第17話 比較対象は、弾だった
会談議定書に署名が落ちた瞬間、空気が少しだけ変わった。
剣が引っ込んだわけじゃない。引っ込めた剣の置き場所が「紙の上」に移っただけだ。それでも十分ありがたい。剣は嘘をつかないけど、紙は嘘をつける。だからこそ、嘘をつけない形に縛れる。
王都監察官トルストンが机を叩いた。
「確認を始める。久我幹人、前へ」
俺は境界線の内側、机の手前で止まったまま言った。
「その前に、立会人の一覧を確定してください」
トルストンが眉をひそめる。
「そんなものは後でいい」
「後だと揉めます。揉めるのはあなたの仕事じゃない。僕の仕事です」
口にしてから気づく。言い方がだいぶ腹立つ。だが今は必要だ。揉める材料を先に潰す。
法務卿アシュが短く言った。
「議定書に付す。誰が見て、誰が記録し、誰が責任を持つか。書け」
軍務卿グランがにこやかに付け足す。
「ほれ。王都は手続きが好きじゃろう? 好きなだけやれ」
嫌味が丁寧すぎて怖い。
トルストンは舌打ちし、巻物を取り出して読み上げた。
「王都監察官トルストン。聖別官エレナ。神殿外務補佐フェリクス。古神殿付祭儀官見習いルーカス。以上だ」
俺は視線を、さっき見えた布の影に向けた。
「後ろの随行は?」
空気が止まった。
トルストンの視線が一瞬だけ揺れ、すぐ元に戻る。
「関係ない」
「関係あります」
俺は言い切った。
「立会人が増えると、確認の結果の扱いが変わる。議定書に署名した以上、未記載の者は会談の枠に入れられません」
エレナが、静かに言った。
「技術的にも必要です。未記載の者が聖具の反応に影響する可能性があります」
味方に刺されて、トルストンのこめかみがぴくりと動く。
「……随行の書記官だ」
「名前を」
俺が言うと、トルストンは一瞬黙った。知らないんだろう。知らない書記官を連れてきたわけじゃない。名前を出せない人間を連れてきたんだ。
ルーカスが淡々と呟いた。
「書記官にしては、護衛が厚いですね」
やめろ。観察するな。正しいけど。
トルストンが手を振った。隊列の奥から、布で顔を隠した小柄な影が、いやいや前へ押し出される。
若い。肩が細い。護衛に囲まれていて、本人の足取りだけがふらついている。
布の下から、かすれた声が漏れた。
「……ユウ……」
言葉が続かない。喉に針が刺さったみたいに途切れる。
その瞬間、俺の胃が冷えた。
国境で見たのと同じだ。言葉が詰まる。痛みを堪える仕草。鉄砲玉の仕様。
エレナの聖具が、わずかに強く光った。
それと同時に――布の影の胸元が、ほんの一瞬、淡く光った。
俺は息を止めた。
グランが、穏やかな声で言う。
「ほう。机の上だけでなく、弾まで持ってきたか」
トルストンが顔を赤くする。
「違う! 比較のためだ!」
比較。最悪の言い訳だ。
エレナが淡々と確認する。
「比較対象が必要なのは事実です。同種の祝福反応が見えます。……この子も勇者召喚の痕跡があります」
布の影が、肩を小さく震わせた。護衛が乱暴に押さえる。俺の奥歯が軋む。
アシュが低い声で言った。
「議定書違反だ。未記載の勇者を持ち込むな」
トルストンが食い下がる。
「確認に必要だ! 背教の勇者が嘘をついている可能性がある!」
「嘘かどうかは、手順で詰めろ」
アシュの声は冷たい。
「人を弾にするな。紙を弾にしろ」
俺は一歩も動かずに、トルストンを見た。
「監察官。あなたが今やっているのは、確認じゃない。脅しです」
トルストンが反射的に言い返す。
「王命だ!」
「王命は紙の上にあります」
俺は机の議定書を指で叩いた。
「そして、あなた自身が署名した。今日の枠は確認だけ。持ち込んだ勇者は、枠の外です。枠の外のものを盾にした瞬間、あなたの署名は意味を失う」
トルストンの目が、いっきに険しくなる。だが踏み込めない。踏み込めば越境で、戦争だ。王宮は戦争が欲しいわけじゃない。欲しいのは“正義の形”での拘束だ。
エレナが、布の影に視線を向けたまま言った。
「この子は今、状態が良くありません。ここに置くべきではない」
トルストンが歯を食いしばる。
「……下げろ」
護衛が布の影を引きずるように下げた。布の裾がめくれ、その瞬間だけ、透明なカードが見えた。
白いプラスチック。角が擦れている。人間国のものじゃない。見覚えがありすぎる。
俺の胸が、嫌な音を立てた。
だが今は拾えない。拾った瞬間、物語が増える。
俺は視線を戻した。
「確認を続けましょう。あなたが望む確証は、僕一人で取れます」
トルストンが吐き捨てるように言う。
「いいだろう。だが結果は王都へ持ち帰る」
「持ち帰ってください」
俺は頷く。
「その代わり、“ここで執行しない”も持ち帰ってください」
アシュが黒い紙を追加で机に置いた。
「付録だ。未記載の当事者を持ち込まない。持ち込んだ場合、会談は即時中止。署名しろ」
トルストンが顔を歪める。
「……横暴だ」
「横暴はお互い様だ」
グランが穏やかに言う。
「お主らが越境できぬように、こちらは不死兵を置く。こちらが拘束されぬように、お主らは紙に署名する。釣り合っておる」
結局、署名が落ちた。王印が押される。エレナも印を押す。フェリクスは胃が痛そうな顔で見守り、ルーカスは淡々と記録する。
ようやく本題だ。
エレナが聖具を持ち上げる。礼拝堂から賛歌が漏れ、頭の奥がざわついた。
女神様は偉大だ。女神様は――
俺は録音札を押した。
「女神様すばらしい」
棒読みの声が鳴る。ぎりぎり持ちこたえる。
エレナが小さく眉を動かした。
「……自動化しているのですね」
「体調管理の手順です」
俺は真顔で言った。
セラが背後で肩を震わせている。笑うな。
エレナは淡々と続ける。
「祝福層は確かにあります。契約層が上に重なっている。摩耗は進行中。今日の結果としては――乱暴な処置は禁止。経過観察。国境合同確認の継続が妥当」
トルストンがすぐに噛みつく。
「だが背教は――」
「呼称は政治です」
エレナが切った。
「確認結果ではありません」
トルストンが口を閉じた。面子が潰れた顔だ。だが、潰れてくれないとこっちが潰れる。
俺はすかさず言った。
「確認結果の記録は、双方で同文にしましょう。ここで署名して持ち帰れば、ねじれません」
アシュが黒紙に記録文を走らせる。速い。怖い。だが頼もしい。
トルストンは渋々署名した。エレナも署名する。フェリクスも、立会人として名を記す。ルーカスが淡々と控えを取る。
紙が積み上がる。旗の内側が、少しだけ広がる。
会談が終わり、人間側が引き上げにかかったときだった。
さっきの布の影が通った場所に、何かが落ちていた。
透明なカード。薄い。角が擦れている。
俺はグランの背後に隠れるようにしゃがみ、さっと拾った。手の中で、懐かしい硬さがした。
カードの上に、小さな文字が見えた。
学生証
写真の中の顔は、まだ幼い。目が怯えている。背景に見覚えのある制服の襟。名前の欄に、漢字。
心臓が一回、余計に跳ねた。
……俺だけじゃない。
この世界は、また日本の子どもを弾にした。
俺はカードを握り締めたまま、何事もなかった顔で立ち上がる。
トルストンたちは気づいていない。気づかれてはいけない。
グランが、俺にだけ聞こえる声で言った。
「拾ったか」
「……はい」
「重い拾い物じゃのう」
「重すぎます」
アシュが低く言う。
「そのカードは武器にもなる。盾にもなる。使い方を間違えるな」
分かっている。
でも、握り潰したくなるくらい腹が立つ。
勇者は英雄じゃない。弾だ。
そして今、弾は二発になった。
俺は礼拝堂の賛歌に背中を押されないように、録音札をもう一度押した。
「女神様すばらしい」
棒読みの声が鳴る。
その音が、ひどく惨めで、ひどく現実的だった。
次にやるべきことは決まった。
あの子を、弾にさせない。
旗の内側を増やすんじゃない。
弾倉そのものを、紙で閉じる。




