第23話 同意書は紙の刃
朝。
中立救護所の膜越しに、礼拝堂の賛歌が遠い波みたいに揺れていた。
悠斗は起きていた。目の焦点が、昨日よりちゃんと合っている。
「……寝れた?」
「……ちょっとだけ」
ちょっとでも、でかい。
ナディアが淡々と水を渡す。
「飲んで。ゆっくり。喉が乾くと、声が詰まりやすい」
悠斗が頷き、飲む。喉が鳴る。ちゃんと飲めてる。
俺は椅子に座ったまま、距離を保って言った。
「昨日の夢の話。覚えてる範囲でいい。短く」
悠斗が胸元の学生証を握り、息を吸う。
「……『魔王を殺せ』って……女の声……」
喉が詰まりかける。
悠斗が自分で、棒読みを挟んだ。
「……女神様すばらしい……」
肩の力が抜ける。学習が早い。早すぎて悲しい。
俺は頷いた。
「いい。続けて」
「……殺さないと……帰れないって……言われた。断ろうとすると……頭が割れる……」
そこまで言って、悠斗の目が揺れた。
次の言葉が危ない。深掘りすると、痛みが跳ねるやつだ。
俺が口を開こうとした、その時。
救護所の布が、乱暴にめくられた。
「よし、手続きだ」
王都監察官トルストンが入ってきた。後ろに護衛。紙束。嫌なセット。
フェリクスもいる。顔色がさらに悪い。止めに来た顔だ。
トルストンが紙を机に叩く。
「医療搬送の同意書だ。本人の署名があれば問題ない」
来た。
“搬送は本人同意が原則”の条項を、正面から踏みに来た。
悠斗が固まる。呼吸が浅くなる。喉が鳴る。
トルストンが声を少し柔らかくした。
「怖いだろう? 王都なら安全だ。治療も十分だ。署名しなさい」
優しい声。いちばん信用できない種類の優しさ。
悠斗の指が学生証を握りしめる。喉が詰まる。
「……い……」
痛みの予兆が顔に出る。
俺は即座に割って入った。
「監察官。今この場での署名は無効です」
トルストンの目が吊り上がる。
「何だと?」
「睡眠不足、発熱、祝福干渉下。自由意思が担保されていない」
俺は救護所の掲示を指さした。
「あなたが署名した条項です。“必要性・同意・監督”。同意は自由意思が前提。自由じゃない同意は、同意じゃない」
トルストンが鼻で笑う。
「言いがかりだ。本人が嫌なら署名しなければいい」
悠斗が震える。
“嫌”と言おうとすると痛い。仕様だ。
だから、言い換える。
俺は悠斗に視線だけ送って、短く言った。
「言い方を変えて。『ここで休みたい』」
悠斗が息を吸って、絞り出す。
「……ここで……休みたい……」
通った。詰まらない。
トルストンが顔を歪める。
「休みたい? なら休ませるために搬送だ」
屁理屈が速い。仕事ができるタイプの最悪だ。
そこへ、エレナが救護所の端から静かに歩み出た。聖具は持っているが、光らせない。珍しく気遣いをしている。
「監察官殿。今この子の意思確認をすると、祝福干渉が混ざります。技術的に、同意の品質が担保できません」
トルストンが睨む。
「古神殿が王命に逆らうか」
「逆らっていません。手順を守っています」
エレナは淡々と続けた。
「王都へ搬送したいなら、まず状態を安定させる。その後、立会人同席で再確認。これが合理です」
フェリクスが、ほとんど涙目で追撃する。
「監察官殿……今ここで署名を取れば、“強要した”と記録に残ります。王都への報告が……」
トルストンの眉がぴくりと動いた。
報告が整うかどうか。そこが地雷。
俺は畳みかけた。
「同意取得の手順を追加しましょう。今日ここで」
「また紙か!」
「あなたの得意分野です」
その瞬間、救護所の布がもう一度揺れて、法務卿アシュが入ってきた。
最悪のタイミングで最強の人が来た時の、あの安心感。
アシュは一言も前置きせず、黒い紙を机に置いた。
「同意取得手順。署名しろ」
トルストンが速読して、顔を歪める。
条文は短い。
・重大な同意は、睡眠確保後に行う
(最低でも連続4時間)
・同意取得は、神殿医療と魔王軍医療の立会い必須
・同意取得の場での大音量祈祷は禁止
・違反があれば当該同意は無効
・同意書は双方控え、同文署名
逃げ道がない。美しいくらい逃げ道がない。
トルストンが紙を叩く。
「ふざけるな! 王都の監察が——」
「監察はできる」
アシュが切った。
「監察官は立会人になれる。支配者にはなれない」
グランが入口の外から、のんびり声を投げる。
「ほれ。紙は踏んだら逃げられんぞ」
トルストンの拳が震え、止まった。
ここで破れば、昨日までの“国境安定化”の看板が吹き飛ぶ。看板が吹き飛ぶと、王が怒る。監察官は王に怒られる。監察官はそれが一番嫌い。
渋々、署名が落ちた。王印。
エレナも署名。古神殿印。
フェリクスが、救われた顔で神殿印を押した。
紙が成立した瞬間、悠斗の呼吸が少し深くなる。
トルストンは同意書を引っ込め、冷たく言い捨てた。
「いいだろう。では“睡眠確保後”だ。逃げるなよ」
俺は淡々と返した。
「逃げません。枠の中でやります」
トルストンが出ていく。
救護所に残った空気が、少しだけ柔らかくなった。
悠斗が小さく呟く。
「……紙って……すごい……」
「すごくない。ずるいだけ」
「ずるいの、いい……」
その言い方に、俺は一瞬言葉を失った。
子どもが“ずるいのがいい”と言わないと生き残れない状況が、すでに終わってる。
ナディアが毛布を整えながら言った。
「今は寝て。四時間。守る」
悠斗が頷く。瞼が重そうだ。
俺は立ち上がって、救護所の外へ出た。
膜の外は、賛歌が少し大きい。うっすらと頭がざわつく。
録音札を押す。
「女神様すばらしい」
棒読みで押し返す。
そして思う。
同意書は、紙の刃だ。
刃を握るのが監察官じゃなく、本人であるように。
そのために、俺は手順を増やす。
弾倉を閉じるまで、テンポよく、手早く、泥臭く。




