第19話 落とし物の持ち主
セラが戻ってきたのは、夜が深くなってからだった。
いつもなら扉も叩かずに入ってくるのに、今日は一応ノックをしてきた。そういう時はだいたい、笑えない話を持っている。
「入って」
セラは入るなり、机の上に二つ置いた。
一つは、神殿印の受領札。
もう一つは、薄い紙束。
「届けた。受領の証拠も取った。……で、返事」
「どうだった?」
「向こう、乗ったよ。“落とし物の返還”の体裁にしたのが効いた」
セラは肩をすくめる。
「王宮は怒ってたけど、怒りながらも『慈善の成果』って言葉に弱い。神殿も弱い。便利だね、成果」
「便利な言葉ほど嫌いです」
「うん、でも使う」
セラは紙束の一枚を指でトントンと叩いた。
「明日の朝、国境。返還の立会い。立会人は前回と同じ枠にするって。拘束なし、越境なし、記録は同文で署名」
……間に合った。
俺は胸の奥の固まりを、少しだけほどいた。
「本人は出てくる?」
セラの笑顔が一瞬だけ消える。
「出てくる。出てこさせる。神殿側が“本人確認が必要”って言った」
「体調は」
「良くない」
セラは淡々と言った。
「“比較対象”って名目で連れてこられて、礼拝堂の近くに置かれてる。賛歌が一晩中。まともに眠れてない顔だった」
胃の奥が冷えた。
あの手の若い子に、あれは効く。効くように作られてる。
壁際の装置が、相変わらず鳴いている。
「メガミサマアリガトウゴザイマス……」
俺は反射で録音札を押した。
「女神様すばらしい」
棒読みの音で、頭のノイズを押し戻す。
セラが軽く笑った。
「うん。ほんと便利」
「便利で最悪です」
「最悪で便利なものが、この世界を動かすんだよ」
言い返せないのが腹立つ。
扉が二回、短く叩かれた。
「入る」
法務卿アシュが入ってきた。空気が一段固くなる。
「返書は届いたか」
「届いた。返事も取れた。明朝、国境で返還の立会い」
アシュは頷き、机の上に黒い紙を置いた。
「返還手順の付録だ。署名を追加で取る。返還物は本人の身元確認と健康安全に供するのみ。王宮による没収、公開、破棄を禁ずる」
「署名しますかね」
「署名しないなら返さない」
「それで“人質”って言われたら」
アシュが即答した。
「言えない枠にする。神殿の慈善として返す。王宮が拒否すれば“未成年の身元確認を拒否した”になる」
また枠。結局そこに戻る。
セラが指先で机を撫でた。
「じゃ、明日は“返還式”だね」
「式じゃなくて会談です」
俺が言うと、セラがにやりと笑う。
「式にした方が強いよ。見られるから。見られると嘘がつきにくい」
嫌な方向に正しい。
アシュが短く言った。
「余計な演出は要らん。だが記録は残せ。記録は盾だ」
――
翌朝。
国境は、昨日よりさらに“引っ越し”が進んでいた。
王家の旗は増え、テントは整列し、礼拝堂は堂々と鎮座している。あの白い布の塊があるだけで、空気が乾く。
俺の頭の奥が、早速むずっとした。
女神様は――
録音札を押す。
「女神様すばらしい」
棒読みで押し返す。情けないけど、倒れるよりマシだ。
境界線の内側に、机が置かれていた。今日は、ちゃんと線の内側にある。学習したらしい。腹立つ。
王都監察官トルストンが前に出てくる。
「王都監察官トルストン=ヴァイス。王命により立会う。返還は迅速に行え」
迅速に、の言い方が“俺のものだ”に聞こえる。
半歩後ろに聖別官エレナ。掌の聖具が淡く光っている。見るだけで喉が乾く。
「古神殿、聖別官エレナ=サルヴァ。返還物が祝福層に影響しないか確認します」
確認、の名目は万能だな。
神殿側はフェリクスとルーカス。フェリクスは昨日より顔色が悪い。ルーカスは相変わらず目が冷静で、机と境界線と礼拝堂の距離を測っている。
こちらはグランとアシュ、俺。護衛の不死兵と植物兵が後ろに控える。
アシュが黒い紙を机に置いた。
「返還手順の付録。署名してから始める」
トルストンが鼻で笑う。
「また紙か」
「まただ」
アシュは短い。
トルストンが紙を掴み、速読し、眉を寄せる。
「没収禁止? 王国の安全保障に関わるものを――」
俺は一歩も動かず、淡々と口を挟んだ。
「安全保障なら、なおさら“本人確認”が先です。持ち主が誰かも確定していないものを没収するのは、あなたの仕事じゃない」
トルストンが睨む。
「背教の勇者が――」
「呼称は政治です」
エレナが、あっさり切った。
「手順の文書に書くべきではありません」
味方に刺される形で、トルストンのこめかみが動く。
結局、署名が落ちた。王印。古神殿印。神殿印も添えられる。
紙が成立した瞬間、グランが穏やかに言った。
「よし。では“落とし物”の持ち主を呼べ」
トルストンが一瞬だけ黙ってから、手を振った。
隊列の奥から、布で顔を隠した小柄な影が出てくる。
昨日見た子だ。
肩が細い。歩幅が小さい。護衛に囲まれているのに、足元がふらついている。熱がある人の歩き方だ。
ルーカスが小さく息を吐いた。
「……体調が悪い。儀礼の場に出す状態ではない」
フェリクスが苦しそうに言う。
「監察官殿、せめて椅子を――」
「立て。比較対象だ」
トルストンの声が冷たい。
比較対象。
その言葉だけで、俺の奥歯が軋む。
俺は机の上に、封をした返還物の包みを置いた。アシュが保管していた原本だ。封の糸が黒く光っている。
「落とし物です。本人に返します」
エレナが聖具をかざす。淡く光って、頭の奥がざわついた。
女神様は――
俺は録音札を押す。
「女神様すばらしい」
エレナがほんの少しだけ眉を動かした。
「……制御しているのですね」
「体調管理です」
真顔で言い切るしかない。
アシュが封を切った。中から透明なカードが出る。
その瞬間、布の影の体が、ぴくりと反応した。
目だけが、カードに吸い寄せられる。
俺はカードを見せる角度を変え、できるだけ穏やかに言った。
「これ、君のだよな。落としただろ」
布の影が小さく頷いた。
頷き方が、子どものそれだった。反抗の余地がない時の頷き。
俺はカードを、机の上に置いたまま滑らせた。境界線は越えない。だが机の上なら、双方の手が届く。
布の影が手を伸ばす。
護衛が一瞬止めようとして、エレナが目だけで制した。
「触れさせてください。反応を見ます」
……観察対象にされてる。腹が立つ。でも今は、触れさせる方が勝ちだ。
指先がカードに触れた瞬間。
布の影の肩の震えが、ほんの少しだけ落ち着いた。
カードが“錨”になった。俺の直感がそう言った。
布の影が、かすれた声で言おうとする。
「……か……み……」
喉で言葉が折れる。痛いんだ。見て分かる。
俺はすぐに口を挟んだ。否定しない、折らない、詰まらせない。
「ゆっくりでいい。無理に言わなくていい。これは君のだ。返した。それでいい」
布の影が、カードを握りしめたまま、もう一度息を吸う。
「……かみや……」
次の瞬間、声が少しだけ通った。
「……ゆうと」
名前が出た。
出せた。
周囲の空気が一段変わる。王宮の護衛がざわつき、神殿騎士が槍を握り直す。
トルストンが勝ち誇ったように言った。
「ほら見ろ。祝福反応が一致する。勇者だ」
エレナが即座に釘を刺す。
「勇者であることと、拘束してよいことは別です。今日の枠は返還と確認です」
トルストンが歯を食いしばる。
俺は、その隙に一言だけ足した。
「神谷くん、座れ」
命令じゃなく、お願いの形で言ったつもりだった。
だが布の影――悠斗は、反射みたいに従った。護衛が用意していなかった椅子を、ルーカスが無言で引き寄せて座らせる。
ルーカス、仕事が早い。こういうところが古神殿筋だ。
悠斗の肩が落ちた瞬間、俺は確信した。
こいつ、もう限界が近い。
エレナが淡々と言う。
「体温が高い。睡眠不足。祝福層の摩耗も始まっています。……このまま礼拝堂の近くに置くのは良くない」
トルストンが苛立つ。
「弱音だ。勇者は――」
「勇者でも人間です」
エレナが切った。
「壊れたら使えません」
使えません、が本音なんだろうな。腹立つ。でも、その腹立ちを利用できる。
俺は一歩も動かずに、淡々と提案した。
「中立の医療区を作りましょう。旗の内側。神殿と魔王軍、双方の医療が立ち会う。回収路と同じ枠です」
フェリクスが息を飲む。
「それは……神殿の慈善として――」
「できます」
俺は即答した。
「王宮は“国境安定化”の成果になる。神殿は“救護”の成果になる。古神殿は“安全管理”の成果になる」
成果、成果、成果。
嫌いだけど効く言葉を並べた。
リリアがいたら褒めそうだ。褒められたくない。
トルストンが反射で言い返す。
「魔族の医療など信用できん」
俺は首を振らない。否定で詰まらせない。
「信用しなくていいです。だから双方立会い。双方記録。双方署名。破れば“慈善を破った”と記録に残る」
エレナが頷いた。
「合理です。今日の枠に追加できます」
また味方に刺される形で、トルストンの顔が歪む。
グランが穏やかに笑った。
「ほれ。旗の内側が増えたのう」
最終的に、トルストンは口をへの字にしたまま頷いた。
「……よい。だが医療区は監察官が監督する」
俺は即答した。
「監督役は双方です。あなた一人だと、また机がずれます」
セラがいないのに、どこかで笑い声が聞こえた気がした。気のせいだと思いたい。
トルストンが黙る。黙るしかない。机の件は効きすぎる。
こうして、返還は完了した。
そして、返還のついでに――旗の内側に“医療区”が一つ増えた。
悠斗は学生証を胸に押し当てたまま、ぼんやりと俺を見た。
言葉を探している目だった。
俺は、その目から逃げないように、でも逃げたい気持ちを押し込めて、静かに言った。
「……大丈夫。いきなり戦わせない。手順で止める」
悠斗は、小さく頷いた。
その頷きが、さっきより少しだけ“自分の意思”に見えた。
俺の仕事は、ここからだ。




