第20話 中立救護所は、誰の味方でもない
国境の“旗の内側”に、新しい布が張られた。
白い布に、黒い糸で一本線。上手い絵じゃない。むしろ雑だ。でも、雑な方がいい。読める奴だけが読めばいいルールだ。
中立救護所
武器持ち込み禁止
拘束禁止
祈祷・呪詛は小声
記録は双方署名
最後の一行だけ、法務卿アシュの筆致が刺さっていた。文字が“逃げない”。
「……救護所って、戦場で一番揉める場所なんだよな」
俺が呟くと、軍務卿グランが穏やかに笑った。
「だから揉めぬように、最初から揉める紙を置く」
紙で揉めを止める。変な世界だ。
中立救護所の入口で、王都監察官トルストンが不機嫌そうに腕を組んでいた。
「魔族の医療など信用できん」
「信用しなくていいです」
俺は淡々と言った。
「信用しないために、神殿の医療が立ち会う。記録も残す。あなたは監察する。これ以上、何が必要ですか」
トルストンが言い返す前に、古神殿の聖別官エレナが口を挟んだ。
「合理です。こちらも監視できます」
監視できる、が本音。ありがたい本音だ。人は綺麗事より本音で動く。
神殿側の医療担当として、フェリクスが連れてきたのは若い治癒神官だった。外套の下に、道具袋。目つきが真面目すぎて、逆に危ないタイプ。
「神殿治癒官、マリナです。……魔族と同じ空気を吸うのは初めてです」
正直だな。
救護所の反対側から、魔王軍の医療担当が現れる。
「医療官ナディア。サキュバスです」
名乗りの一瞬、マリナの眉が跳ねた。
「……サキュバス」
「ええ。医療担当です」
ナディアは動じない。むしろ動じなさすぎて、職人の目をしている。
その後ろに、研究医療卿ユーリがいる。時計を見ている。いつも通りだ。
「計測する。余計な刺激は避けろ」
マリナが小さく言った。
「……刺激、とは」
ユーリは淡々と返した。
「祈りの音量、聖具の光量、怒鳴り声、思想」
思想まで刺激扱い。笑えないが、当たっている。
トルストンが苛立ったように手を振った。
「いい。さっさと“比較対象”を入れろ」
その言葉に、俺の奥歯が軋んだ。
布で顔を隠した少年――神谷悠斗が、護衛に囲まれて運ばれてくる。歩いていない。歩ける状態じゃない。
額は汗。唇は乾いて、青い。目は焦点が合っていないのに、何かに怯えている。
礼拝堂の賛歌が遠くで鳴っている。ここまで届く音量だ。わざとだろう。
俺の頭の奥がむずっとした。
女神様は――
録音札を押す。
「女神様すばらしい」
棒読みが、今日はいつもより苦い。
ナディアが悠斗の顔を見た瞬間、表情が一段硬くなった。
「……寝ていませんね。この子」
マリナが反射的に言い返す。
「神殿の祈りは癒しです!」
「癒しにも、量があります」
ナディアは淡々と返す。
「水だって、飲ませすぎれば溺れる」
マリナが言葉に詰まる。ユーリが間に入った。
「まず遮音」
ユーリが指を鳴らすと、救護所の入口に薄い膜が張られた。外の音が一段落ちる。礼拝堂の賛歌が、ようやく“遠い音”になる。
悠斗の肩の震えが、ほんの少しだけ落ち着いた。
俺は横で、小さく言った。
「……今の音、毎晩浴びせられてたんだろ」
悠斗は答えない。でも、指先が学生証の入った胸元を探して、ぎゅっと掴んだ。返したカードが、ちゃんと本人のところにある。それだけで少し救われる。
マリナが、慎重に近づいた。
「治癒を施します。痛みを取らないと」
エレナが頷く。
「同意します。ですが、強い聖光は避けてください。反応が跳ねます」
マリナが驚いた顔をする。
「聖別官が、聖光を避けろと?」
「今日は技術の話です」
エレナはぶれない。政治じゃなく技術で動く。それが今は助かる。
マリナが、小さな祈祷だけで手を翳す。淡い光。優しい温度。
悠斗が息を吸い、吐く。少しだけ呼吸が整う。
……が、次の瞬間。
悠斗の喉が勝手に動いた。
「め……が……」
声が詰まる。痛みをこらえる顔。
俺はとっさに、否定しない言葉を投げた。
「大丈夫。言わなくていい。ここは“準備”の場所だ」
悠斗の目が、俺に向く。薄く開いた口が震える。
「……じゅん、び……?」
「そう。準備。休む準備。帰る準備」
帰る、の単語に反応したのが分かった。こめかみの力が少し抜ける。話の型だ。物語に乗らずに、型を借りる。
ナディアが悠斗の手首に触れ、脈を取る。
「熱が高い。脱水。胃も荒れてる。……これ、戦わせる前の体じゃない」
トルストンが鼻で笑った。
「勇者は多少の不調で折れん」
ナディアが、ゆっくりトルストンを見る。
医療官の目だった。戦場の目より怖い種類。
「折れますよ。人間は」
短く言い切った。
マリナも、悔しそうに唇を噛んで言った。
「……折れます。だから治す」
ここだけは一致した。
ユーリが淡々と板を覗き込みながら言う。
「祝福層、揺れが強い。お前、抵抗している。無意識で摩耗している」
悠斗がかすかに首を振る。否定じゃない。苦しいんだ。
俺はトルストンを見た。
「監察官。救護所は中立です。命令するなら、紙にしてください。今の言葉は刺激です」
トルストンの顔が歪む。
刺激と言われて黙る監察官、という絵面がすでに面白い。面白がってはいけない。
エレナが淡々と追撃した。
「彼が壊れれば、王都の成果も壊れます」
成果。効く単語。最悪だが効く。
トルストンは、舌打ちを飲み込んで一歩下がった。完全に下がらないのが彼らしい。
治療が進むにつれて、悠斗の目が少しずつ“ここ”に戻ってくる。焦点が合う。俺を見て、布の下で何か言おうとして、また詰まる。
俺は近づきすぎない距離で、低く言った。
「神谷くん。聞こえるか」
悠斗のまつ毛が震える。
「……はい」
声が出た。小さいけど、出た。
俺はそこで初めて、試すように短く言った。
「日本、だよな」
悠斗の目が見開かれた。
布の下で、息を飲む音がした。
「……なんで……」
「俺も、そこから来た」
それだけ言った。
余計な説明はしない。今は治療が先だ。物語を増やしたら、また詰まる。
悠斗はしばらく固まっていたが、胸元の学生証を握り直して、小さく頷いた。
その頷きが、さっきまでの“従う頷き”じゃなかった。
自分の意思で、肯定した頷きだった。
ナディアが、真面目な顔で言った。
「よし。熱は少し下がる。今日は寝かせる。護衛は外。中に武器は要らない」
マリナが頷く。
「同意します。……護衛が反対するなら、私が神殿側に言います」
言えるんだ。意外と骨がある。
トルストンが言い返そうとして、エレナに止められた。
「今日は救護所の枠です。署名しました」
紙は、こういう時に強い。
救護所の外へ出ると、空気が冷たかった。礼拝堂の賛歌がまた少し大きく聞こえる。
頭の奥がむずっとする。
録音札を押した。
「女神様すばらしい」
抑え込んで、息を吐く。
中立救護所は、誰の味方でもない。
でも今だけは、少なくとも一人の子どもの味方になれる場所になった。
俺は、救護所の布を見上げた。
旗の内側を増やす意味が、ようやく一つ“人の形”を持った気がした。




