来た人も追い返しました」
昨日の“搬送”を止めた条項は、夜に一回さっそく試された。試されたけど、踏ませなかった。
神谷悠斗は、まだ顔色は悪いものの、目だけは昨日よりはっきりしている。起き上がるのはつらそうで、上体を少し起こすだけで肩が上下した。
そこへ、トルストンが入ってくる。紙束を抱えて。
「睡眠は確保したな。では同意を取る」
速い。速すぎる。紙で縛った瞬間、紙で殴り返す。
聖別官エレナも入ってきた。神殿治癒官マリナ、研究医療卿ユーリ、法務卿アシュ、軍務卿グランも揃う。
立会人が揃いすぎて、救護所が会議室みたいになった。
トルストンが紙を机に置く。
「医療搬送の同意書。王都へ移せば安全だ。署名しろ」
悠斗の指が胸元の学生証を握る。喉が鳴る。痛みが出る前兆。
俺は短く言った。
「言い方を変える。『行きたくない』じゃなくて『ここで休む』」
悠斗は一度だけ呼吸を整え、棒読みを挟む。
「……女神様すばらしい……」
肩の震えが少し落ちる。
「……ここで、休みたい……」
通った。詰まらない。
トルストンが即座に言い換えてくる。
「休ませるための搬送だ」
屁理屈が速い。
だからこちらも速くする。言い換えの戦いじゃなく、記録の戦いに落とす。
アシュが黒い紙を机に置いた。
「同意取得の手順に基づき、本人意思の記録を先に作る。署名はその後だ」
ユーリが淡々と追撃する。
「環境変化は悪化要因。搬送は治療ではない。今は“ここで休む”が医学的に妥当」
マリナが唇を噛みながら頷く。
「……神殿医療としても、同意します」
エレナが結論を置く。
「技術的に妥当です。搬送は現時点で不要。必要なら再評価」
トルストンのこめかみが動く。四方から「妥当」で囲まれると、監察官は動けない。
「……なら、本人意思を記録しろ。逃げ道は残す」
「残します」
俺は淡々と言う。
「再評価は手順の中。今は、本人の意思が先」
悠斗の前に紙が置かれる。署名欄じゃない。“意思記録”欄だ。
短い文が二行。
私は本日、救護所での休養を希望する。
王都への搬送は希望しない(再評価は別途)。
悠斗が震える指で、でも自分の意思で頷いた。
「……書く」
名前を書こうとして、喉が詰まりかける。
悠斗は自分で棒読みを挟む。
「……女神様すばらしい……」
そして、書いた。
神谷悠斗。
その瞬間、場の空気が一段落ちる。紙に落ちた名前は、命令より強い。
トルストンは歯を食いしばって署名した。王印も押した。エレナも、神殿も、立会人として署名する。
医療搬送は、今日のところ消えた。
消えたというより、紙の引き出しに押し込めた。
悠斗が小さく息を吐く。
「……紙って……勝てるんだ……」
「勝てない時もある」
俺は正直に言った。
「でも、今日みたいに“逃げない形”は作れる」




